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54 裂心


 少し時は遡る――。


 賢者として引き上げられたレキは、新たな部屋へと移され、そこに敷かれた布団に寝かされていた。


 ゆっくりと、その金の瞳を開ける。


 天井は竹のような素材で組まれた網代文様。それを、静かに眺めた。

 ほとんどオシの好みの建材で造られた、賢者のための建造物。香が、向こうの部屋から漂ってくる。世話人である苗人なえびと達が歩き回る音も、遠くから聞こえてきた。


 執行者の時に与えられていた部屋は、ただ、白かった。

 それに対して、これまでは好きも嫌いも抱くことはなかった。

 だが、この“趣”のある部屋を、レキは心地良いと感じている。


 体を起こし、自分の髪に触れる。

 その手のひらも、ゆっくりと見つめた。


 ――以前よりも。


 壁には、まだほとんど物の入っていない棚。オシが“好きなものを集めて詰めたらいい”と言っていたそれを、眺める。

 それから、窓。文机。箪笥。


 ――すべての色を、濃く感じる。


 まだ、体は重い。


 引き上げられた直後は、あまりにも頭が重く、熱く、とても動ける状態ではなかった。やっと熱が引き、こうして自力で起き上がれるようになったのだ。

 

 レキは枕元に置かれていた器と水差しに目を留めると、手を伸ばした。器に水を注ぐ。


 レキは、その音が好きだった。


 水差しの高さを変えてやると、それだけで音が変わる。

 レキは静かに水差しを置き、器を手に取る。それを覗き込んだ。

 自分の金の瞳。

 ルミナリスの系譜の人間たちは皆、銀の髪と金の瞳を持つ。その容姿は、青星に行くたび“月のようだ”と言われる。だが、実際のルミナリスは銀でも金でもないのだ。物事を例えるというのは面白いものだ――と、そうレキは感じた。


 器を傾け、水を煽る。

 

 その時、すっと戸が開いた。


 苗人であれば、勝手に開けはしない。オシあたりだろうかと見当をつけて、レキは顔を上げた。


「……シキではないか」


 自分で、自分の口元が綻ぶのがわかる。執行者の時は笑ったことなどなかった。意識せずとも表情が自然に変わるのは、まだどうにも慣れない。


 シキは戸を閉め、レキの布団の脇に腰を下ろした。


「起き上がれるのか」

「あぁ、だいぶ身体が軽くなった」

「そうか」


 レキは、シキの瞳を見つめた。

 執行者の中で、シキの瞳は一番薄い色をしていた。透明と言えそうなほどに澄んだ瞳。レキは、それを美しいと思った。


「レキ」


 レキは視線だけでシキに応える。


「執行者一同は、ご嫡子の排除を決めた」


 レキは眉をわずかに歪めるが、シキの表情は微動だにしなかった。

 レキは息を吐き出し、もう一度その瞳を覗き込むようにして見つめる。


「……なぜだ。

 ルミナリスの系譜を青星に一つ落としたところで、致命的に何かが変わるわけではないのだ。

 我らはこのルミナリスの秩序さえ守れれば良い。

 ――我は、そう思う」


 シキは瞳を伏せる。


「レキは……本当に賢者になったのだな。

 執行者の思想など、もう、見えはしないのだろう」

「シキ……」


 レキが手を伸ばして、膝に置かれたシキの手に触れるが、シキはそれを振り払うことはしなかった。


 だが、シキは腰をわずかに持ち上げ、片腕を伸ばしてレキを強く胸に抱き寄せた。


 途端――

 レキから、小さなうめき声が漏れる。

 

 レキの体に押し付けられたのは、シキの小刀。レキの腹に深く突き刺される。


 シキはレキから身体を離し、小刀を無造作に引き抜くと、血を払った。


 それは、白い布団をじわりと濡らしていった。


 呼吸の仕方さえ、分からなくなる。

 身体から、熱が急速に失われていく。


 レキはその赤を、見下ろした。

 

「お前に動かれては困る。戦闘能力も、お前が一番上だった。

 レキ、お前はまだ寝ていろ」


 レキは震える呼吸を短く吐き出す。

 そして、手のひらで腹を抑えた。

 真っ赤な血が、手のひらをぬるりと染める。


 衣擦れの音。


 シキは、レキを見下ろしながら立ち上がった。


 レキはシキの裾を、血に汚れた手で掴み、その顔を見上げる。


「シキ……なぜ……」


 シキは静かにレキを見ていた。


「シキ……。我らは友人ではなかったのか……」

「“ユウジン”とはなんだ」


 レキは目を見開き、シキの薄い金の瞳を見つめた。

 息だけが、吐き出される。

 レキはもう一度口を開くも、どうしてもそれは言葉にならなかった。


 シキは掴まれた裾を払い、戸を開けて部屋を出ていく。


「……待て! シキ!」


 彼は、振り返らなかった。


「シキ!!」


 別方向から、廊下を走る音が聞こえてくる。

 レキの声に気づいたオシが駆けつけてきた。


「……レキ!」


 オシはレキの腹の傷に気づくと、足を止めた。

 顔色をわずかに悪くさせ、息を呑む。


 彼は苗人を呼びつけると、慌ててその腹に触れて止血を施しはじめた。


 レキは、オシと苗人に囲まれながら再び布団に押し戻される。


 だが、レキはただ呆然と、血に汚れた手で顔を覆った。


 “これまで疑問に思わなかったことを疑問に思うようになり、分からないことがあまりにも増える”

 

 以前、オシに言われた言葉。

 

「レキ……」


 レキの前に腰を下ろし、心配そうに見つめてくるオシの体を、レキは腕を伸ばして引き寄せた。


 身体が震える。

 瞼の奥が、ずんと重くなった。


 レキは、オシのその肩に顔を押し付け、

 ――生まれて初めて、彼は泣いた。


 

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