52 暮刻
辺境伯邸厩舎。
セレイヴたちはあれこれと話しながら、そこから出てきた。
「早駆け……あんなにしなくても……」
「いやぁ! セレイヴは飲み込みが早いから、つい教えたくなっちゃってな」
セレイヴがうんざりとしながら言うと、カスパーは笑ってその背を叩いた。付き合わされたマティアスはいつもより言葉少なに、オリバーは涼しい顔で二人の後をついて歩く。
土から石畳へと道が変わると、乗馬ブーツで踏んだ時の音がはっきりと変わる。彼らの軽い音が、夕焼け空によく響いた。
セレイヴは、立ち止まって夕陽を眺めた。
いつもより大きく見える真っ赤な太陽。
千切られたような雲は、まるで夕日に吸い込まれていくようだ。空の半分はもう藍に染まり、真っ白な月と星々が浮かんでいた。
冷えた風が、彼の銀の髪をなびかせる。
セレイヴは邸宅の建物に視線を巡らせた。この美しい夕陽を彼女もどこかで見てやしないか、と。窓ガラスは夕陽を返し、どこも赤く染まって見えた。だが、今いる場所からでは、リディアの部屋の窓は見えない。
彼は瞳をわずかに伏せると、また歩き出した。
本邸は経由せず、別棟玄関にそのまま向かう。一歩歩くたび、陽がゆっくりと落ちて、石畳が少しずつ影に濡れていく。
邸宅の外側のあちらこちらに篝火が灯され始めた。
玄関口に立っていた騎士たちが、セレイヴたちに気づくと軽く頭を下げる。
セレイヴもそれに返そうとして――
だが、彼は振り返った。
「……セレイヴ様?」
セレイヴはマティアスの腕を引き、自分の側に寄せる。
「……いる」
カスパーとオリバーは二人を挟むようにして立つと、辺りをうかがった。
いつもの変わらぬ、夕の辺境伯邸。
彼らにはそうとしか見えない。
カスパーはセレイヴにわずかに顔を寄せ、声を落とす。
「……セレイヴ、使者か?」
「多分、そう。レキじゃない」
玄関前にいた騎士に合図を送り、応援を呼ばせる。一人は邸内へ、もう一人は早馬を飛ばすために厩舎へと駆け出した。
オリバーも声をひそめる。
「……カスパー様。ご判断を。
使者である場合、邸内へ入ったからといって安全とは限りません」
「ならばせめて見晴らしがいいほうがいいか」
オリバーとカスパーは視線を合わせ、頷く。
「セレイヴ、マティアス。馬に乗れ。オリバーを伴い、辺境騎士団訓練場へ向かって応援を得るんだ。そこまでたどり着ければ父上がいる。父上の判断に従え。俺は後から追う」
セレイヴとマティアスが頷き、踵を返した。
だが――
「こちらの気配に気づくとは。さすが陛下の血を継ぐだけはある」
篝火の明かりが男の白い肌に滑り、揺れた。
オリバーの眼前。
背でひとつにまとめられた銀の髪。細められた金の瞳はまっすぐにセレイヴをとらえていた。
オリバーが片腕を伸ばし、セレイヴとマティアスを庇って立つ。わずかにその指先は、震えていた。
男が、ゆっくりと口を開く。
「我が名はルミナリスの執行者ナガ。
ルミナリスの御名において、この刃を示そう」
艶のある、低い声。
ナガはゆっくりと腰から刀を抜いた。
まだ西にわずかに残る陽が、刃に映り込む。
カスパーがオリバーを押しのけ、ナガの前に剣を構えて立った。
「オリバー! 行け!!」
オリバーは一瞬息を呑み、セレイヴとマティアスの腕を掴むと駆け出す。
追おうとしたナガの顔横に、カスパーは剣を突きだした。
ナガは軽く身を引いてそれを躱す。
「行かせるわけないだろう! 俺が相手だ!」
ナガは無表情のままカスパーを見つめ、ほんのわずかに口端を持ち上げて見せた。
「いいだろう。
我はここでうぬと刃を交えよう。
我はすぐに彼らの後を追うことになろうが」
「余裕ぶりやがって……」
カスパーの声がかすかに震えている。
ナガは何も答えず、カスパーから距離を取り、改めて刀を構えた。
騎士たちが邸内から駆けつけてくる。
彼らも、距離をとってナガを囲んだ。
その円の中央、ナガは静かに立つ。
西日。
赤い陽が、その金の瞳に滲む。
使者は、視線だけで彼らを見回した。
向こうへ駆けていくセレイヴたちの背をちらと見ると、また、カスパーを見つめる。
(セレイヴを追う気はないのか……。――もしかして……)
彼は、右手に刀を持ち、左腕をゆっくりと持ち上げた。
左手をカスパーに向けると、手招くような動作をする。
「蛮族ども、来い」
カスパーが踏み込む。
だが、視界から男が消える。
「目で追うな! 見たら足を止められる! 極力気配を追え!」
剣を勘で振る。
音は、空気が斬られるその音だけ。
近くで悲鳴が上がる。
騎士の一人の鎧が斬られた。
カスパーは奥歯を噛み締める。
途端――背筋が粟立つ。
振り返り、身を引いた。
目の前を白刃が過ぎる。
「よく避けたな。褒めてやる」
陽が、落ちる。
邸宅の篝火は、鈍く彼らの足元に影を作った。だが、それは月の使者の味方をするだけだ。
騎士たちはほとんど闇雲に剣を振る。
ナガは剣舞のような美しい太刀筋で、彼らを翻弄する。
篝火の赤と橙、ナガの刀からその色の光の筋が引かれた。
それはあまりにも美しく、見惚れたくなるほどだった。
(この使者の剣はまるで指導者のようだ。
俺達を本気で斬ろうとはしていないんじゃないか……)
使者の顔はずっと無表情。
だが、笑っているような気がしてしまう。
見てはいけない。
だが、見てしまいたくなる。
(つまり……これは陽動か……?)
カスパーは音がなるほどに歯を噛み締め、気配を辿り、ナガを追う。
「もっと……人を呼んだほうがいいのではないか?
我に一太刀でさえ浴びせられないではないか」
(分かっている。ただの挑発だ)
――やはり……。こいつは陽動だ。
――つまり、使者が他にも来ている。
喉が張り付き、剣を握る手にわずかに汗が滲む。
騎士たちの剣は、実際に一度も手応えを得られていなかった。
焦燥が募る。
――向こうには父上がいる。
使者一人でも、ここで足止めできればいい……。
――焦るな……。
とにかく、剣を振る。
カスパーの息が次第に上がっていく。
騎士たちの動きも徐々に鈍くなっていくのが分かる。
篝火の火が、大きく揺れた。
セレイヴたちは、駆けた。
厩舎に向かい、ただでさえ疲れ切っていた身体を叱咤し、足を動かす。
巨大な厩舎。何頭もの馬がいるその建物が視界に入る。
そこから二騎、飛び出してきた。
「セレイヴ!」
セレイヴは薄闇の中に目を凝らす。
「……リディア?」
萌黄色の騎士服を纏ったリディアとマルグリットがそれぞれ馬に跨っていた。
「セレイヴは私とともに!
マティアスはマルグリットの馬へ!
オリバー! 殿を頼みます!」
リディアが声を張り上げながら片手を差し出した。
オリバーは「はい!」と声を上げ、まっすぐに厩舎へ駆け込んでいく。セレイヴたちが彼女たちの馬に近づくと、力強く腕を引かれた。
「セレイヴ。私は幼少期より馬術を鍛え上げられてる。一年未満のあなたなんかより、よっぽど技術は上です!
私を、信じて!」
「でも!」
「乗って!」
セレイヴは同じように動揺しているマティアスと視線を交わすと、互いに頷き合う。セレイヴは馬の鐙に足をかけ、彼女の手を取って鞍の後ろに滑り込むように乗る。そしてリディアの腰を掴んだ。
「行けます!」
オリバーが厩舎から騎乗して現れるのを確認し、リディアが馬腹を蹴った。
「掴まって!」
「……うん」
「しっかり抱きしめないと落ちますよ!」
「今そんなこと言ってる場合じゃ――」
「セレイヴ!」
セレイヴはリディアに体を添わせ、しっかりと腰を抱いた。
「いい子ね!」
セレイヴは苦く笑った。馬の速度がぐんと上がる。
後ろでは騎士たちの怒声がいくつも聞こえてきた。
三騎は、辺境伯邸を飛び出した。




