51 分岐
大窓から、巨大な青星が見える。青星にぴたりと沿う白い雲は、ゆっくりとその形を変えていた。
ルナリエラの髪を櫛りながら、レキは窓に視線を向ける。明かりの灯されない部屋。青星の光だけが、静かに部屋を染めていた。
「レキ」
「……はい」
「うぬは、賢者になりたいのか」
「はい。オシからも、素養があると」
「そうだろうな。うぬは、他の執行者より……」
その先の言葉は形にはならず、鈍い星明かりにほどけていく。
「レキ」
「……はい」
ルナリエラはゆっくりと振り返ると、レキの前に座り直した。手を伸ばし、彼の頬を両手で挟む。
「賢者になると、急に視界が開けるという。
妾はオシが賢者になった瞬間を知らない。妾が幼い時からオシは賢者だったからな。
お前は、苦しむのかもしれない」
レキは女王の瞳を、ただ見つめ返した。
「それから……妾を穢らわしく思うかもしれない」
「それはどういう……」
「賢者となれば、妾よりもよく物が見えるようになるだろう。オシが……そうだからな」
ルナリエラは少しだけ、レキに顔を寄せる。
「でも、妾はうぬを宵の伴に呼び続けるだろう」
二人の呼吸が触れた。
「序列で言えば、妾はこのルミナリスの頂点にいる。うぬは所詮“選ばれし雄種”に過ぎん。拒否することは許されんのだ」
「……陛下は、何を杞憂に思っておられるのか」
「賢者となっても、うぬは、死ぬまでこの星に囚われ続ける」
「陛下」
「妾が次代の女王を産み、宙に還る日まで、うぬは妾から逃れられんのだ」
レキはわずかに眉を寄せる。
「妾が還る日が先か、うぬが壊れるのが先か」
熱が触れ、唇が重なった。
その熱が、静かにほどけていく。
女王の金の瞳はわずかに湿っていた。
「それでも、レキは賢者になりたいというのか」
「陛下は、それを望まれませんか」
視線が絡まる。
「陛下は、いつも、退屈しておられる。
賢者になれば、これまでよりも話し相手となれることでしょう。
それに、オシは自分で香を作っている。我も何か、陛下を楽しませるものを自力で作れるようになるやも知れません。
それに――」
レキがルナリエラの唇に指先で触れた。
「陛下が我に望むものを、今の霧がかった思考では、理解できない。
賢者となれば、応えることができるやも知れぬ」
「うぬは……愚かだな」
「愚かでしょうか」
レキから、ルナリエラの唇に口づけを落とす。
「賢者になったら、ルナリエラと呼んでくれるか?」
「……オシに尋ねてみます」
「うぬは……どうしようもなく、愚かだな」
「……愚かでしょうか」
ルナリエラがふっと笑った。レキはそれを、静かに見つめた。
「賢者になることを、許そう」
「……ありがたく存じます」
青星が、静かに回っている。
レキが香室に向かうと、部屋には布団が敷かれていた。オシはその脇に胡座をかいて座り、立ったままのレキを見上げる。
「寝ろ。負荷がかかる。そのまま寝込むやもしれん」
レキは大人しくその布団に仰向けになった。
「……どうやるのだ」
「俺が力を送り込んでやるだけだ。もともとお前は能力がある。封を外してやるだけ」
「……オシに負荷はかかるのか」
「過去の文献を読む限り、そうかからんだろう。
そもそも俺も、賢者の力はどこで使うものなのかが分かっていなかった。
ただ知識を蓄え、女王と執行者の話し相手になってやることだけが役割なのだと思っていたからな。
――俺も、孤独だったんだ。
相談できる者は、この星には誰もいなかった」
レキは、顔を覗き込んでくるオシの目を見つめ返す。
「お前を歓迎する」
「オシ。我の師」
「師か……。いい響きだな。さぁ、目を瞑れ」
「よろしく頼んだ」
「あぁ」
オシがレキの額に手を当てた。
じわりと熱が染み込んでくる。
レキは歯を食いしばった。
脳を匙でかき混ぜられているかのような感覚。無理やり引っ張られ、音を立てて何かが剥がされる。
「うっ……」
オシは、ゆっくりと手を離した。
目を強く瞑ったまま、脂汗を額に浮かべ、布団を指先で強く掴んでいるレキを静かに見つめる。
「おい、誰か。濡らした布巾を持ってきてくれ」
廊下に向かって声をかけると、苗人の足音がいくつか重なった。オシは、額に張り付いたレキの髪をそっと払ってやる。
「頑張れよ。我が弟子」
胡座をかいたその膝に、肘をついた。
浅い呼吸が部屋に響く。
オシは、静かに彼を見守った。
執行者の待機場。
キハ、ナガ、シキの三人は顔を寄せ合っていた。
「新しい“選ばれし雄種”が生まれた。レキが賢者になることを選んだらしいからな。そのせいだろう」
「どれくらいで成体になる」
「数年はかかるだろう」
キハは視線を下げる。
「陛下とレキはああ言うが、やはり排除すべきだと我は思う」
ナガも頷いた。
「我も、そう思う。
青星でご嫡子を見たが、良くも悪くも陛下の血を色濃く継いでいる。せめて力を持たねば良かったものを」
「どうする」
二人がシキを見る。
「賢者になるのは、身体に負担がかかるという」
シキは自分の手元を見つめていた。
キハはそれをじれったく見つめる。
「つまり?」
シキは、キハとナガを順に見た。この三人の中で、最も瞳の金が薄く、澄んで見える瞳。
「レキがいない。反対するものがいないということだ。行くなら今だ」
ナガはわずかに息を呑んだ。
「シキは……レキと考えが似ていなかったか?」
「レキは……もはや賢者。我は執行者に過ぎん。もともと……きっと似てはいなかった」
「ナガ、そのようなことはどうでもいい。準備をしよう」
キハがナガの腕を取りながら立ち上がる。
シキも遅れて立ち上がった。
三人は連れ立って部屋を出ていく。
だが、
最後、シキは一度だけ振り返った。
白い部屋には、誰も座らなかった座布団が一つ。
それを見つめた。
やがて視線を外し、シキも部屋を出た。




