5 残月
リディアは、静かに窓に寄った。
国境防壁。第一の砦となるその上に掲げられた松明の火が、いくつも揺れているのが見える。
「お嬢様……」
「私たちも待機しましょう。怪我人が出るかもしれないわ」
「はい。直ちに」
リディアは夜着を脱いでマルグリットに預けると、後方支援隊の証である萌黄色の騎士団服に身を包む。
形は深緑色の騎士団制服と全く同じ。彼らからの視認性だけを高めた服だ。
黒鳶色の髪を自分で高く一つに結ぶと、マルグリットを一度だけ振り返る。
頷き合い、彼女たちは駆け出した。
「今の音は?」
警鐘が鳴り、マティアスがセレイヴの部屋に駆けつけた時、セレイヴは窓辺に立って外を不安げに見つめていた。
「おそらく、敵襲です」
マティアスが彼の隣に並ぶ。
「……森から?」
「あの森には、戦闘民族が住むと聞いています……。彼らかもしれません」
セレイヴがマティアスを見る。
彼は何か言おうと口を開くが、金の瞳が一瞬だけ淡く揺れ、口を閉じてしまう。
マティアスは彼の瞳を視線で追うが、セレイヴは再び窓の外へと目を向けた。
「……セレイヴ様、手伝いに行かれますか?
怪我人の簡単な手当くらいなら、私たちにも出来るかもしれません」
セレイヴは、首を振る。
「足手まといになるだけだよ……」
指先に触れたガラス窓は、冷え切っていた。
「点火!」
矢先に一斉に火がつく。
「放て!」
防壁の上から、騎士達が弓を放った。
怒声と悲鳴が同時に上がる。
ヴァルガ族の戦士たちが壁に手をかけ、列となってよじ登ってくる。
「一人として壁を越えさせるな!
落とせ!!」
カスパーの声が壁の上を走った。
その時――壁が震える。
森へ出るための巨大な木製扉に、ヴァルガ族が丸太を打ち付ける音が響く。
森からもヴァルガ族の矢が次々と放たれ、それは騎士たちを襲った。
立ち込める油と、血の匂い。
「扉に火をつけられた!」
物見塔の方から声が上がる。
「火攻め対策はしてある!
狼狽えるな!」
「きりがない!!」
「今はまだ耐えろ!
夜の森に出たところで的になるだけだ!
日の出まで耐え抜け!!」
一斉に放たれる火矢が、闇を裂く。
肉の焼ける匂い。
怒声。
焦燥。
防壁の上を騎士達が走り回る。際限なく消費される矢と油。
生ぬるい風が、騎士たちの頬を舐めていった。
日頃は訓練場となっている広場には、物資が並べられ、救護隊などの後方支援隊が走り回っていた。
リディアもその中にいる。
「もっと布を持ってきて!」
「お湯の準備を!」
「火を絶やさないで!」
こちらも、怒声が絶えない。
細い三日月が、彼らを愉快げに見下ろしている。
セレイヴは、窓の前でじっとしていた。
東の空が、わずかに白み掛かってきている。
「まだ……松明が消えない」
「視界の悪い夜の森へは出ずに、騎士団は朝を待っているのではありませんか」
「もう……数刻も戦い続けてるよ」
「……そうですね」
セレイヴは強く目を瞑った。
「きっと、怪我をした人もいるよね」
「はい」
彼はゆっくりと目を開けると、細く、長く息を吐いた。
「マティアス」
マティアスは視線を向ける。
「僕が勝手なことをしたら、君は咎めを受けてしまうの?」
「受けないと思います」
けろりと答えたマティアスに、セレイヴはわずかに目を見開いて顔を向けた。
「……え? だって……」
マティアスは小さく頷いて見せる。
「この辺境領で最も地位が高いのは、アルベルト様です。その次が、奥方様。
ただ奥方様は今妊娠されて安全な別の街におられます。
だから、実質二番目はカスパー様、続いてリディア様です」
セレイヴの眉がゆっくりと寄った。
「カスパー様にはまだご婚約者様はいらっしゃいません。
だから……四番目に高い場所に立っておられるのはセレイヴ様、あなたです」
マティアスは口角を上げ、にっこりと笑む。
「だから、もっと我儘を仰っても許されます」
「……あの人、僕に嘘ついたの……?」
セレイヴは口に手を当ててつぶやくが、やがて瞳を伏せて首を振った。
「どちらにせよ、僕は所詮……よそ者だよ……」
「やりたいことがおありなら、お手伝いします」
マティアスは、自分の顎に手を添える。
「うーん。セレイヴ様なら、仕事だから……とか、お支えします……よりも、こちらの方がお好みですか?」
眉を寄せたセレイヴが、ゆっくりとマティアスの方を向いた。
「あなたのやることにとても興味があります。私が見てみたい。
ぜひやってみてください」
セレイヴは驚いたように小さく口を開けた。
日が昇る。
防壁の大扉が開き、馬に乗った騎士達が一斉に森へと駆け出した。
鬨の声が上がる。
防壁の近くにいたヴァルガ族の戦士たちは、身を返して森へと潜り始めた。
間を置かずに矢が降り注ぐ。
騎士達は槍と盾で応戦するが、身軽なヴァルガ族は木を登り、葉に身を隠した。
不用意に木に近づけば、上から飛び降りてきた戦士に刃を立てられ首を折られる。そうかと言って馬を降りれば、的になるだけだ。
近接戦に持ち込めさえすれば、練度の高い辺境騎士であれば勝機もある。
見つけて、槍で叩き下ろし、刺す。
その繰り返し。
「深追いするな。
追い返せばいい!」
葉の擦れる音。
馬の嘶き。悲鳴。
剣戟の音。
夜半から続く戦い。
疲労が、騎士達から滲み始める。
馬車が一台、速度を上げて駆け抜けていった。
それは騎士団訓練場を素通りし、国境防壁へ。
彼らに気づいた人々は唖然とその姿を目で追った。その開いたままの車窓から、銀髪が見えたからだ。
「……セレイヴ様?」
リディアも手を止め、立ち上がる。
「ごめんなさい。ここを任せるわ」
近くにいた隊員に声をかけると、彼女は駆け出した。
「お嬢様!?」
「マルグリット! 追うわよ!」
厩に戻り、素早く馬にまたがると、リディアは彼の馬車を追う。
セレイヴは防壁に着くなり、その石段を駆け上がる。マティアスも、何も聞かずにただ彼の後を追った。
途中で幾人もの騎士に声を掛けられるが、セレイヴは彼らには見向きもせずに防壁の上を目指した。
「セレイヴ! 待て!
上は戦場だ! 近づくな!」
呼ばれて駆けつけたアルベルトがセレイヴの腕を掴み、セレイヴは体勢を崩しかける。
彼は、勢いよく振り返った。
「止めないで」
「お前は戦闘訓練は受けていないだろう!
だめだ!」
セレイヴは歯を食いしばり、アルベルトを見据える。
「僕が行けば……終わるんだよ」
アルベルトは、まっすぐ向けられた金の瞳に、息を呑んだ。
「……何をするつもりだ」
「訓練場に……血を流している人がたくさんいた。
それでも、みんな、まだ戦ってるんでしょ……?」
セレイヴはアルベルトの手を振り切ると、駆け出す。
「セレイヴ様!」
マティアスがセレイヴを追う。
「お……おい!」
「お父様!」
アルベルトが声の方を振り返ると、息を切らしたリディアとマルグリット。
「何が起きている」
「……私にも、わからないのです」
三人は、駆けていく彼の背を見上げる。
空には、残月が、まだ浮かんでいた。
騎士達の制止を振り切り、セレイヴは物見塔に立った。
この国境防壁の中では、最も高い塔。
果てが見えない程の森。
いくつもの怒号が響き渡り、煙も上がっている。
朝日が、森の表面だけを金色に染めていた。
セレイヴは呼吸を整え、胸に手を当てた。
瞳を伏せる。
呼吸を、深く落とす。
ゆっくりと瞳を開けた。
月光とも、陽の光とも違う。
金の瞳。
片手を森に向かって伸ばす。
瞳に、光が帯びる。
「……聞いて。
ほら、僕はここにいる。
僕を見て。
刃を下ろし、家に帰るんだ。
ねぇ……僕の声、聞こえてるでしょ?」
広げた手のひらを、ぐっと握りしめた。
途端――
ヴァルガ族の戦士の手から、弓とダガーが落ちた。
一斉に、上を見上げる。
恍惚と、彼らは防壁の上を見た。
何が起きたのか分からない騎士達は、彼らの視線を追った。
銀髪の青年。
場違いな白いシャツが、陽を浴びて金に染まっている。
「あれは……」
カスパーがハッと我に返り、声を上げた。
「今だ! 呆けるな! 追い払え!」
騎士達が一斉に槍を振るう。
セレイヴの額から、大粒の汗が滴った。
そして、彼は――
その場に倒れた。




