48 霧解
下草には雨粒がついていた。歩くたびに跳ね、ブーツと服の裾を濡らす。月光が雨の残る木々を照らす夜、セレイヴは辺境伯邸の庭園を歩いていた。
少し開けた広場に、レキが佇んでいる。セレイヴが駆け寄って行っても、レキは表情を変えずにセレイヴのことを静かに見つめていた。二人は、ぽつぽつと話しだす。
離れた場所で、マティアス、オリバー、カスパーはその光景を見守っていた。
「……まさか本当に月の使者がいるとは」
「妙にセレイヴ様が懐いているのが、私は気になるんです」
「お、マティアス卿、嫉妬ですか?」
オリバーの軽口にマティアスは睨んで返す。
セレイヴはレキの顔を見つめ、自分の唇に触れた。
「レキ……怪我してる」
レキはただ頷いて返す。
「それは……噛まれたの? 噛んだの?」
「陛下に噛まれた。お叱りを受けてな」
赤く残る傷跡を見、そして視線を上げてレキの瞳を見るが、相変わらず表情は変わっていない。
「なんて叱られたの?」
「女王の護衛を放棄して青星に頻繁に行き過ぎであると」
「女王の護衛って……オリバーたちみたいにずっとついて回るの?」
「いや。陛下はあまり宮殿の外には出られない。必要な時にだけ呼ばれ、供をするだけだ」
セレイヴは月を見た。膨らみ始めた月は、まだ半月にも及ばない。
「そうだよね。以前もそう言ってた。
つまり、レキがここへ来ていても女王の護衛にはあまり影響がないんだよね。僕たちが考える“護衛”とは意味が違いそうだし」
「……そうだな」
「リディアが言ってたことは的を射ていそうだな……」
セレイヴはレキの腕を引くと、背の高い彼の顔を少しだけ自分に寄せる。
「……女王は僕に嫉妬したんじゃない?」
ここには人がほとんどいない。マティアスたちも離れている。だが、なんとなくセレイヴはレキにだけ届くように声をひそめた。
レキは静かにセレイヴの瞳を見返す。
「リディアが言ってた。
女王はレキを好きなんじゃないかって。だから、レキ以外の男との間に生まれた僕を見て“憎いか”って聞いたんだ。嫉妬してほしかったから。
今回のもそう。自分といる時間より、僕といる時間をレキが優先したように感じて怒ったんだよ」
「……女王が執行者一人を特別扱いするなどと」
「君たちの女王は、君たちの常識の外の人だよ。なんたって僕を産んだんだからね」
レキは身を起こすと、月を見上げた。
「そうだったとして、我に陛下は何を望む。我に何ができる」
「レキが……どうしたいかによるんじゃないかな」
「執行者に意思などない」
「……レキは、僕に会いに来てるじゃない。それって、自分で考えて行動してるんじゃないの?」
「既に我は異常行動を起こしているということか」
月は、静かにそこにある。
「……そうか」
セレイヴはレキの横顔を見つめた。自分の顔と彼の顔は似ている。だが、やはりレキのほうが人外めいた雰囲気が強かった。少しだけ吊り目だが、どこか儚げで、水面に浮かぶ花のような顔。手を伸ばしてもするりと逃げてしまいそうな、そんな空気。
「力を見てやる約束だった。やってみろ」
「……うん」
セレイヴはレキから少し距離を取ると、両腕を軽く広げる。
「……それで抑えてるつもりなのか?」
「そう」
「やはり、うぬが“男”だから抑え込むのは不可能なのではないか」
「レキだって男じゃないか」
「力の種類が異なる」
セレイヴが情けなく眉を下げてふっと笑うと、レキは静かにその顔を見つめていた。
だが、その時――
レキの肩が強く引かれる。
「レキ! なぜ貴様は遊んでいる!」
セレイヴは目を見開き、オリバーたちは急いでセレイヴたちに向かって駆け出した。
レキが振り返ると、そこに立っていたのは
――執行者キハだった。
肩ほどの短い銀髪を揺らした、少しばかり大きな瞳の少年の姿。
彼はわずかに眉をつり上げ、レキの肩を掴む手には力が込められている。
「キハ。若輩者のお前はまだ、外に出ることは禁じられていたはずだ」
「レキが役目を果たせぬから助太刀に来たのだ。
だが、来てみたらどうだ。貴様は排除すべき異物と遊んでいるではないか!」
キハの視線が、レキの背後にいるセレイヴに滑った。セレイヴは、思わず一歩、下がる。
「……醜いな。
ルミナリスの血に青星の血が雁字搦めに絡みついている。これほどの異物を我は見たことがない」
キハがレキの脇を抜けようとしたが、レキが腕を伸ばし、それを阻んだ。
「レキ。どけ。貴様が排除できないのならば我がやる」
「陛下は、ご嫡子の排除を望まれていないと申したはずだ。
陛下のご意思を無視するつもりか」
キハが腰に手をかけ、刀を抜きざまに振り上げた。
レキはわずかに身をそらして避ける。
「レキ!」
セレイヴが叫ぶ。だが彼はオリバーに抑え込まれていた。マティアスはセレイヴの背から彼を支え、カスパーはオリバーの脇で剣を構える。
キハは屈み、草地を蹴った。
「待て!」
レキが叫ぶ。
キハは目を見開いたまま、オリバーたちの真上に跳び、着地より前に片腕でオリバーを払う。
――それは、軽い動作に見えた。
だが、オリバーの体は草地に強く投げ出される。
短いうめき声が漏れた。
千切られた草が舞う。
音を立てずにキハが着地すると、彼は振り返った。
カスパーが前に出るも、キハの金の瞳がわずかに光を帯びる。
それを――見てしまった。
体が凍ったように動かなくなる。
キハが、セレイヴに向き直る。
一歩で距離を詰め、刀を振り上げた。
セレイヴは短く息を吐き出す。
だが――少年の悲鳴が先にあがった。
刃がセレイヴに届く前に、レキが彼の衣を掴んで後ろに投げた。
草の上を、キハの体が滑る。
立ちのぼる、青臭い匂い。
だが、キハは急いで立ち上がった。
「何故邪魔をする!」
レキは、ゆっくりと、キハに向かって歩いた。
一歩、歩くたび、葉についた水が蒸発するかのように霧が淡く舞った。
マティアスに体を支えられたセレイヴはただ、そのレキの背を見つめるだけ。
レキがキハの眼前に立つ。
レキの金の瞳は、ただ、静かだった。
キハの刀を構える手が、わずかに震えた。
「我は陛下の執行者に過ぎん。キハ、貴様は規則を破った」
レキが手を伸ばし、彼の頭を掴んだ。
そして、ゆっくりと、持ち上げる。
キハは宙に浮いた脚を揺らすも、レキの手が離れはしない。
「……さぁ、どちらが戒場行きであろうな」
「離せ……レキ……!」
その時、空気がわずかに揺れた。
ふいにキハの頭を持ち上げていたレキの手首が、白い手に掴まれる。
「レキ、離してやれ……」
新たな月の使者。長い銀髪を背でひとつに結んでいるその男は、静かにレキにそう言った。
「ナガ……」
ナガは首を振る。
「執行者同士で争うことに意味はない。
キハを止められなかったことは、我が詫びる。
――やめてやれ」
レキが手を離す。
少年は地面の上に落とされ、うめきながらその頭を押さえた。ナガは、その腕を掴んで立ち上がらせている。
レキはただ、二人を見つめた。
少年を支えながら、ナガは一度、セレイヴの方を見た。
目が合い、セレイヴは何かを言おうと口を開けるが、それは言葉にはならない。何が言いたかったのかも、自分でも分からなかった。
ナガも何も言わず、背を向けた。
ナガとキハが空気に溶け、消える。
静寂。
風が、鈍い月光に濡れた草を揺らした。
レキはゆっくりと振り返り、騎士たちに近づくと、いまだ動けずにいるカスパーの前に手をかざし、オリバーを助け起こした。
「……騒ぎを起こした。詫びる」
「レキ!」
「うぬ……いや。セレイヴ」
「え……」
レキがゆったりと歩いてセレイヴの前に立つ。
「助言。感謝する。
霧がかったこの思考で、我は考える」
レキの口端が、少しだけ持ち上がったような気がした。
セレイヴが返事をする前に、その姿も、霧のように溶けてしまう。
「……レキ」
誰かの呼吸が、草の上に落ちた。
セレイヴが振り返ると、騎士二人は項垂れていた。
「……やっぱり月の使者は怖い。異常だろ……あいつら……」
「俺もつい油断して見てしまった……」
オリバーとカスパーは首を振り、しきりにため息を吐き出している。
セレイヴはマティアスと目を合わせ、思わず吹き出した。
「ふふ。確かに怖かったね」
「人外ですからね。彼らは動きも力も尋常ではありません」
月は、ぼんやりと、浮かんでいた。
あの星に彼らが住んでいるなど、やはりどこかおとぎ話のように感じてしまう。




