45 霧晴
「うぬ」
「……はい」
御簾の向こう。影だけが揺れている。レキは御簾のこちら側で静かに正座し、その影を見つめていた。
「青星に行ったのか」
「……」
レキは頭を下げる。
「セレイヴを見たか?」
「はい」
「排除しに行ったのか?」
「……いえ」
御簾の下にたたまれた扇が差し込まれた。
「こちらへ来い」
「はい」
レキは御簾を持ち上げると静かに向こうへと移動する。ルナリエラはいつものようにだらしなく寝そべっていたが、レキが入ってくると起き上がって胡座をかいた。扇で、前に座るようにと床を叩く。
「……どう思った」
「“憎いか”というお話でしょうか」
ルナリエラはレキの金の瞳を見つめた。
「“憎い”という感情を、執行者は持ち合わせていないと存じます」
「……それもそうだな」
「その質問の意図を、教えていただきたく思います」
「知らぬ」
レキがかすかに眉を寄せる。
「オシにでも聞け」
レキは頭を下げると、静かに立ち上がった。
「うぬ。今宵も伴をしろ」
「陛下、昨晩は」
ルナリエラは気だるそうに寝そべると、落ちていたガラス玉を拾い、手の中で転がし始める。
――話す気はない、ということか。
レキは頭を下げると、御簾の外へ出た。
御簾の向こうでは、ガラス玉が床に落ちる鈍い音がした。振り返りもせず、レキはその場を離れる。
レキが香室へ足を向けると、部屋の前にオシが立っていた。
「レキ。来ると思っていた。外を歩かないか」
オシは表情を変えずにそう言うと、返事をしないレキの手を引いて歩き出す。
「外? 巡回はもう終えた。どこか異星にでも行くのか? それならば供をするが……遠くの星へは行けない。我は夜には戻らねばならないからだ」
「また宵の伴に呼ばれたのか。
近くだ。問題ない。白砂京を歩こう」
“散歩”という概念を持つのは女王と賢者だけだ。ルナリエラはあの性格であるため、月を無意味に歩き回ることはないが、オシは時折外に出ているようだった。海に近づくと氷が軋む音を立てているとレキに教えたのも、オシに他ならない。
穢れのない白砂利。それをオシとレキは並んで歩いた。苗人たちは今日も変わらず、子と稲だけを育てている。
「レキ。何が聞きたい」
砂利を踏む音が、かすかに鳴っていた。白い四角い建物を通り過ぎ、海岸へと向かう。
冷えた風が、かすかに頬を撫でた。
「陛下が、ご嫡子を見た我に“憎いか”と問うたのだ。
何故、陛下は我にそう問うたのだろう。
それから、我がご嫡子を見て“憎い”と思うとしたら、理由は何であろうか」
青白い海。この海の深さが如何ほどなのかを、ルミナリスの系譜で調べた者はいない。レキは海を見つめているオシの横顔を見た。
「レキ。俺は調べた。過去に賢者が同一世代に二人以上いたことがあったのかを。
結論としては、いたようだ。俺ならば、お前を引き上げられる。陛下の御許可をいただく必要はあるがな」
「我が賢者になれば、陛下の問いが分かるということか」
「それは分からぬ」
オシはゆっくりとレキの方へ顔を向ける。
「分かるか分からぬかが、分からぬということだ」
風にオシの髪が揺らされる。レキの髪はまっすぐだが、オシの髪は少しだけうねりがある。選ばれし雄種の者は、青星の住人に比べれば無個性だが、それでもほんのわずかに個性があった。オシの目は垂れがちだが、レキの瞳は目尻が少し持ち上がっている。
「賢者になると、霧が晴れる。
だが、これまで疑問に思わなかったことを疑問に思うようになり、分からないことがあまりにも増える」
「オシは、執行者たちよりも知識があり、考えることができる。そうだというのに、分からないことが増えるのか」
「あぁ。
まず、レキなりに考えてみたら良い。その答えを聞いてから、陛下に願いでよう。
俺はお前が賢者になるのは歓迎だ。話し相手ができるからな」
レキは波のない海を眺めた。
ただただ冷たい風と、軋む音だけが聞こえてくる。
「ルミナリスは閉じられている。
我らの思考は封がされているのだ。我らを守るためにな。
賢者になるということは、その封を無理やり剥がすということ。雄種によっては壊れてしまう」
オシはレキの腕にそっと触れた。
「だが、お前は耐えられるだろう」
レキがオシを見ると、彼は少しだけ愉快そうに目を細めてレキを見ていた。
「霧がかったその思考の最中で、考えてみろ。レキ」
海が軋む。
レキはそっと、自分の耳に触れた。
セレイヴは視線を下げると、思わずふっと笑った。セレイヴが腰掛けていた籐椅子の向かい、対になっているもう一脚の籐椅子に、当然のようにレキが腰掛けていたからだ。
細い月の晩。セレイヴはマティアスを下げてから、養父母に手紙を書いてみようと試みた。書き物机の上には火がついたままの燭台、インク壺、羽ペン、ペンナイフ、便箋がきれいに並べられている。だが、どうにも筆が進まず、籐椅子に腰掛けて月を眺めていた。
「本当に来るとは」
セレイヴが淡く笑ってそう言うと、レキは視線だけを彼に向ける。
「我が知りたいことは、そう多くはない。
だが、先日の問いでうぬが答えを持ち合わせていないことは理解した。
従って、今宵はうぬの問いに答えよう」
「前回も、レキは僕が“陛下”に似てるのかどうかは答えてくれたと思うけど」
「それでじゅうぶんか。では我は戻ろう」
「え……!」
セレイヴは慌てて腰を浮かせ、立ち上がったレキの袖をつかんだ。
「もう少し……聞かせて……。ね?」
レキは表情を変えずに腰を下ろす。
「うぬは分かりにくい言い方をする」
「……ごめん」
セレイヴが小さく笑うと、レキは横目でそれを静かに見た。
月は、白く細く、藍の空にただ浮かんでいた。




