44 母影
「うぬは何故木の棒を持っている」
それは、綺麗な銀髪の女性だった。
まだ幼いセレイヴの前に彼女は屈むと、その手に握られている木の枝と、幼年の子どもの瞳を見比べた。
「おおきい!」
「……そうだな」
「しゅごい」
「……そうだろうか」
セレイヴは、女性に笑いかけた。自分とおそろいの金の瞳の女性を見ると、なぜか、嬉しい気持ちになったからだ。
「あげる」
「いらぬ」
セレイヴは眉を下げた。
「うぬは、自分の名前をそろそろ覚えたか?」
「しぇれい」
「セレイヴだ。下手くそめ」
「おめめ、きれいね」
女性は目を見開くと、少しだけ口角を緩めた。セレイヴが手を伸ばして女性の頬に触れても、彼女は嫌がらず、セレイヴの好きに触らせる。
「かわいい。もっとわらって」
「うぬは、わらわに継ぎを渡した男に似ているな」
「ちゅぎ?」
「……父のことだ。見目のよい男だった」
「しゅきなの?」
「つまらんことを言うのだな」
彼女は立ち上がる。
「あ……」
声がした方をセレイヴが振り返ると、家の裏口に養母が立ち、庭で遊んでいたセレイヴたちを見つめていた。女性が立ち去ろうとする。
「お待ちになって! お茶をお出ししますわ! もう少しセレイヴと――」
女性は養母をちらと見ると、そのまま背を向けた。
「かあしゃん!」
セレイヴが養母に駆け寄り、彼女は屈んで彼を抱きとめた。
「きれいなひと、またきてくれたよ」
養母が優しく微笑みながら頷く。セレイヴが女性を振り返ったが、そこにあるのは風に揺れる下草だけ。
彼女はもう、そこにはいなかった。
養母が強くセレイヴを抱く。セレイヴは彼女に身を預けて、無邪気に笑っていた。
その女性は、セレイヴが幼い頃はたびたび彼に会いに来た。
だが、彼が成長するとともに、徐々に訪れなくなっていった。
「何故泣いている」
月夜の晩。セレイヴは窓際の壁にもたれて一人で泣いていた。顔を上げると、あの女性。
その頃のセレイヴはもう、大きくなっていた。見知らぬ女性に路地裏に連れ込まれ、媚薬を含まされたあの日の夜。彼は、自身の身体と、自分の異能と、人の悪意――そのすべてに怯えていた。
「……誰?」
セレイヴはその銀髪の女性のことを、あまり覚えていなかった。彼女は無表情のまま、床に座り込んでいる彼の隣に座る。
「……なるほど。力が漏れているな。ここが青星だからか」
彼は眉を寄せ、自分の身体を抱くようにした。その女性を横目で伺う。
「無理やり男にされたのだな。だが、それは継ぎを渡すために必要な機能だろう。何故うぬは怯えている。欲しいのなら渡してやれば良かった」
「何を言って……」
「奇だな。教えろ」
セレイヴは首を振ると、膝を抱え、顔を埋めた。
「……セレイヴ、泣くな」
「……どうして酷いことを言うの」
「酷いか?」
「“継ぎを渡す”ってそういうことでしょ? 僕は……すごく嫌だった」
「何故嫌だった」
「……そういうのは好きな人とやるものだって……父さんが言ってた」
女性はふっと笑った。
「つまらんことを言う」
セレイヴが顔を上げた。
「僕、あなたに会ったことある?」
女性が立ち上がる。彼女はセレイヴの額に手をかざした。
「忘れよ」
セレイヴが目覚めたとき、彼は床に座ったまま眠っていたようだった。窓からは朝の光が滑り込んできている。彼はもう、彼女のことはぼんやりとしか覚えていなかった。
――でも、完全には忘れてはいなかった。
なんとなく、あの女性は自分に近い人なのだと、そんな気がしていた。
――出窓の前の籐椅子。
セレイヴはそこに静かに座り、外を眺めていた。マティアスがポットをのせたワゴンを運んでくると、彼の前に紅茶のカップを差し出す。
「ありがとう」
セレイヴが顔を上げ、マティアスはにこりと笑った。
「今日は午後から雨が降りそうですね」
「……うん」
「散歩はできなさそうです」
「でも……雨の音は、僕は好きだな」
「奇遇ですね。私もです」
セレイヴが笑うと、マティアスもくすくすと笑っていた。
セレイヴはあの女性のことを思い出していた。
――きっと、彼女こそが母なのだと、やっとわかった気がした。




