41 耳鳴
白い廊下。白い壁。
レキは白い宮殿を進み、一つの部屋へ入った。戸を開けると、中にいた一人の男が顔を上げる。
「レキ」
「シキ。いたのか」
がらんと白い広い部屋には文机が均等に並んでいた。レキはシキの隣の文机の前に腰を下ろすと、シキの手元をわずかに覗き込む。
「もう書き上がるのか」
「待っていてやる」
「何のために?」
「あちらの部屋にはキハとナガがいた。議論は長くなるだろう」
「お前がここにいたいのだろう」
「そうだ」
「じゃあ、いろ」
シキはレキと同世代の執行者だった。執行者というものは、若いほど秩序に敏感で、年を取るほど寛大になる傾向がある。同世代であるシキとレキは比較的価値観の近い者同士であった。
レキは文机に紙や文鎮を並べ、墨を擦り始める。筆に墨を吸わせ、紙に文字を綴った。巡回から戻れば、こうして報告書を書かなければならない。執行者同士で読み合うこともあるが、誰の目にも触れないこともある。それでも、これが必要かどうかわざわざ考える者はいなかった。
レキが隣を見ると、シキは自分が書いた報告書を静かに読み返している。
ここも、静かだ。
海は近いが、凍った海は音を立てない。近づけば軋む音が聞こえることもあるが、この星に聞きに行く者はいない。
風が吹かないわけでもないが、揺れるものは髪と稲穂だけ。雨も降らない。雷も落ちない。
レキはそっと、自分の耳に触れた。
――耳鳴りがする。
報告書を書き終えてレキとシキが執行者たちの待機場である部屋へ入ると、前情報通りにキハとナガがいた。ナガは顔を上げなかったが、キハはレキを見ると、待っていたとばかりに膝行で近づき、口を開けた。
「いつ、処分を終える」
「ご嫡子の件か?」
「レキの担当であろう。異物は排除せねばならん。なぜもたもたしている。排除するだけであろう? 早急になさねば血がさらに汚れるのではないか」
「陛下は、ご嫡子の排除を望まれてはおらんのだ。我は戒場に送られた」
「陛下はこの事態を理解しておられない。青星にルミナリスの系譜を置いておくわけにはいかないであろう。まして男だなどと。青星の異物は成体になったというではないか。穢らわしいにもほどがある」
レキは静かに若いキハを見つめた。シキとナガは並んで正座したまま、軽く目を伏せている。
待機場とは、女王からの呼び出しがない限り、やることのない執行者たちが押し込められておくための場所だ。
窓はある。だが、窓しかない。
執行者は賢者や女王ほどではないが、考える力はある。長い待機時間はあまりにも鬱屈としていた。
――彼らも、退屈なのだ。
いや、そう感じているのはレキだけかもしれなかった。
「オシは、なんと言っていた」
人形のように微動だにしないナガがふいに口を開いた。正座し、膝のうえで軽く拳を握ったまま、瞳は伏せがちに床を見つめている。声をかけられたのは気のせいではないかと思えるほど、彼は動かなかった。
「ご嫡子については……何も」
「そうか」
動かないナガからレキが視線を外すと、キハはレキに顔を寄せる。
「レキ。我だって青星に行きたい。だがまだ若輩者である我は異星に行くことが許されていないのだ。レキ。明日にでも排除にいけ」
「……そうだな」
視界の端、シキがゆっくりと顔を上げた。
「シキはどう考える」
「排除すべき。異物は排除するものだ」
「……そうだな」
レキは窓に目をやった。巨大な青星が見える。
――なぜ陛下は、あの星に子を落としたのだろうか。
青星の上を這う白い雲は、ゆっくりと動いていた。
夜。
レキが女王の寝所に入ると、彼女は相変わらず退屈そうに脇息にもたれていた。
レキは静かに彼女の背に座り、櫛を手にとってその髪をゆっくりと櫛ってやる。
明かりは灯されていない。
寝具が置かれただけの小さな部屋だが、大きな窓から見える青星は、眩いほどだった。ほのかな暗がりの中で、言葉も交わさずに、レキはただ女王の髪を整える。
「うぬ」
「はい」
「衣を脱げ」
上衣をはだけさせて背を露出させると、レキはルナリエラに背を向けた。ルナリエラは座る向きを変え、その傷だらけの背に指先を添える。
「真っ赤ではないか」
――誰のせいだと思っている。
「誰にやられた」
――どう答えるべきか。コル? 陛下?
「……コルに」
「妾であろう。阿呆が」
「……陛下でした」
ルナリエラはふっと笑うと、顔を寄せて傷に舌を這わせた。鋭い痛みに、レキはわずかに眉を寄せる。
「どう思った」
「……」
「青星にいるセレイヴを見たのだろう。うぬはどう思った」
「青星の血が絡みつき、醜い、と」
「憎かったか?」
――憎い?
「なぜ男なのかと。女であれば次代の女王として連れ帰ったものを……とは、考えましたが」
「うぬは、不思議に思ったのだな。あれは青星の血のせいだろう。妾も、妾に男が産めるとは思わんかった」
女王は本来、次代の女王しか産まない。執行者から継ぎを受け取っても、滅多に孕みはしない。
女王が孕んだとき。
それは、現女王が宙に還る日が近いことの予兆でもある。
「うぬよ、こちらを向け」
レキは静かに彼女に向き直った。
「ルナリエラと言え」
「……執行者にはそれは許されておりません」
「妾が許すと言っても?」
「……」
互いの金の瞳。交わっても、それはどこか氷の刃のように冷たかった。
「青星の王は、妾の名を気兼ねなく呼んだ。うむもそれをやれ」
「許されざることです」
「レキ」
レキの眉がかすかに寄る。
女王は、滅多に執行者の名を呼ばない。もともと意味を持たない識別番号にすぎない名だ。誰も何かを思うことはなかった。
しかし、宵の供に呼んだときだけ、彼女はレキの名を呼ぶ。レキには、その理由はわからなかった。
「……陛下。ご嫡子の排除のご許可をいただきたい」
「……」
ルナリエラは少しだけ奥歯を噛むと、手を伸ばしてレキの髪を一房掴む。
「レキ、継ぎを寄越せ。うぬの話はつまらん」
レキがルナリエラの衣に触れる。
衣擦れの音。
短い吐息。
窓の向こうの大きな青星は今宵も美しく回っているが、それを美しいと言う者は、この星にはやはりいなかった。




