36 踏影
翌日。
セレイヴが従者マティアスと護衛のオリバーを連れ、本邸のアルベルトの執務室を訪ねたところまでは、使用人によって目撃されている。
だが、その後――
彼は、二人を連れて姿を消した。
辺境伯邸および辺境騎士団は騒然とした。
彼らはヴァルガ族によって拉致されたのかもしれない。もしくは、月の使者が現れたのかもしれない。
しかし、騎士たちと使用人達は訝しんだ。
辺境伯であり、騎士団長であるアルベルト・ハルヴァードがセレイヴたちを探すよう命じないのだ。
だから彼らは確信した。
――セレイヴは、我らが辺境伯領を裏切ったのだと。
「お父様!」
リディアが執務室に入ると、アルベルトとカスパーはソファに向き合って座ったまま、リディアに顔を向けた。リディアはカスパーの隣に座ると、テーブルに手をついて父の顔を見る。
「セレイヴが……いなくなったと……」
アルベルトは神妙な表情のまま、頷いた。
「騎士たちが……セレイヴは裏切ったのだと大騒ぎしています……。
セレイヴは、どこへ?」
リディアの声が震えている。カスパーがたまらずその背に触れると、リディアはカスパーの胸に飛び込んだ。
「私たち、やっと気持ちが通じたと思ったのに……。
こんなの……こんなこと……」
アルベルトは片手で顔を拭うと、大きくため息をつく。
「……私は迂闊にもセレイヴと約束してしまった。どこへ向かうのか、誰にも言わないと。
だから、リディア、君にも言えない」
「セレイヴは……自ら出ていったということですか?」
アルベルトがもう一度頷いた。
「辺境伯として、騎士団長としては言えることは何もない。約束したからな。
だが、父として、リディアに言えることは一つだけある」
リディアは潤んだ瞳で父をまっすぐに見つめる。
「信じてやれ」
「え……」
カスパーの服を掴むリディアの指先が、白くなっていた。兄も、妹の背中を静かにさすってやることしか、できなかった。
セレイヴたち三人は馬上にいた。
時折異能も使いながら騎士たちの目を欺き、国境防壁の外で馬を歩かせていた。
「セレイヴ様は、馬も短時間でずいぶんとお上手になられましたね」
「僕から漏れてる力のせいかもしれない」
「それだけとは思えませんが……」
オリバーが小さくこぼすと、セレイヴとマティアスは少しだけ笑った。
背の高い木が、終わりなくどこまでも続いて並んでいる。葉の隙間からは、澄んだ青い空が覗いていた。木漏れ日が形を作っては、風に揺らされてすぐにほどける。時々見つける大きな倒木は、苔に覆われ、森に飲まれようとしていた。
馬が土を踏んでも、柔らかな地面は音を立てなかった。
馬の半身程だけ先行していたオリバーが片腕をあげる。
マティアスとセレイヴは馬の足を止めた。
葉擦れの音。
かすかに交じる、呼吸の気配。
セレイヴは、そっと声を落とす。
「……来たかな。
マティアス、オリバー。僕に合わせてね。頼んだよ」
「御意」
「お任せください。まず、私からいきます」
オリバーとセレイヴが頷いた。
姿は見えない。
だが、視線が降り注がれている。
騎士ではないマティアスとセレイヴでさえ感じるほどの、強い視線が複数。
「ヴァルガ族の者へ告ぐ!」
マティアスが腹から声を上げる。
聞き耳を立てている気配だけが、森に沈んだ。
「この方は辺境伯ハルヴァード家ご令嬢のご婚約者、セレイヴ様であらせられる。
先日、この世の外の力を使われた大変稀有な方だ。
そのセレイヴ様がヴァルガ族、ヴェスナ殿との対話を求められている。
――案内せよ!」
枝が、葉が、揺れる。
知らせに走った者、ここで警戒を続ける者に分かれたのだろう。
強い視線は揺らがずに、そこにあり続ける。
セレイヴ達はそのまま、息を呑んで彼らの反応を待った。
やがて、馬の前に樹上から一人の男が飛び降りてくる。男は静かに立ち、ほんのわずかに頭を下げた。
「……ご案内いたします」
男が背を向け、歩き出した。それをセレイヴたちは馬に乗ったまま追う。いくつもの気配が、彼らを囲むようにしてついてくるのがわかった。
――賭けだった。
ヴェスナの派閥の者でなければ、すぐに殺されていたかもしれない。だが、連日国境防壁に戦いを仕掛け続ける彼女なら、見張りを使い、セレイヴ達にすぐに気づく可能性が高いと踏んでいた。
森の中に隠されるようにして在る、小さな集落。
セレイヴたちは入り口で馬を降りると、男のあとに従って、一戸の木造りの建物の前に立つ。扉の前で、セレイヴたちを囲んだ男たちが武器を出すように言うが、三人はちらりと視線を合わせた。
「……なぜ?」
初めて言葉を発したセレイヴに対し、男たちが一瞬身を引く。
「……僕は、わざわざ会いに来てあげたんだ。
なぜ丸腰にまでなってあげなきゃいけないの」
いつもより低い声で、ゆっくりと。
彼らに、しっかりと届くように。
「僕には、今すぐ君たちが自害するようにと誘導することだってできるんだ。
……自分たちの立場がわかってる?
武器があるなら、君たちにそんな無体を働かないって約束してあげるよ。
……今のところはね」
男たちが息を呑んだ。
目を見合わせる彼らの戸惑いが、こちらまで伝わってくる。
扉が、軋む音を立てて開いた。
「お前、セレイヴっていうんだね。
武器持ったままでいい。
入んな」
中から出てきた赤髪の女。彼女は扉脇に立つと、ゆっくりと、舐めるようにセレイヴの全身を見た。
「あぁ……。
セレイヴ、お前だけは目隠しをしな」
セレイヴは、口角をわずかに上げる。
マティアスが布を取り出してセレイヴの目を覆うと、彼の肘を持った。
そうして三人は、ヴェスナの背について建物の中へと入っていった。




