35 残光
ノックの音もなく、扉が開けられる。
「セレイヴ!」
息を切らしたリディアが部屋に飛び込んでくると、籐椅子に腰掛けていたセレイヴはゆっくりと席を立った。
「……リディア。入ってきちゃだめだよ。僕はもう――」
リディアは制止も効かず、セレイヴの胸に飛び込んだ。
セレイヴの肩が震える。
彼は一度瞳を伏せると、その肩をそっとつかんでリディアを身体から離した。
「……リディア」
「嫌です!」
マティアスが頭を下げて部屋を出ていこうとするのを、セレイヴは手を伸ばして引き止める。
「いて。お願い」
「……セレイヴ様。ちゃんとお話されたほうがいい。
後悔されます」
「でも」
「けじめはつけられるべきです」
セレイヴの手が、マティアスの腕から離れた。マティアスはもう一度頭を下げ、扉を出ていく。
扉が閉まる音。
それはいやに大きく響いた。
リディアはもう一度セレイヴに抱きつき、強くその身体を抱く。
「婚約者を辞退するだなんて!
どうして!」
「リディア……」
「私はセレイヴ以外とは結婚なんてしたくない!
あなたがいい!」
「リディア……落ち着いて」
リディアは子どものようにいやいやと首を振った。
「嫌です! 絶対に嫌!」
「リディア……聞いて。お願い」
「セレイヴじゃなきゃ嫌!」
「リディア!」
セレイヴは彼女の顔に手を添えて無理やり上を向かせると、口づけをして唇を塞ぐ。
「リディア……」
彼女の若葉色の瞳から、大粒の涙がいくつも溢れた。
セレイヴは、彼女をソファまで連れていき、並んで座る。涙を指先で、そっと拭った。
「……僕がここにいると、辺境騎士団の人たちに大きな負担をかけてしまう。
だから、僕は目立つ髪色を変えて、名前を変えて、遠くに行くよ。
辺境の小さな町。国境防壁からは遠くて、小さいけど、観光地にはなってるくらいには栄えてるんだって。
――そこで、僕は静かに暮らす」
「私も一緒に――」
「だめだよ」
「……セレイヴ」
彼女の頬に手を添え、視線でなぞるようにその顔を見つめる。愛しげに。大切そうに。
「君は“王弟の娘”であり、“辺境伯の娘”なんだ。
カスパーの支えとして辺境の実務を担うか、王都貴族に嫁入りをするんだ。
君が背負っているものは、決して小さくない」
若葉色の瞳に、また涙がたまる。
「セレイヴは……私を好きではないの?」
セレイヴは痛みをこらえるように目を細めた。
「私は……あなたが思いを返してくれたって思ってたの」
涙が彼女の頬を伝う。
「あなたとの未来を、私、たくさん考えたわ。
ここより少しだけ安全な街に行って、暮らすのよね。毎日書類とにらめっこ。きっとたくさん考えなくちゃいけないことがあって大変だわ。
でも、あなたが隣にいるのよ。
朝起きて、おはようって言い合って、朝食を食べるの。仕事して、仕事の合間にくだらない話をして、ティータイムにはお茶をする。
仕事を終えても、ずっと一緒。並んで本を読んだり。一緒にお酒を飲んだり。
それから、きっと、夜は……甘いんじゃないかな……なんて、考えたりしたの」
リディアがセレイヴに抱きつき、セレイヴはその背にそっと手を添えた。
「あなたがルーカスを抱いているところを見るたび、想像してしまうの。
私の赤ちゃん……あなたとの赤ちゃんも、きっとあなたはああやって優しく抱いてくれるんだって。
すごく……幸せな未来」
セレイヴの視界も、滲んでしまう。
「……どうして?」
彼の腕の中でリディアが顔を上げる。
「どうして、あんなキスをしたの?」
セレイヴは、唇を噛んだ。
「あれで……私、あなたに愛されてるんだって思ったの。
――違ったの?」
彼の瞳からも、涙が落ちてしまう。
「リディア……もう……やめて」
「セレイヴ」
セレイヴは、顔を両手で覆う。
「もう言わないで……」
リディアは少しだけ腰を浮かせ、セレイヴの手の隙間から唇にキスをした。
ハッとしたようにセレイヴが手を外すと、リディアは彼の肩を押し、ソファに彼を押し倒した。そのまま、彼に乗るようにして抱き着く。
「リディア、だめだよ。離れて」
セレイヴが彼女の肩を掴むも、リディアは首を振るだけ。
「嫌です」
「リディア」
「このまま、あなたを閉じ込めてしまいたい。どうして離れるなんて言うの」
「……離れて」
「あなた以外の人と結婚して、あなた以外の人に触れられるなんて……耐えられない。
そんなの、死んでしまった方がいいわ」
「リディア!」
「セレイヴがちゃんと話してくれないから、私はあなたを諦められないの!」
セレイヴの瞳から、幾筋も涙がこぼれた。
「……僕」
声が、ひどく震えた。
「好きになっちゃったんだ……君のこと」
彼は腕で目を覆うと、嗚咽を漏らす。
「僕がいる限り、ヴァルガ族も、月の使者も、僕を追ってくる。
君を危険にさらしてしまう」
リディアは静かに彼の涙を見つめた。
「それに……僕はどんなに中性的だのきれいだの言われたって、所詮男なんだよ。
――考えてしまう。
リディアの肌を見たいって。
触れたいって。
――そして、強く望んでしまう。
肌を僕に晒して。
身体を僕に預けて。
身体を……僕に開いてって……。
異能があれば、僕は君を自由にできてしまうんだ」
「……セレイヴ」
「怖いでしょう?
気持ち悪いでしょう?
僕はいつか、君を壊してしまう」
リディアはセレイヴの腕を外させると、その瞳を見つめる。
「違います。
壊れるんじゃない。受け入れるだけ。
……女性には性欲がないとでも?」
セレイヴが眉を歪めた。
リディアはセレイヴに馬乗りになると、彼のシャツのボタンに手をかける。セレイヴは慌ててその手に触れた。
「待って。何するの?」
「私だって、あなたなら、見たいし、触れたいわ。そして、あなたになら見てもらいたいし、触れられたいの」
「……え?」
「セレイヴは結局、優しすぎるのよ」
リディアはセレイヴの頬に手を添える。
「……そんなあなたが……やっぱり、好きよ。
あなた以外、考えられない」
セレイヴに顔を寄せた。
そっと、唇に短くキスを落とす。
「……婚約者を辞退なんて……しないで」
声が、震えていた。
「こんなに好きにさせておいて責任取らないなんて……それこそどうかしてるわ。
無責任よ。最低」
「え。
それはなんか……おかしくない?」
リディアがふっと笑う。
それを見て、セレイヴは彼女の頬に手を添えた。
「……かわいい。
ねぇ、僕に対してだけ妙に強気なのはどうして?」
「マティアスにも強気だわ。恋敵なの」
セレイヴもふっと笑う。
「なんでマティアスなの」
「あなたマティアスのこと好きすぎなのよ」
「君、もっと慎重な子なのかと思ってた」
「あなたこそ、初めは冷たかったわ。目も見ないし」
「すぐベタベタくっついてくるし」
「私にそういう触れ方を教えたのはあなたじゃない」
「え、僕のせい?」
「私があなたを好きすぎるせい」
「……キスがしたい」
リディアが顔を寄せ、唇を重ねた。
「……本当に僕でいいの?」
「セレイヴこそ」
「僕はリディアが好きだよ」
「私も、セレイヴが好き」
また、セレイヴの頬を涙が流れていく。
「僕といると、つらい思いをさせてしまうよ」
「あなたがいれば乗り越えられる」
「僕――」
リディアがセレイヴの口を塞いだ。
「……セレイヴ。この間みたいな、情熱的なキスをして。それで許してあげる」
「……何を?」
「私を振って遠くに行くなんて言ったこと」
「……まったく君は」
リディアがもう一度顔を寄せる。
熱が二人の間で、交わった。
唇を重ね、ゆっくりと、落ちていく。
二人とも泣きながら、確かめるように。
何度も、キスを交わした。
そうして二人して、最後は笑い合う。




