33 落陽
風に、彼の銀の髪が揺れる。
いつの間にか、空は藍の色だけが残され、芝の上には、月光が落ちていた。
目を布で覆って立つ彼の姿は、異様なほどに蠱惑的だった。
透けるような白い肌は、まるで月光を集めて象ったかのよう。
彼は、その細長い繊細な指先を、月光にゆっくりとかざす。
誰もが、それを目で追った。
どうしてか、目を外せない。
ヴェスナたちは、知らずに息を呑んだ。
セレイヴは次の瞬間――
目を覆っていた布を取り払った。
「お前――」
言い終わる前に――
眼前。
男の顔。
ヴェスナの首に刃が当てられる。
ひやりとした感触に、ヴェスナは呼吸を止めた。
ヴェスナの眼前に立ったオリバーはそのまま刃を押す。
だが、ヴェスナは急いで距離をとり、周りを素早く確かめる。
――いつの間に。
ヴェスナのそばにいた二人の男たちも驚いた顔をしたまま、騎士たちの刃を受けていた。
――何が起こった。
捕らえていたはずの令嬢とその護衛の女は、知らぬ間に騎士たちに抱えられて駆けていく。
――なぜ突然、目の前に騎士がいた?
「よそ見をするとは、さすが族長候補だけあるな!」
オリバーの声にハッとして振り向く。
白刃。
ヴェスナはダガーを取り出し、ぎりぎりで受ける。
火花。
高い金属音が鳴る。
仲間の剣戟が遠くに聞こえる。
駆け寄ってくる辺境騎士たち。
「帰るよ!」
ヴェスナの声が仲間に届いたのかは怪しい。
騎士たちの怒声に、かき消される。
身を沈ませ、オリバーの刃を躱す。
遅れた赤髪が切られ、散る。
身を翻し、駆け出す。
寄ってきた騎士の男を飛び越え、踏む。
掴まれそうになる足を振り、なんとか逃れる。
仲間がどうなったか。
確かめようがない。
陽動のために放った手下の男たちは、
まだ、戦っているだろうか。
木の陰を探し、枝に飛び乗る。
重たい鎧を纏った騎士にはできない動きで、
彼らの目から逃れようと必死に駆ける。
肺が焼ける。
足が震える。
――あの時。
寝所に踏み込んだとき、目を潰しておくべきだった。
美しい男だからと、壊すことを惜しいと思ってしまった。
――不覚。
ヴェスナは音がなるほどに歯を噛んで軋ませた。
影を踏み、木の隙間を駆け、彼女は辺境伯邸から脱出した。
「リディア!」
カスパーに抱きかかえられたリディアをセレイヴは腕を広げて迎える。
リディアをセレイヴに預けると、カスパーは二人を抱えるようにして背を振り返った。
「中へ!」
セレイヴはリディアを抱き、マルグリットとマティアス、カスパーに支えられながら、邸宅の方へと走った。
リディアの部屋に入ると、リディアとセレイヴだけを残し、他は部屋の安全確認へ走った。いまだに騎士たちは廊下を駆けまわり、外からは剣戟の音がここまで響いてくる。
使用人たちも後方支援のために走り回っていた。
全ての音が混ざり合い、どこか、遠くに聞こえるようだった。
セレイヴはリディアをソファに座らせると、自分は彼女の前に膝をつく。
「……リディア、怪我は?」
燭台には火が灯されていない。
誰にも、そんな余裕はなかった。
大きな窓から差し込む明かりだけが二人の頬を照らしている。
震える手で、セレイヴはリディアの頬に触れ、リディアもその手に自分の手を重ねた。
「少し、喉が切れたかも知れないわ。でも
それだけ」
リディアがふわりと笑むと、セレイヴは痛みをこらえるように目を細めた。
「リディア……怖くなかった?」
「怖くなかった……。
あなたが、守ってくれたもの」
セレイヴは彼女の顔を引き寄せ、その額に短くキスを落とす。
そして、額を当て合った。
熱と呼吸が、わずかに触れる。
「きっと……僕の方が……怖かった」
声が震えてしまう。
視界が滲み、やがて一筋、涙が頬を伝う。
「……セレイヴ」
「君を傷つけられるのではないかと……
失うんじゃないかと思ったら……
怖くて怖くて仕方なかった」
リディアはソファを降り、彼に抱きついた。
「セレイヴ。好きよ。
私だって……あなたが襲われたと聞いたとき、どれほど怖かったか」
セレイヴはリディアを強く、強く胸に抱く。
澄んだ、優しい香り。
異能を使った気怠さもあり、引っ張られてしまいそうなほどに、甘い香りだった。
片手を彼女の顎に添える。
確かめるように、セレイヴはリディアの顔をゆっくりと見つめた。
顔を寄せ、鼻を触れ合わせる。
「キスをしてもいい?」
ほとんど吐息だけの声だった。
「キスして」
そっと、触れるだけの口づけ。
子どものような、戯れのキス。
優しく、何度も重ねる。
「……リディア、僕を怖いと思う?」
「どうして?」
「また異能を使った。
きっとまた……怖がられる」
「私は怖くない」
「でも……きっと怖いと思うよ」
「思わない」
もう一度、唇を重ねる。
唇の隙間から、熱を滑り込ませる。
絡め取るように。
彼女のすべてを舐め取ろうとするように。
リディアから、小さな声が溢れても、やめられなかった。
湿った音が、自分たちの耳にだけ届く。
剣戟の音。
騎士たちの足音。
それは、彼らにはもう聞こえなかった。
ただ――欲しいと思ってしまった。
ゆっくりと唇を離す。
熱が、離れる。
「……リディア」
短く息を吐きだしたリディアは、彼の瞳を見つめた。
「やっぱり……僕は、君をいつか……壊してしまう」
「……セレイヴ?」
セレイヴはリディアを再び強く抱きしめた。
「……無事で良かった」
リディアは、ただ彼を抱き返した。
青白い月光。
やがて、外の剣戟の音も止むだろう。
本当の夜が訪れたとき、どんな選択をすれば良いのか
――今の彼らには、わからなかった。




