32 夕闇
それから、天気の良い日は辺境伯邸の庭園でお茶をする機会が増えた。
ヴェスナが侵入してからふた月が経とうとしているが、最近は国境防壁の近くにヴァルガ族が現れることさえない。
放っておけば、ルーカスへ会いに行く以外に部屋から一歩も出ようとしないセレイヴを、リディアとカスパーはあれこれと理由をつけては外へと引っ張り出した。
――その日も、そうだった。
リディアが、セレイヴと夕陽が見たいのだと言って、辺境伯邸敷地内の木立へと誘ったのだ。
風に葉が揺らされる。
木の隙間から遠くに見える国境防壁に夕陽が触れていた。
「よく考えると、辺境伯邸内の見張り塔に登れば良かったかもしれません」
セレイヴは何棟か並ぶ辺境伯邸の端から伸びる塔を振り返る。ちらりと光を一瞬だけ返したのは、見張りをしている騎士の鎧。
「……仕事の邪魔になってしまう。庭園で良かったと思うよ」
並んだ二人の手の指先が、わずかに触れる。
セレイヴとリディアから少し離れたところにマティアスとオリバー、マルグリット。それからさらに距離をとって、幾人もの騎士たちが二人を見守っていた。視界に入らないように配慮はしてくれているものの、やはり見られているという気恥ずかしさは拭えない。
リディアがセレイヴの横顔を見つめる。人ならざるものの気配さえある、その整った顔。いつ見ても、ハッとしてしまう。
ただそれ以上に、彼の纏う壊れ物のような空気が、リディアは愛しくもあり、怖くもあった。
その指先を掴もうか迷って、やっぱりやめる。
セレイヴが、ふとリディアの方を向いた。その銀の髪は夕陽に真っ赤に染められている。
「もうすぐ陽が落ちる。戻ろう」
「はい」
金の瞳に、夕陽が映り込む。それは金と赤が複雑に混ざり合って、宝石よりも美しかった。
――だが、その時。
金属が打ち鳴らされる音。
途端に緊張感が走った。
鎧の擦れる音が辺境伯邸に響く。
オリバーとマルグリットが急いでそれぞれの主に駆け寄った。
「ヴァルガ族の男が三人! 現在裏門にて交戦中!」
騎士の声が上がる。
セレイヴはオリバーに背を押されるようにして見晴らしの悪い木立を離れようとする。
「現在正門でも交戦中です!
こちらはヴァルガ族の男が五人!」
騎士たちが駆け出す。
応援に行く者。
情報を伝えに駆ける者。
セレイヴたちの護衛に加わる者。
その中にいたカスパーはオリバーと合流するとセレイヴを挟むようにして足を早めさせた。
陽が、沈んでしまう。
西の空に残っていた茜色も、急速に藍へ沈み始める。
各所に篝火が焚かれ始めるが、木立の隙間まで、その明かりは届きはしない。
夜の帷は、否応なく、彼らを隠し始める。
悲鳴。
セレイヴは振り返った。
すぐ近くで騎士に囲まれて団子のようにして移動していたはずなのに、リディアがいない。
「リディア!」
駆け出そうとするも、オリバーとマティアスにその腕を取られる。
視線の先、鈍い月光の下。
木にもたれるようにして立つ、女がいた。
その脇に立つ男がリディアに背後から喉元にナイフを当て、マルグリットは地面にうつ伏せに組み伏せられている。
「いまだにあたしはお前の名前を知らないんだよ」
女は腕を組み、愉快げに口角を上げた。
「ヴェスナ……」
ゆったりとうねる赤い髪を高く一つに結んだ女。その艶のある身体に、月光が滑る。
騎士たちはじりじりと、ヴェスナたちを囲もうとするが、一歩詰めると、リディアの喉元に当てられた刃が彼女の喉に食い込む。
騎士たちは身動き取れずに、彼らを見据えた。
リディアは叫ぶこともなく、目を細めて静かにヴェスナを見ている。
「ヴェスナ……僕と話したいなら、その人たちを離して」
「離したら、辺境騎士が駆け寄ってくる。
お前がここに来るんだ」
葉擦れの音。
光はぼんやりとしか、影を作らない。
セレイヴは、彼を守るように立っていたオリバーの肩に手を添えると、ひと言だけつぶやいて前に出た。
ヴェスナと、セレイヴの視線が交わる。
セレイヴは両手を広げた。
「ヴェスナ。僕が見える?
ここは、暗い。あちらの芝地の方へ出よう。騎士たちからもよく見えるけど、君からも騎士たちがよく見える」
「お前、目を塞ぎな」
セレイヴは一瞬目を見開くが、小さく頷く。
「分かった」
首にクラヴァットのように巻いていたスカーフを抜き取ると、高く掲げてみせた。
「これを目に巻く。君たちがあちらに移動してからね」
ヴェスナはセレイヴを見据えると、リディアとマルグリットを押さえている男たちに目配せをする。
木立を抜けた先、見晴らしの良い整えられた芝地。
その中央に三人が進み出ると、じわじわと騎士たちもそちらへと距離をとったまま、移動していった。
セレイヴはスカーフで目を覆うと、手を差し出す。
「マティアス」
マティアスが手を取り、彼らも、芝地へと進んだ。
距離を保ち、向かい合う。
セレイヴは手を広げた。月光をその腕に集めようとするかのように。
騎士たちは、息を呑んでその光景を見つめるしかできない。
風が吹く。
下草が音を立てて揺れた。
「ヴェスナ、僕が見える?」
「見えるよ。やっぱり中性的なきれいな男だ」
「そうでしょ? みんな、そう言う。
僕は、人を傷つけたくないんだ」
ヴェスナは口角を歪める。
「だったらどうする?」
「令嬢を盾に取られたら、僕たちは何もできない」
「それで?」
「彼女たちを解放してくれるなら、僕がそっちに行く」
リディアが、息を呑んだ。
「お前は今、あの妙な力は使えないんだよな?
あの夜も、そうだった」
「僕は今、目を塞いでる」
「まず、騎士たちをもっと下げな」
目隠しをしたままのセレイヴが顔を巡らせると、騎士たちはゆっくりとヴェスナたちから距離を広げる。
「ヴェスナ。君は、僕を手に入れたら族長になれると言っていたね。
……ヴェスナは、僕自身には興味がないの?」
「愛が欲しいってことかい?」
「……そうだね」
「可愛がってやってもいい」
「この間は新月だった。お互いに姿はよく見えなかった。
ヴェスナ――僕を見て」
ヴェスナと、その脇にいた男たちが、セレイヴを見据える。
騎士たちは、息を呑んだ。




