30 療傷
結局、ヴェスナを捕らえることはできなかった。
セレイヴはベッドの上で身を起こし、枕を背もたれ代わりにして静かに本を読んでいた。
右手にも首にも包帯が巻かれている。身体に毒は残っていないようだったが、念のためと、数日はベッドの上で過ごすように医師に言われた。
天蓋のカーテンは全て開けられ、昼の柔らかい日差しが白いリネンに光を散らしている。窓の外では鳥のさえずり。
いまだ、別邸内の警戒態勢は解かれていない。部屋の外から、騎士たちの歩き回る音が絶えず聞こえてきていた。
部屋にノックの音が響く。
マティアスが確認し、セレイヴのもとに戻ってきた。
「リディア様がいらっしゃいました」
本から顔を上げたセレイヴは、眉を寄せる。
「今は……会いたくない」
マティアスの視線が、セレイヴから部屋の扉の方へと滑った。セレイヴもそれを追いかけるが、ますます彼の眉が寄る。
「リディア……」
「ごきげんよう、セレイヴ」
セレイヴは腕を伸ばして天蓋の布を閉じようとするが、その手首はリディアに掴まれた。
「どうせ拒否されると思って、勝手に入らせていただきました」
「……マルグリットは?」
セレイヴはリディアの背後を見るが、誰もいない。
「廊下に」
「僕、ちゃんと連れてきてって言ったよね?」
「そうでしたか?」
リディアがふわりと笑う。
セレイヴも、この辺境に来てから幾らか月日が経ち、次第に理解してきた。リディアがこのように笑うときは大抵怒ってるか、何か考えているときだ。
セレイヴが助けを求めるようにマティアスを見ると、マティアスは小さく息を吐いた。
「……リディア様。
セレイヴ様はまだご療養中です。私は席を外しかねます」
「辺境伯ハルヴァード家の令嬢として命令よ。出てって」
「……」
マティアスはちらとセレイヴを見る。
「私の雇い主は、辺境伯閣下ではありません。国王陛下直々に命じられ、セレイヴ様のお側にいるのです。私の給与も、宮廷から支払われているはずです」
リディアは腕を組み、静かにマティアスを見据えた。
「ただ……」
マティアスの視線が少し下がる。
「身分の話をしますと、陛下の後ろ盾があるとはいえ、辺境伯令嬢と男爵家次男ではやや分が悪いですね……」
「……マティアス。僕のそばにいてくれるよね?」
「……扉の外で控えます」
「未婚の男女が密室に二人になるのは良くないって言ってたじゃないか」
ベッドの縁に座り直したセレイヴのもとまでリディアは歩いてくると、その肩に手を置いた。
「セレイヴ。
初夜を見届人の前で行うような時代は終わったのです。婚約者同士、まして同意がある者同士なら、その時間は尊重されるべきです」
「……そんな時代があったんだ……」
セレイヴが愕然としているのをよそに、マティアスは頭を下げ、部屋を出ていく。
扉が閉まる。
リディアはセレイヴの前に立つと、その頭をそっと自分の胸に押し当てた。髪をくしゃくしゃにするように撫でる。
「……リディア、これはちょっと……その……」
セレイヴの手が宙を彷徨った。
「甘やかしたかったのです。……だから二人きりになりたかった……」
リディアはセレイヴを離すと、ベッドの縁、彼のすぐ隣に腰掛けた。セレイヴの頬はわずかに赤い。
「包帯が……とても痛々しいわ。
……切られたのですか?」
セレイヴは小さく首を振る。
「……噛まれた」
リディアの眉が寄る。
「……噛まれた?」
リディアはセレイヴの瞳を見つめたまま、顎に手を添え、考え始めた。
「侵入者は女だと聞きました。……もしかして異能を持つあなたを誘惑しに来たのですか?」
「そうだと思う」
「それで? 他には何を言われたのです」
「夫にしてやるって」
「……他には?」
セレイヴの視線が、彼自身の体を見下ろす。リディアはその視線を追うと、ますます眉を寄せた。
「首以外にも……触れられたのですか?
……他には?」
「え?」
セレイヴはリディアの強い視線を受けて、ほとんど無意識に唇に指先で触れる。
「キスをされたのですか?」
リディアがセレイヴにのしかからん勢いで身を寄せ、セレイヴはわずかに体を反らした。
「なぜ異能を使わなかったのです。キスをされる前にあなたなら撃退できたのでは?」
セレイヴは一度息を呑むと、小さく息を吐く。
「……使えなかったんだ」
「使えなかった?」
セレイヴが頷くと、リディアは彼の胸に抱きついた。セレイヴは困ったように眉を下げて、その背を優しく叩く。
「なぜ使えなかったのかしら……」
「分からない。
ずっと、僕は願ってた。
“帰って”“僕に触らないで”って。
ヴェスナも、ずっと僕を見てたはずなんだ。
――目隠しをされてたから?
……違うな」
リディアのセレイヴを抱く腕に力がこめられた。
「以前、塔の上で異能を使ったとき、僕自身はヴァルガ族の人の姿は見てなかった。
それでも、異能はきちんと使えた。
僕自身が相手を見てるかどうかは関係ないんだ」
ハッとしたようにセレイヴの肩が一瞬跳ねる。
「……あの日は、新月だった」
セレイヴの腕の中で、リディアが顔を上げた。
「……セレイヴは昼間でも異能が使えるのですか?」
「……使える」
「では、二つ考えられますね」
二人の視線が交わる。
「一つ。
月は太陽の出ている昼でも、陽光の強さに隠されているだけで、空には浮かんでいるのです。
月が出ていること、それが異能発現条件の一つかもしれません」
「もう一つは?」
「月の光は、月そのものが光っているわけではないのです。陽光を返しているだけ。
あなたの力は陽光を必要としているのかもしれません」
「どちらにせよ、新月の晩には力は使えない」
リディアが腕を伸ばし、セレイヴの頬に触れる。
「キスして」
「だめ」
リディアの眉が寄った。
「セレイヴは私のものです。ほかの女に触られただなんて……。すごく嫌な気分」
「リディアの嫉妬は可愛いけど、絶対だめ。キスしない」
「……しっと……」
「嫉妬でしょ?」
リディアは諦めて視線を下げると、セレイヴの肩に頭を預けた。
「嫉妬でした。なぜキスはだめなんですか?」
「……手が痛いから」
「関係ありますか?」
「……僕がそれ以上を欲しくなっちゃうから」
「素直でよろしいです」
並んで、窓を見る。
窓の四角に切り取られた青空は、とても澄んでいた。
「手、痛いですか?」
「すごく痛い。利き手だから大変なんだ」
「ではその右手で私の髪を撫でてください」
「……なにそれ」
「嫌がらせです。キスしてくれないから」
セレイヴがふっと笑うと、リディアも声を出して笑う。
包帯の巻かれたままの右手で、リディアの黒鳶色の髪をそっと撫でた。
「ちょっと当たるだけで痛い」
「ふふ」
「あとさ……やっぱりマルグリットとマティアスにはいてもらったほうが良いと思うよ」
「嫌です」
「まったく君は……」
二人で、小さく笑った。




