29 新月
騎士たちの駆け回る足音。
金属の鎧の擦れる音が、部屋にまで滑り込んでくる。
カスパーとオリバーがセレイヴの部屋の安全確認をしている間、セレイヴとマティアスは静かにソファに隣り合って座っていた。
「異常はありません」
「こっちもだ」
月のない晩、部屋に灯された燭台の明かりだけが、ゆらゆらと心許なく揺れている。
カスパーは灯りを持ったままゆっくりとセレイヴのそばまで寄ると、彼を落ち着かせるように脇に膝をつき、にっこりと笑んでみせた。
「この部屋にはバルコニーもないし、出窓の窓以外は全てはめ殺しだ。その出窓だって、大きくは開かない。そうそう侵入はできないだろう。
出入り可能な扉全てに俺たちがつく。
心配するな。厳重態勢に向こうから逃げていくさ」
セレイヴは、ただ頷いた。
「俺は一度、団長……父上のところへ行ってくる。
セレイヴ、部屋の外には騎士がいる。守ってくれる。この部屋から出ないように」
「……わかったよ」
カスパーが立ち上がると、オリバーもその隣に並ぶ。
「俺は、扉に控えます」
セレイヴはまた、黙って頷く。
カスパーとオリバーが部屋を出ていった。扉が開いたその一瞬だけ、冷えた空気と、騎士たちの足音が大きく部屋に入ってくる。
セレイヴは知らずに、腕をさすっていた。
新月だった。
部屋は闇に沈んでいる。マティアスは部屋の中で控えると言っていたが、セレイヴは“数日続くことかもしれないから”と彼を部屋に戻した。
衣擦れの音が、いやに響く。
寝台の上、何度寝返りを打っても、なかなか寝付けなかった。
不安はある。
しかし、どこかで思っていた。
――月の使者と違って人間相手なら、最悪の事態の前に異能を使えばいい。
――誰のことも傷つけず、ただ、森に帰ってと願えばいい。
身体はやがて、重くなってくる。
やっと訪れた眠気に、セレイヴは身を預けた。
短く息を吐きだした。
胸を圧される感覚に、セレイヴは目を開けた。
「やっとお目覚めかい?」
女の声。
眼前に、見知らぬ女の顔。
声を上げようとしたが、口の中にすぐに布を詰められ、目元にも布を巻かれる。
女はセレイヴの体に馬乗りになり、はだけた夜着の隙間から手を差し込んで彼の肌に触れた。それから、形を確かめるようにセレイヴの顔に触れる。
女の手を振り払おうにも、妙な身体のしびれに襲われ、ろくに動けない。
「中性的な美貌ってやつだね。森にも、辺境にもいない種類の男だ」
闇の這う部屋。
女の淡々と話す声と、セレイヴの漏らすかすかな声だけが、落ちている。
「薬を盛らせてもらったよ」
セレイヴの眉が寄る。
「毒見役がいるんだろう?
一口くらいじゃなんともないような、ほんの少しの毒さ。今、お前の身体はあたしの支配下にある」
女がセレイヴの手首を掴んで掌を叩くと、電撃のような痛みが走った。
小さく声が漏れる。
「あたしは次の族長になる。
そのために、お前が欲しい」
女の手がセレイヴの身体に触れた。やめてほしいと声を上げるも、それは言葉にならない。
かすかな痛みと嫌悪感が全身を舐めるように這う。
「お前に、選択肢を二つ、あげる」
喉元に刃があてられた。
「布を取ってあげる。声が聞きたいからね。でも、大声をあげたら、切るよ」
口の中から布が取り出される。
呼吸が、漏れた。
「あたしに今、ここで殺される。
あたしを英雄にするんだ」
顔が寄せられる。目をふさがれたまま、呼吸が触れる。
初めて嗅ぐような匂い。
リディアの澄んだ香りとは違う。
森で生きる者の、どこか尖った強い香り。
「それか、
あたしの夫になれ。
お前を連れて帰れば、誰も文句は言えない」
唇に柔らかいものが触れる。
滑り込んでくる熱。
――おかしい。
湿った音が耳に響いた。
――彼女はずっと僕を見てるはず。
セレイヴは女の身を返そうと肩を掴んで力をかけるが、手が震える。
――ずっと、見てる。
――なのに、
――どうして?
女の手が、身体を這う。
「かわいいじゃないか。
夫にしてあげよう。あたしはヴァルカ族のヴェスナ。
お前は?」
「……僕から、離れて。
触らないで」
――異能が効かない。
――どうして、効かない。
――どうして……
セレイヴは仰向けにされたまま、足でベッドを蹴った。
ベッドの右上には、呼び鈴があるはず。
身をよじり、手を伸ばす。
だが――
途端に鋭い痛みが走った。
セレイヴの喉から悲鳴にもならない声が上がる。
伸ばした右手のひらをナイフでまっすぐに刺され、ベッドに縫い付けられた。
「呼ばせるわけないだろう」
「……ヴェスナ……帰って……」
ヴェスナは指先をセレイヴの頬から唇に滑らせ、そのまま首筋をなぞる。
彼女はその指を追うように唇を這わせ、セレイヴの喉元を強く噛んだ。
声が溢れる。
目隠しの布の奥で、セレイヴは瞳をきつく伏せ、息を吸った。
「……マティアス!
オリバー!!」
女の肩が震える。
衣擦れの音。ヴェスナは扉の方へ顔を向けた。
途端に、扉が音を立てて開く。
「セレイヴ様!」
ヴェスナはセレイヴから離れ、素早く身を返した。
「侵入者だ!! こっちだ!!」
オリバーの声が廊下に響く。
騎士たちが一斉に駆けだす音。
カーテンがかすかに開いたままの天蓋の奥へ、マティアスが走り込んでくる。
マティアスは、セレイヴを目にし、一瞬息を呑んだ。
顔色を変え、その呼吸が震えた。
「……マティアス?」
マティアスは急いで目隠しの布を外し、乱されていた夜着の前を合わせる。
「動けないんだ。薬が効いてて……」
「薬ですって?」
「あと、手と喉が痛い……」
マティアスは遅れて、ベッドに刃で縫い付けられている右手を見つけ、慌ててその柄に触れた。
「不用意に触れるな!」
駆けつけてきたオリバーがマティアスの手を払う。
「毒が塗られている可能性だってある!」
「だったらなおさら!」
「セレイヴ様の手が動かなくなってもいいのか!?
神経や腱を傷つけている可能性だってあるんだ!」
オリバーは駆けつけてきた他の騎士に向かって声を張り上げた。
「誰か!
医師を呼んでくれ!!
セレイヴ様が怪我をされている!!」
足音がいくつも重なる。
セレイヴは左手を伸ばして、屈んでいたマティアスの頬に触れた。
いつもの匂いと温もりに、強張っていた身体の力が抜ける。
そしてそのまま――彼は意識を手放してしまった。




