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28 予兆


「セレイヴ様……」

「やっぱり行かなきゃだめ?」


 セレイヴがため息をついているのを、マティアスもため息を吐きながら眺めた。

 

 辺境伯邸では、湯浴みは週に一度ほど。庶民として育ってきたセレイヴは、ここへ来てから初めてそれを経験した。多くの使用人に囲まれながら、服を脱がされ、身体を磨かれ、拭かれ、また服を着させられる。


「僕……湯浴みは苦手だよ……」

「儀式のようなものですから……」


 マティアスが先導し、セレイヴがその後を渋々ついて廊下へと出た。その後を、オリバーとカスパーがついて歩く。


 相変わらずすれ違う使用人たちは、視線をセレイヴから外した。各所についている警護としての騎士隊も、同様に。


 セレイヴが苦手なのは、肌を晒すことそのものではなく――これだった。


 ほとんど全ての窓口をマティアスが担っているため、セレイヴが他の使用人たちと関わる機会はあまり無い。

 だがこの湯浴みだけは、部屋を出て、多くの使用人の手を借りなければならなかった。その上警戒中の今は、湯浴み場の近くにも騎士が待機し、あまりにも物々しい。


 脱衣場に入ると、浴場への内扉があるにも関わらず、湿った空気が部屋を満たしていた。


 並んだ使用人たちが一度頭を下げてから、セレイヴを囲む。彼のシャツのボタンに手をかけた使用人の指は、震えていた。


「僕……目隠しをしていようか」

「セレイヴ様!」


 マティアスがすぐに声を上げるが、セレイヴは小さく首を振り、瞳を伏せた。


「……怖いよね。ごめんね」

「大変、申し訳ありません……」


 震えた使用人の声。マティアスは初めは壁に控えていたが、監督官の男を見据えると、前に出た。


「私がやります。セレイヴ様に触れないでください。

 全員下がって」

「マティアス様……」


 監督官の使用人は驚いたように目を見開くが、マティアスは静かに部屋にいた使用人を見回す。

 やがて、監督官は諦めたように頭を下げた。


「我々は使用人控室におります。何かあれば、すぐにお声掛けください」


 並んで、使用人たちが出ていく。扉が閉まる音が部屋に響いた。


 どこかで湯が滴る音。

 それが大きく響いた。


 マティアスがセレイヴの前に立ち、そのボタンに触れようとしたが、それはセレイヴの手がとめる。


「……自分でできる」

「セレイヴ様」


 手を離し、視線が一度だけ短く交わった。


 セレイヴはマティアスに一歩寄る。

 その肩に、そっと額を預けた。


「……ごめんね」

「何がです」

「また、君にばかり……」


 小さく息を吐く。


「……でも、怯えている人を怒っちゃだめだ」

「しかし、あの態度は……」

「僕だって……怖い。

 人の視線が、すごく怖いんだ」

「……私の目も、怖いですか?」


 セレイヴが首を振る。彼が顔を上げると、二人の視線は近くで交わる。背格好の似た二人だ。目線はほとんど同じ。


 セレイヴが、思わずふっと笑う。


「やっぱりリディアの方がかわいい」

「比較しないでくださいよ。当たり前ではありませんか」

「マティアスは格好いい方なんじゃない?

 よくわからないけど」

「よくわからないのに、とりあえず褒めるのはいかがなものかと」

「あっち向いてて。最後まで一人でできるから」

「しかし」

「そんなに僕の体が見たいの?

 物好きなんじゃない?」

「……壁に控えます」

「うん」


 二人で、くすくすと笑いあった。





 手短に湯浴みを終え、夜着に自分で着替えたセレイヴの髪をマティアスが布で拭う。頃合いを見計らって再び出てきた使用人たちは、壁に一列に並んで、揃って頭を下げた。


 椅子に座ったままのセレイヴが、それを横目でちらと見る。


「湯浴みに慣れない僕が、恥ずかしがってみんなを追い出したんだ。

 ね、マティアス、そうだよね?」

「……はい。そうでした」


 セレイヴは満足げに瞳を伏せた。


「今日はもう終わったから、みんな下がっていいよ。ありがとう」


 マティアスが濡れた布を近くの台に置くと、セレイヴは立ち上がる。マティアスが肩にかけたガウンに袖を通し、自分で前の紐をとめた。使用人の一人が扉を開けると、セレイヴとマティアスは並んで外へ出る。


 廊下の冷えた空気は、まだ湿り気のある髪に染み込むようだった。

 ひんやりと体が冷やされていく。

 小さく、息が漏れた。


「……何かあったか?」


 廊下で待機していたカスパーに問われるも、セレイヴは首を振って歩き出した。


「何もないよ。お湯、気持ちよかった」

「そうか」


 マティアスが横に並ぶ。


「……私としては、報告すべきだと思いますが」


 セレイヴだけに、届く声。


「何を?」

「……セレイヴ様」

「人の目のない湯浴みは、本当に気持ち良かった。いつもあんな感じでいいのに。

 ただ、湯温の管理はさすがにできなくて、結構温くなっちゃったかな」

「お部屋に戻ったら、すぐに温かい飲み物をご用意します」

「ありがとう」


 また、二人でくすくすと笑う。


 そうして、建物の上階にある部屋へと向かう、その最中――


 金属が打ち鳴らされるような大きな音が響いた。


 オリバーがセレイヴの前に立ち、カスパーがピタリと背後につく。


「……何? 何の音?」

「……侵入者です」


 オリバーが短く答えた。


「報告!

 何があった!」


 カスパーが声を上げる。

 駆けてきた騎士の一人がオリバーに向かって声を張り上げた。


「門前にいた騎士が倒され、女が一人邸内に侵入しました!」

「女だって!? 今どこに?」


 騎士は顔を青ざめさせて、首を振る。


「絶対に見つけろ!

 それから、団長にも報告を!

 馬を走らせて応援も呼べ!」


 近くにいた騎士たちが声を上げ、駆けていった。


 オリバーがセレイヴの腕を取り、階段を上る足を早めさせる。


「急ぎ、部屋に戻りましょう」

「女って……?」

「相当な手練の“女”だ。辺境騎士を倒せるような女などそうそういない。

 ヴァルガ族に違いない。しかも、かなりの上位層の者だ」


 苦い顔をしたカスパーにも背を押され、セレイヴは、騎士に囲まれるようにして部屋へと駆ける。


 脈は、跳ね上がっていた。

 駆ける足音がいくつも邸内に響いている。


 部屋の扉を開けた。

 その時――


 視線を感じた。


 燭台の火が、ゆらりとかすかに揺れる。

 あちこちで鳴る足音や警戒音。

 その狭間に落ちた、何かの視線。


 セレイヴが振り返るも、カスパーたちに押し込まれるようにして部屋に入れられる。


 冷えた違和感が、足元を静かに這った。



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