3 鳴嘶
辺境伯邸から乗ってきた馬車を降りると、まるで小さな町のように騎士団員の寮、医療棟、使用人棟、鍛冶場などが並んでいた。
遠くには、国境防壁となる高い石の壁も見える。
辺境領内の森によって隔たれたそこは、騎士団のための訓練施設。
金属を叩く音。荷を運ぶ団員や使用人たち、奥からは剣戟や掛け声がひっきりなしに聞こえてきた。
土が剥き出しのその道を、セレイヴとマティアスは並んで歩いている。王都育ちのマティアスは珍しそうに視線を巡らせていた。
「凄いですね。熱気が既に違います。
辺境騎士団の訓練は、やはり王都騎士団より激しいのでしょうか?
楽しみですね。セレイヴ様」
「……うん」
辺境に来てから、二人の服装も変わった。
もともと貴族の子息であるマティアスは、王都で履いていたロングブーツを動きやすい編み上げのミドル丈ブーツへと替えた。
セレイヴの服装は、庶民の着る目の粗いリネンシャツから、質の良い高襟のシャツに。光沢のないスカーフをクラヴァットのように簡単に首に巻いていた。質素な装いであるのに、不思議と目を引くのは変わらない。
すれ違う人々が、みなちらりと視線を向ける。
ふと、マティアスが腕を上げ、指さした。
「セレイヴ様! 見てください。あの厩舎。大きいですね!
何頭くらいいるんでしょうか」
「……」
「近づいてみませんか?」
無意識に足が早まるマティアスに合わせて、セレイヴも少し足を早めた。
「……マティアスは見たいの?」
「はい。軍馬を近くで見るのは初めてなんです」
「そう……」
セレイヴが俯くのもよそに、マティアスは軍馬を見て目を輝かせる。
「マティアス……。あまり近づかないで――」
身体の大きい軍馬。
騎士が手綱を握っている。
マティアスは王都で乗ったことのある大人しい馬と同じように、その頬に触れてみようと手を伸ばした。
だが――
馬のたてがみが震える。
見知らぬ青年。
突然伸ばされた腕。
「あっ」
騎士が手にしていた手綱が、切れる。
軍馬は突然暴れ出した。
鋭い嘶き。
マティアスの眼の前。
馬が前脚を上げて立ち上がる。
「マティアス!」
セレイヴがマティアスに体当たりをして彼を突き飛ばす。
馬の正面に立って両腕を広げた。
その瞳が光を帯びる。
それは、一瞬のこと。
馬は、ふいに、足をゆっくりと下ろし、セレイヴたちとは逆方向に駆け出した。
騎士は慌ててそれを追う。
砂埃が、高く舞った。
セレイヴは胸を押さえ、その場に膝をついた。
「セレイヴ様!」
マティアスは急いでセレイヴに駆け寄る。
「セレイヴ様! 申し訳ありません!
お怪我はありませんか!?」
マティアスが震えるセレイヴの肩にそっと手を触れようとして――
セレイヴは腕を振り上げた。
「触らないで!」
その手がマティアスの頬に強かに当たる。
振り返ったセレイヴはハッとして目を見開いた。
「ごめん……」
咄嗟にマティアスの頬を両手で包む。
マティアスとセレイヴの視線が真っ直ぐに交わった。
その途端、セレイヴは驚いたようにマティアスから離れた。
「……セレイヴ様」
「ぶってしまって……ごめん」
「そんなこと……。私を守ってくださったんでしょう?
セレイヴ様こそ、お怪我はありませんか?」
セレイヴはマティアスに背を向けて立ち上がると、胸を押さえながら俯いた。小さく首を振る。
「僕は……大丈夫だから」
金属の擦れる音が近づいてくる。
事態に気づいた騎士たちが彼らのところに集まってきた。
「おい。大丈夫か?」
「悪かったな。軍馬は気性が荒いから突然近づいたら危険なんだ」
気遣う騎士たちからセレイヴを庇うようにマティアスは立つと、彼はにっこりと笑った。
「大変申し訳ありませんでした。……慣れないもので。
……少し休憩させていただいても?」
「あっちに騎士団員用の食堂がある。個室もあるから、借りるといい」
「ありがとうございます」
マティアスはくるりと彼らに背を向けると、セレイヴの両肩を後ろからしっかりと掴んで支えた。
「……僕には――」
「今、この状況で主人を支えない侍従なんて不自然です。少し我慢してください」
小声でそう言われると、セレイヴは黙って視線を下げる。
マティアスは騎士たちに頭を下げながら、セレイヴの背を押してその場を離れた。
◇
マルグリットが茶の準備のために調理場に入ると、そこには先客がいた。
石だらけの無骨な辺境伯邸では少しだけ浮いた、貴族的な青年。
「マティアス卿じゃないですか」
マルグリットが逃げ場をなくすように壁に片手をつくと、マティアスは眉を寄せて彼女を見た。
「……マルグリット卿ではありませんか。
私に何か御用ですか?」
「あなたと話したい」
「私はお茶をセレイヴ様にお持ちしたいのです」
「少しだけ雑談しましょうよ」
マルグリットはにっこりと笑っているが、深緑の辺境騎士団の制服に身を包んでいる彼女の笑みには、逆らえない圧を感じる。マティアスはため息を吐いた。
「……少しなら」
マルグリットは彼の肘を掴むと、有無を言わさずリディアの部屋までマティアスを連れて行く。
無理やりマルグリットにソファに座らされたマティアスは、小さくなっていた。目の前には辺境伯令嬢リディア。
マルグリットは彼の後ろをうろうろと歩きながら話し出す。一つに結ばれた金の髪が、その背でゆらゆらと揺れていた。
「マティアス卿は、セレイヴ様の一番近くにいらっしゃいますね。どんな方なんです?
――彼は」
リディアは口を挟まずに、淡く笑んでマティアスを静かに見つめている。
マティアスは膝の上でこぶしを握り、視線をわずかに下げたまま、動かない。
――これじゃまるで尋問じゃないか……。
「マティアス卿はそもそもどういった経緯であの方の従者に?」
「……陛下直々にご指名いただきました。
私の実家は男爵家ですが、代々宮廷実務官を担っています。政治的にも、ちょうど良かったのだと思います」
「セレイヴ様って……ちょっと不思議な方ですよねぇ。
お嬢様付きの私としては、少し……信用ならないというか」
マティアスのこぶしに、わずかに力がこもる。
「ほら。見目も良いでしょう?
王都にいれば、あの方はさぞいい思いができたのではありませんか?」
マティアスはちらとマルグリットを振り返った。目が合うと、また視線を戻す。
――マルグリット卿は、セレイヴ様のこと、あまり聞かされていないのだろうか。
リディアを見ると、彼女は小さく頷いた。
――リディア様は、さすがに聞いていらっしゃるだろう。
セレイヴ様の力のこと。
――知っていれば、王都にいた方がいいなんて、思わないはずだ。
「……お嬢様付きの護衛騎士としては、セレイヴ様について知っておきたいのです。
お嬢様を託すに相応しい方なのかどうか」
マティアスは奥歯を噛みしめる。
「……セレイヴ様は、悪い方ではありません」
「まさかもうあの見目に洗脳されているのですか?」
マルグリットの責めるような言葉に、マティアスの肩が震えた。
顔を上げ、マルグリットを振り返って真っ直ぐに見つめる。
「そんなこと!」
――本当に?
また前を向いて、視線を下げた。
――本当に無いと言い切れるか?
――なぜ、あの軍馬は、突然大人しくなった?
――セレイヴ様はあの時、力を使われたのでは?
「セレイヴ様は……本当にお優しい方なんです」
声が、にわかに震えた。
マルグリットとリディアは視線を合わせる。
リディアは、静かにその青年を見つめた。
窓から差し込む陽が、少しずつ赤に染まって、部屋の影を濃くしていく。
まるで何かを隠そうとしているかのように。




