2 違和
「やぁ、リディア」
翌日のリディアの私室。
マルグリットが開けた扉から入ってきたのは、兄のカスパーだった。
背が高く、均整の取れた体躯。辺境騎士団の次期騎士団長を継ぐに相応しい風格の男だった。
厚手の深緑の騎士団服は、王都の騎士団よりも装飾が少ない。ボタンは沈むような銀。飾緒も袖口の装飾もほとんど取り除かれ、襟元の徽章と肩章、胸元の勲章だけが、わずかに光を返していた。
書き物机の前にいたリディアはゆったりと移動すると、先にソファに座っていたカスパーの前に腰を下ろす。
マルグリットが仏頂面のまま二人の前に紅茶のカップを置いた。
紅茶の香りが立ち上る。
「お兄様、どうされまして?」
「いやぁ。すごい別嬪だったな!」
壁に下がったマルグリットの眉が寄る。リディアはカップを静かに持ち上げると、小さく笑んだ。
「……セレイヴ様のことですか?」
「そうだよ」
カスパーはほとんど一口で紅茶を飲みきる。
カップを置いた音が、やけに響いた。
「お兄様は、何か聞いてらして?」
「一通りは聞いている」
「どう思いました?」
カスパーは、じっくりと妹の顔を眺めた。ハルヴァード家の中では最も柔和な顔立ち。だが、その澄んだ若葉色の瞳と真っ直ぐな黒鳶色の髪は、誰よりも底が見えない。
「……リディアは彼に優しくしてやれ。あいつが抱えるものは複雑そうだ」
リディアはそっと息を吐くと、小さく首を振る。
「……お父様もそのようなことを仰っていました。
お兄様も、お父様もお人好し過ぎではありませんか?」
マルグリットがカスパーのカップにおかわりを注ごうとしたが、彼は手を軽く上げてそれを制した。
口角を上げ、リディアにニッと笑んで見せる。
「……もう魅了されてたりしてな」
「笑い事ではありません」
カスパーは低く声を立てて笑った。
◇
リディアの父、アルベルトは石の渡り廊下をゆっくりと歩いていた。彼の視線が、わずかに下がる。
兄王レオンハルトに呼び出されたあの日――
アルベルトは眉を寄せた。片道二週間程もかけて馬を走らせて駆けつけてきた彼は、信じられない思いで兄を見つめた。
「兄上に庶子だって?」
「そうだ。私も最近知ったんだがな」
黒髪の王、レオンハルトはソファに深く身を預け、ゆっくりと頷いた。二人の間には、ローテーブルの上に置かれた燭台の火だけが揺れている。人払いがされ、ここには火と、二人しかいない。
「本当に、兄上が……?」
愕然と見つめてくる弟に、兄は苦く笑った。
「……私も、若かった」
「兄上……」
「彼を守りたい」
アルベルトは髪を掻きむしるようにかきあげると、細く息を吐きだす。
「……王の血を継ぐ庶子など争いの種だ。辺境で預かることに異論はないが」
「それだけじゃないんだ」
弟がゆっくりと顔を上げると、兄はそれを静かに見つめた。
「彼はルミナリスの系譜だ」
蝋燭の火が揺れる。
アルベルトの若葉色の瞳が大きく見開かれた。
「……まさか」
「私が愛したのは、その女王だ」
王は、ゆったりと脚を組むと、その膝の上で指を組んだ。
「彼は異能を持つ」
レオンハルトの淡い翡翠の瞳の奥で、じわりと火が揺れる。
「人を魅了してしまうんだ」
アルベルトは息を呑んで呆然と兄を見つめ、レオンハルトはそれに苦く笑った。
「だが……彼は誠実だ。街の民を見れば分かる。彼の近くにいた多くの人間は彼に好意を抱いている」
「……魅了の力で?」
「断言はできない。だが、私は彼自身の行いの結果だと思っている」
レオンハルトの視線がゆっくりと下がると、アルベルトもそれを追うように視線を下げる。
「彼と同年代の若者は彼を嫌っている。惚れた女たちがみな彼の見目に惹かれて取られてしまう……とな。
力を使っているのなら、彼らだってセレイヴを嫌わないはずだ」
溶けた蝋が、ゆっくりと蝋燭を伝い落ちていく。
「……女王に惹かれてしまった私の言葉が信じられないか?」
アルベルトが顔を上げると、レオンハルトは口角を少しだけ持ち上げて、笑んだ。
「辺境に帰る前に、お前は独自に調査してみればいい」
アルベルトは片手で顔を拭う。
「愛した女性との間に生まれた子だ。本音としてはそばに置いておきたい。
だが、王都は彼を苦しめる。
それに、私が最も信頼できる男は、お前だ。
誰かに預けるなら――お前に預けたい」
兄王の目の奥には、言葉にできない光が静かに沈んでいた。
セレイヴの部屋に入ったアルベルトは、視線で彼を探す。マティアスが静かに出窓を手で示すと、彼はゆっくりとセレイヴに近づいた。
籐椅子の背もたれに手を置き、セレイヴの顔をのぞき込む。
セレイヴはアルベルトに気づくとびくりと肩を震わせ、顔をそらした。
「セレイヴ。我が辺境騎士団の訓練を見に来ないか?
王都の騎士団より迫力があって面白いぞ」
「……行かない」
アルベルトは声を立てて笑うと、セレイヴの前にあったティーテーブルを退けて、前にしゃがみ込む。
「来いよ」
「……嫌だ」
「どうしても?」
「……どうしても嫌だ」
アルベルトが部屋に視線を巡らせると、困ったように眉を下げているマティアスが目に入る。
彼は、セレイヴにだけ届くように声を潜めた。
「お前が行かないとマティアスが咎めを受ける……と言ったら行くか?」
セレイヴは眉を寄せてアルベルトを一瞬だけ見る。すぐに視線を外して目を細めた。
「……騎士のくせに、卑怯だね」
「これを卑怯と思うやつは優しいやつだ。違うか?」
セレイヴは瞳を伏せる。長いまつげが頬に影を作っているのを、アルベルトは静かに眺めた。
◇
夜。
リディアが自室の窓辺に立つと、別棟の庭の方に人影を見つける。
木立の隙間からのぞく、少しだけ開けている小さな庭。そこに立っている青年の髪が、淡く、月の光を返している。
――セレイヴ様だわ……。
リディアはこっそりと部屋を抜け出し、彼の元へ向かった。
セレイヴは長い下草の間に立ち、空を見上げていた。
満月。
青白い光が、彼を真っ直ぐに照らしている。
月光を受けるように、両手を広げた。
ゆっくりと息を吐き出し、彼の唇がかすかに動く。
リディアはそれを、木立の影から見つめていた。
――何をしていらっしゃるのかしら……。
ゆっくりと、近付く。
風がそよぎ、葉が揺れる。
パチリ――枝を踏んだ。
リディアがハッとして彼を見ると、セレイヴも驚いたように目を見開き、こちらを見ていた。
金の瞳が、わずかに光を帯びる。
――ドクリ。
動悸が、耳のそばで一瞬だけ強く鳴った。
短い呼吸の音。
彼はさっと顔を背け、リディアとは反対方向に駆け去っていった。
リディアはほとんど無意識に胸を押さえる。
喉の奥が、かすかに張り付いた。
「……今のは?」
葉擦れの音。
風が、足元を通り過ぎていった。




