1 凪風
陽が落ちようとしていた。
果ての見えない深い森に、赤い陽が触れている。
赤から藍へと染められている空。
流れる細い雲。
辺境の土と森の匂いが混ざった、冷たい風が吹く。
辺境伯邸の車寄せに、騎士の乗った馬と数台の馬車が並ぶ。鎧を鳴らしながら辺境騎士達が次々と降り立ち、最後にその馬車の扉に手がかけられた。
扉が開く。
その一瞬――風が凪いだ。
彼はステップを踏み、ゆっくりと、辺境の地を踏む。
それを見ていたリディア・ハルヴァードは、息を呑んだ。
彼の、白い肌。銀の髪に金色の瞳。
この世のものとは思えぬほど、整った顔貌。
彼が、歩き出す。
目の粗いリネンシャツに細身のパンツ。飾り気のない服装だというのに、その場で彼を迎えたすべての人が、彼から目をそらせなかった。
“……見ればわかる”
――お父様の仰っていた意味が、理解できるわ。
リディアは彼を見つめたまま、体の前で組んでいた指先に、思わず力を込めた。
あれは先日のこと――
「リディア。君の婚約者が決まったよ」
辺境伯――アルベルト・ハルヴァードの執務室に呼ばれたリディアは、小さく首を傾げる。
深色の執務机。それに合わせたこの部屋の調度品には、どれも年季が入っていた。壁に貼られた地図も、掛けられた団旗も、昼の白い光を受けてもどこかくすんでいる。
「……突然ですね。吟味したいからまだまだ決められない……なんてお父様はよく仰っていたのに……」
父は眉を下げて、気まずげに笑った。
「兄上たっての願いでな……断れなかった。
会ってみたけど、悪い青年ではないと……父は思うよ」
リディアと同じ黒鳶色の髪を撫でつけながら、アルベルトはふと視線を下げる。
「伯父様の? つまり王命ですか?」
「……いや、“お願い”だ」
「左様ですか」
リディアは若葉色の瞳をわずかに細めて、父を見つめた。
アルベルトは視線を持ち上げ、リディアの瞳を静かに見つめ返す。
「ここから先は、我らだけの知る話だ。他言無用で頼むよ」
「……はい」
「君の婚約者は……月の子だ」
リディアの眉がゆっくりと寄った。それを見たアルベルトは少しだけ愉快そうに笑う。
「……聞いたことはありますが。
……その種族は御伽噺の中の話ではありませんか?」
「御伽噺かどうかは……見ればわかる」
父は、笑っていた。
王都で最強の騎士と呼ばれたその男は、感情の読めない顔でふわりと笑っていた。
月の子である彼――セレイヴは、整えられた前庭の石畳をゆっくりと歩く。
列となって並んでいた辺境伯邸の者たちは、それを静かに目で追った。
その中にいたリディアも、なす術なく、彼を見つめている。
ふと、彼の視線が滑る。
金の瞳とリディアの瞳が、静かに交差した。
だがそれは、すぐにそらされる。
彼は伏し目がちに歩き続け、邸宅の中へと入って行った。
音が消える。
彼の前後を固めていた騎士たちの鳴らす金属の擦れる音が、遠くなった。
そこに残された人々はみな、ただ立ち尽くしていた。まるで、凍ってしまったかのように。
赤い夕陽だけが、静かに邸宅の壁を舐めていた。
別棟へ続く石の渡り廊下を歩きながら、リディアは斜め後ろにいる侍女兼護衛――マルグリットをちらと振り返る。
「怒っているの?」
背の高い金髪碧眼のマルグリットはかすかに眉を寄せたが、視線はリディアの周辺を探ったまま。
「私がですか? まさか。
閣下の決められたことに一騎士である私が否やなど……」
「日頃から、遠慮なく物申しているじゃないの」
マルグリットはしばらく黙り込んだあと、口端を持ち上げて笑んでいるリディアの視線を受け、諦めたように小さく息を吐いた。
「……私のお嬢様の婚約相手があんな得体の知れない男だなんて、信じられますか?
私は納得いっておりません」
鼻を鳴らしたマルグリットにリディアは苦笑をこぼした。
「とても見目の良い方だったわ」
「……だからなんだと言うのです」
たまらずリディアは声を立てて笑う。
「辺境にあれほど美しい方はいないでしょうね」
「王都にだっていませんよ」
「珠玉かもしれないわ」
「……美しいだけで?」
「まさか。人の価値って、いろいろあるのよ」
リディアは笑った。父に似た、ふわりとした笑い方で。
「まだ、何も決めつけてはいけない。
わかるのは、彼の見目が良いってことだけ」
マルグリットは細く息を吐く。
「……そうですね」
別棟の一室。最も陽の入る部屋が、彼に与えられていた。
セレイヴの部屋に着くと、彼の侍従としてあてがわれた青年マティアスが二人を迎えた。整えられた墨色の髪の落ち着いた雰囲気の彼は、彼女たちを中へと導く。
広い部屋。急遽整えられた部屋の調度品は、古いが品のあるものが選ばれ、静かに並んでいた。
壁の燭台には既に火が灯され、深い色味の木製家具の上を光が鈍く滑っている。
彼は、奥の出窓に置かれた籐椅子に腰を下ろしていた。
陽はほとんど落ち、窓の向こうには白い月が覗いている。
「セレイヴ様、リディア様がいらっしゃいました」
マティアスが声をかけるが、セレイヴは窓の外を見つめたまま、動かなかった。
リディアは彼を見つめる。
「セレイヴ様。お初にお目にかかります。
リディア・ハルヴァードと申します」
彼女はカーテシーをするが、彼がこちらを向くことはなかった。
「婚約者が挨拶に来たのです。せめてこちらを見るべきではありませんか?」
落ち着いた声は、部屋に静かに響いた。
セレイヴは、ふっと小さく笑った。
「ごめんね。
庶民として育ったから、僕には礼儀がないんだ」
熱のない声。
静かだが、どこか弦の震えのように、皮膚に触れる声だった。
「セレイヴ様」
青年は、ゆっくりと立ち上がる。
衣擦れの音さえ、惜しむかのように。
彼はリディアを振り返ると、かすかに、悲しげに目を細めた。
「君は美しいのに……僕の婚約者になど……」
一度瞳を伏せてから、彼は視線をあげる。
金の瞳に、燭台の弱い光がじわりと滲んだ。
「僕のことは放っておいてくれて構わないよ。……挨拶に来てくれてありがとう」
口端だけ持ち上げて笑む。
「では、さようなら」
彼はまた、椅子に身を預け、窓の外を見上げた。
そうして、彼は、動かなくなった。
リディアはマティアスを見るが、マティアスは小さく首を振る。
そっと息を吐き、リディアは踵を返した。
部屋に戻ったリディアは、窓から月を見上げていた。彼がそうしていたのと同じように。
「なんですか! あの男!」
マルグリットは文句を言いながらも、リディアに紅茶のカップを丁寧に差し出す。琥珀の水面が、ゆらりと揺れた。
「あなたにも少し話したけど、彼、生い立ちが複雑なの」
「ですが」
「彼……哀れだわ」
マルグリットは言葉を詰まらせる。
「でも、ここは辺境。
王都から最も遠く、政治からも遠い場所」
リディアはゆっくりと視線を下げた。
「それでいて、国を守る要」
琥珀の水面に、月が映り込む。
「……見極める必要があるわ」
それは、彼女がカップに触れると、じわりと滲み、溶けるようにして消えてしまった。




