26 相克
マティアスはオリバーを追って部屋の外へ出た。扉前で待機しているオリバーと目が合うと、彼を鋭く見据える。
「……マティアス卿、何か?」
廊下に備え付けの燭台の火は鈍く、二人の影は淡い。古い石壁が、ゆらゆらと橙色の明かりに揺れていた。
マティアスはオリバーの隣に並ぶと、静かに腕を組む。
「……セレイヴ様をお守りするために、情報をお渡しするのは必要であったと私も思います」
オリバーは黙ったまま、マティアスの銀灰の瞳を見つめた。
「……ですが、あのように何でもかんでも包み隠さずにお伝えする必要はありましたか?
セレイヴ様は王都で丁寧に育てられた方です。まだ月の子であることも、おそらく王族の血をひくことも受け入れきれていない。静かな方ですが、まだ動揺の最中にいらっしゃるのです。
そんな状況下で、辺境の血なまぐさい事実を殴りつけるかのようにお伝えする必要が、本当にありましたか?」
オリバーは小さく息を吸う。
「お言葉ですが、囲い込んでしまうことが、守ることだとは俺は思いません」
二人の視線が、きつく交わった。
「セレイヴ様は確かにお優しい方です。決して頭の回転が鈍い方ではない。主として、大切にお守りしたい方です」
オリバーは正面の壁に、ゆっくりと視線を向ける。
「しかし、ここは辺境です。
“血なまぐさい”土地です。
カスパー様とともにこの地を治められるのであれば、知っていていただかねばなりません」
オリバーは腕を組み、ゆっくりと視線をマティアスに向けた。
「それに……考えたことがお有りですか?」
オリバーの瞳にふっと影がさす。
「お優しくて、思慮深くて賢いセレイヴ様が、月の子、王族、辺境の治者……そこに立つための全ての覚悟を決められた時。
……きっと、誰にも止められなくなる。
――想像してみてください。鳥肌が立ちませんか」
「……だからといって」
マティアスは振り切るように首を振った。
「一度にすべてを伝える必要はやはり無かったのではありませんか?
折を見て、ゆっくり――」
「あなたは、それでいい」
オリバーはじっとマティアスの瞳を見つめる。
「セレイヴ様に“お可哀想に”と言って、優しく愛撫でもして差し上げたらよろしいのです」
「……何?」
マティアスの全身にさっと視線を這わせると、オリバーは片側の口端をわずかに上げた。
「既にその身は差し出したのですか?
あなたの献身は……深いですから」
「なんと不躾な!
セレイヴ様に対しても不敬です!
セレイヴ様がそのようなことをお望みになるとでも!?」
「……男でしょう。あの方も」
マティアスは奥歯を噛み、オリバーはただ真っ直ぐにマティアスを見つめる。
「人の上に立つ、男ですよ。
甘やかすなんて、俺にはできませんね」
「私を挑発して、何を聞き出したいのです」
ふっと視線をそらしたオリバーは、壁にゆれる影に目を向けた。
「別に……。八つ当たりですよ。
羨ましかっただけです」
ぽつりと、言葉が落ちる。
「セレイヴ様とマティアス卿の、無垢なほどの互いの信頼が」
「オリバー卿……」
「早く、気持ちが落ち着くハーブティーでも淹れて差し上げて、セレイヴ様のもとに戻られては?
――きっと落ち込まれている。俺のせいで」
マティアスは一歩オリバーから離れると、もう一度きつく彼を見据えた。
「……えぇ、そのように致します。
失礼します。お茶を淹れねばなりませんので!」
踵を返し、大股で去っていくマティアスの背中をオリバーは静かに見送る。壁に背を預け、一度、腰の剣に触れた。
「俺だって……もう少し器用にできたらなとは……思うさ」
細いため息が、暗い廊下を静かに滑っていく。
茶器の乗ったワゴンを押しながらマティアスがセレイヴの部屋に入ると、セレイヴは変わらず出窓の前で月を眺めていた。
衣擦れの音と鈍い車輪の音に、ゆっくりと彼が振り向く。口端を少しだけ持ち上げて、愉快そうに目を細めていた。
「……マティアス、僕を優しく愛撫しに来てくれたの?」
「……聞こえていましたか」
セレイヴの脇まで行くと、マティアスは静かにハーブティーをカップに注ぎ、彼の前に置く。
「ここは静かだから……。扉の前で話していたら、聞こえちゃうんだ」
「私の配慮が足りませんでした」
セレイヴはふっと笑うと、首を小さく振った。
「責めてるわけじゃないよ。ただ……その……」
その金の瞳がゆっくりと沈んでいく様を、マティアスは静かに見つめている。
「僕は、君たちが期待してくれているほどの人間なんかじゃないよ。
人よりも、大きなものは抱えてるかもしれない。それをうまく抱えられなくて、潰れそうになってる、ちっぽけで、弱虫な――」
セレイヴは指先を唇に当てると、少しだけ考え込んだ。
「なんだろう?
人じゃない……。異物?」
「セレイヴ様。ご自身をそんなふうに仰ってはなりません」
セレイヴは手を伸ばすと、隣に立っているマティアスの手をそっと取る。
「とにかく……弱いんだ。僕は」
声が、震える。
「未来を……家族を失ってしまった人がいる……。
……耐えられないよ。
せめて、今日くらいは、泣いてもいいよね?」
マティアスはセレイヴの前に膝をつくと、セレイヴの手を両手で包むようにした。
「どうぞ、お泣きになってください。
たくさん泣いて……いいんです。
辺境は死をも恐れぬ屈強な騎士ばかりです。
でも、あなたは、人の痛みがわかる。
だからこそ、あなたはつらいかもしれない。
しかしながら、あなたの柔らかさは、この辺境にも必要だと私は思いますよ」
セレイヴは潤んだ瞳を少しだけ細める。
「マティアスは、そうやってすぐ僕を甘やかす。だから、オリバーが変なことを言い出すんだよ」
セレイヴが小さく笑うと、マティアスも口角をわずかに上げた。
「マティアス。今日はもう下がって。
……一人で、泣きたいから」
マティアスは頷くと、静かに立ち上がった。
「それで……明日の朝は、また僕の支度の手伝いに来てね。
普通に。何事もなかったみたいに」
「はい」
ワゴンを押し、セレイヴのそばを離れる。
扉を出る前に、マティアスは一度だけ振り返った。
銀の髪は、静かに月の光を返している。
マティアスは頭を下げると、そっと部屋を出ていった。




