25 月隠
「別棟の警護を増やす」
アルベルトの執務室。
呼ばれたカスパーとオリバーは頷いた。
卓上の燭台の火が震えるように揺れる。
壁に貼られたくすんだ地図。
鈍い光を受け、それはぼんやりと浮き上がって見えた。その多くの面を占める森の図は、今にも闇に沈み込もうとしている。
アルベルトは黒鳶色の髪を撫でつけた。
「セレイヴの体質上、彼自身の護衛を増やすのはあまり得策とは言えない。館そのものに人を増やそう」
カスパーの視線が下がる。
「あいつは……いいやつです。
でも、未だにセレイヴを怖がる騎士は多い」
カスパーは日中に警護についたときは、時折セレイヴに乗馬を教えている。さほど、筋は悪くない。カスパーにも、馬にさえも、セレイヴは穏やかに接する。
だが――それ以上に、馬も穏やかだ。
セレイヴが馬の扱いが特別上手いだけなのだと、カスパーは思っている。
だが、軍馬が大人しくなっている様を見た騎士たちは、目を見合わせていた。カスパーの眼の前で、表立ってセレイヴのことを悪く言う命知らずな者はいない。
だが、漂う空気は明らかだった。
カスパーは瞳を伏せる。
「それから……もう一つ、問題がある。
私としては、こちらの方が気掛かりだったりする」
カスパーとオリバーが視線を上げた。
「セレイヴに、誰がどう伝えるか……。
彼は真面目だ。だが、騎士としての覚悟のようなものは、当たり前だが持ち合わせていない。
ヒューやロアンのことで、自分をひどく責めかねない」
「ヴァルガ族との確執は、セレイヴが来るずっと前からあったものです。それをきちんと伝えて……」
「それで、セレイヴが納得すると思うか?」
カスパーは首を振る。
オリバーが息を呑み、小さく手を上げた。
「俺が……伝えます」
アルベルトとカスパーは驚いたように彼を見る。
「いや、でも、オリバーはセレイヴが……」
言いかけたカスパーに、オリバーは首を振って見せた。
「異能や、月の子であることへの恐怖心は、今でもないわけではありません。
でも……守るべき主として、セレイヴ様を好ましく思っているのも、正直なところです。
不謹慎な考えかもしれませんが、この機会にきちんとセレイヴ様と向き合えればと……」
アルベルトは腕を組んで息を吐き出すと、頷く。
「……そうだな。
オリバーに任せよう。何かあればすぐに相談してくれ」
オリバーは深く頭を下げ、部屋を出ていった。
机の上の燭台の火が揺れる。
アルベルトは大きくため息をついた。
「……酷だな」
「父上」
アルベルトはその辺にあった椅子を手で示すと、カスパーは大人しくそれに腰を下ろす。
「私ももともとは王族だ。今は臣籍降下したとはいえ、生まれたときから王族として育てられた。
そしてカスパー、お前も生まれたときから、辺境の男として育ててきたつもりだ。
だが……セレイヴは、どうだ?」
カスパーが、ゆっくりと視線を上げた。
「月の子であることは、薄々気づいていたようだ。
だが、自分がルミナリスの系譜と、我が国の王族の血を継ぐと知ったのは、たかだか数ヶ月前。
覚悟を決めるには、あまりにも短い時間しか与えられなかった。
彼が背負うものは、どれも過酷過ぎる。
身体よりも前に、心が壊れてしまわないか、私は不安だ」
同じ若葉色の瞳が、交わる。
「カスパー、良き義兄であり、良き友となってやってほしい」
カスパーは静かに頷いた。
風が、部屋の窓枠を揺らす。
カタカタ――と鳴るそれは、どうにも静かだった。
部屋にノックの音が落ちた。
マティアスが部屋の扉を開けると、オリバーが深く頭を下げる。マティアスの眉がきつく寄った。
「オリバー卿……」
「セレイヴ様にお伝えしたいことが」
出窓の前にいたセレイヴはゆっくりと振り返る。
「……珍しいね。オリバーが部屋の中に入ってくるのは」
オリバーが踏み出すと、マティアスは静かに扉を閉め、騎士の後ろについた。セレイヴは読んでいた本をテーブルに置いてオリバーを迎える。
「伝えたいことって?」
オリバーは黙ったまま、セレイヴの前に跪いた。マティアスはそっとセレイヴの背に立つ。
オリバーは、セレイヴに向かって片手を差し出した。若くとも、節くれだった騎士の手。手袋越しでも剣を握り続けた硬い手であることが分かる。
セレイヴは少し迷って、その手に自分の手を乗せた。オリバーは重ねられた手に、さらに自分の手を重ねて、セレイヴの手を包むようにした。
「主。俺の目を見てください」
「雇い主は僕ではないはずだよ」
セレイヴはふっと笑うが、オリバーは表情を変えずに首を振るだけ。
「俺の主は、あなただ」
「……そう」
「お伝えしなければならないことがあります」
セレイヴがオリバーの目を見ながら、小さく頷いた。
「先日、夜警と調査を兼ねて出発した調査隊が、ヴァルガ族に襲撃されました。
それにより、調査隊三人のうち二人は死亡。一人は拉致されたものの、無事生還」
セレイヴの顔から、さっと血の気が引く。
「亡くなったの……」
「戻った隊士の話では、ヴァルガ族はあなたを探していると」
「僕を?」
「“塔の上にいた男について教えろ”と、拷問を受けたそうです」
「……拷問だって?
彼は……無事なの?」
オリバーは、セレイヴの目を見つめたまま、静かに続けた。
「すべての指の骨を折られており、元には戻らない可能性が高い。騎士生命は……」
セレイヴは目を伏せた。ため息を吐き、首を振る。
「その……遺された家族は」
「騎士団から見舞金が支払われ、生涯にわたり生活保障金も支払われます。生き残った隊士に対してもそうです。
彼らが生活に困ることはありません」
後ろで、マティアスが小さく身じろぎした。セレイヴは目を見開き、オリバーの瞳を覗き込む。
「問題ないなんてこと……ないでしょう?」
「我らは騎士です。覚悟の上なのです。それより――」
「それより大切なことがある?」
「セレイヴ様。専属護衛は、変わらず、カスパー様と俺だけですが、別邸の警護は増えます。ヴァルガ族から狙われているとご理解のうえで行動していただけると助かります」
セレイヴは痛みをこらえるように瞳を伏せると、唇を噛んだ。
「その……葬儀やお墓は……」
「合同葬儀が予定されていますが……墓は……」
オリバーの視線が一瞬だけ下がったが、またまっすぐにセレイヴを見つめる。
「遺体が戻っていないので」
「……どういうこと? 森の中に?」
「ヴァルガ族に」
「……そんな」
セレイヴが短く息を吐き出す。知らぬ間に、オリバーは彼の手を強く握っていた。
「主。お守りします。この身を賭しても」
衣擦れの音。
セレイヴは首を振る。
「そんなことしなくていい。オリバー、死んではいけない。僕は大人しく部屋にいるから。簡単に命を懸けるなんて言わないで」
「それが、騎士というものなのです」
セレイヴの指先を閉じ込めるように強く押さえていた手から、ふっと力が抜けた。
「でも……そんな優しい主だからこそ、俺はあなたをお守りしたいと思う。
信じてください」
「オリバーのことは、信じてるよ。
信じてるから、簡単に死ぬなんて言って欲しくないんじゃないか」
「……お守りします」
セレイヴは言葉をなくしてオリバーの青い瞳を見つめる。
「お時間をいただき、ありがとうございました。
それでは、警護に戻ります」
手を離し、オリバーは立ち上がる。彼は深く頭を下げると、踵を返してセレイヴを離れていった。
「……セレイヴ様。申し訳ありませんが、私も少し外します」
「……うん」
マティアスもオリバーを追う。
セレイヴは静かに窓を見上げた。
風が夜空に浮かぶ雲を押し、月は時折姿を雲に隠してしまう。
セレイヴはそれを、ただ静かに見つめた。




