24 軋音
葉の隙間から、月光がかすかに沈んでくる。
狼の遠吠え。
木立の軋み。
抜けていく、細い風。
馬の鼻息だけが温度を持って沈殿する。
三騎の騎馬隊が、森の下草を踏んだ。
鞍の革鳴りが小さく鳴る。
その刹那――
低い悲鳴。
馬の嘶き。
一騎が、落ちた。
闇の支配する森の中。
「ガレス隊士! ロアンがやられた!」
「どこだ! 伏せろ!」
蹄の近く、矢が数本刺さる。
「ヴァルガ族か! 不利だ! 砦に戻れ!」
矢が、降り注いだ。
敵の矢は幹を打ち、ガレスの肩をかすめ、頬を裂いた。
影だけが這う森。
馬を駆る音が、異様に響く。
手綱を強く握り、槍を闇雲に振る。
汗で、槍を握る手が滑る。
きつく足で挟んだ馬の体から伝わる振動が、どうしようもない程に焦燥を駆り立てた。
肺が焼ける。
背後から、悲鳴。
「ヒュー!」
馬に振り落とされた音。
それは、無情にも夜の森に響いた。
――残るは自分、一騎だけ。
砦に、なんとしても戻らなければ。
絶え間なく放たれる矢。
馬に抱きつくように身を低くし、駆けた。
だが、前方の木。
男が、飛び込んできた。
――避けられない!
馬に向かって飛び込んできた男は、ガレスの首に縄をかけ、そのまま跳んだ。
身体が、馬から叩き落とされる。
背が強く打ち付けられ、息が止まった。
一斉に駆け寄ってきた戦士たちが、ガレスを囲い、その手足を縛り上げる。
口に布を詰められ、顔を袋で覆われた。
引きずるようにして、その身を運ばれる。
森に、月光は、静かに落ちていた。
何度目の殴打か、もはや分からない。
鼻が鈍り、血の匂いも分からなくなってしまった。
ずいぶんと粗末な部屋だった。
土が剥き出しの床。壁は隙間だらけの木材。
縄で雁字搦めにされたガレスは、その土の床の上に座らされていた。
松明が壁の近くで一本だけ揺れている。
木棒を持った男が、ガレスの周りをゆっくりと歩いた。獲物を定めようとする狼のように、鋭い視線で、一歩、一歩と。
壁に背を預けるようにして立つ、一人の女。匂い立ちそうなほどに、艶を帯びたその女は、静かにガレスを見下ろしていた。
「……あたしが知りたいのは、塔の上にいた男のこと。
それだけ言えば、解放してあげる」
ガレスは口を引き結ぶ。
女が、棒を持つ男をちらと見た。
木棒が振り上げられ、力を込めて振り下ろされる。
その衝撃に、身体が前に倒れた。男によって肩を掴まれ、身を起こされる。
ガレスは、血反吐を吐いた。
――ずっと、この繰り返し。
「すごくきれいな顔してた。
あの男の名前を知りたい」
ガレスは瞳を伏せ、奥歯を噛みしめた。
「あんたのお仲間の死体。
あたしたちの手の内にある。
……返してほしいでしょう?」
ガレスの肩が震えた。
息が漏れる。
部屋にこもる血の匂い。
火が揺れた。
それでも、彼は口を割らない。
女はため息を吐いた。
ガレスの頭をじっと見つめた後、飽きたように視線を外す。
「死なない程度に好きにしていい」
女は踵を返し、部屋を出ていった。
男が棒を振り上げ、また、強く打ちつけた。
夜半。
気を失っていたガレスが目を開けると、部屋に灯っていた火は消えていた。
視線を巡らせる。
木壁の隙間の向こうから、わずかに声がする。
――酒を飲んでいるのか。
男たちが愉快げに女の話をしているのが、聞こえてきた。
身体を揺する。
身体に巻き付けられていた縄は、散々殴りつけられたせいで、ところどころ擦り切れて細くなっていた。床に落ちていた石に、身体を擦り付け、縄を切る。緩くなった箇所から無理やり片腕を出すと、なんとか、縄から抜けられた。
指先は、ほとんど役に立たなそうだった。
折られ、赤黒く腫れている。
足は無事だ。
――これなら、戦えはしなくとも、砦に戻れるかも知れない。
ゆっくりと起き上がり、壁に寄る。
人の気配はしない。
先ほどの男は、気楽に仲間と飲んでいるのかも知れない。
扉を探す。
今は手の感覚は使えない。肘と背で押して、確かめるだけだ。粗雑な建物。ろくに鍵など掛かっていないだろう。
軋む音を立てて、隙間ができる。
滑るようにして外へ抜け出た。
額が大きく割れているようだ。
片目に血が入り、うまく見えない。
向こうで松明の火が揺れている。
――あそこがこの集落の広場か?
ヴァルガ族の集落ひとつひとつはさほど大きくはない。役割と家族単位で集落をなし、せいぜい三十名ほど。それがいくつも集まって、彼らはヴァルガ族と名乗っている。辺境騎士団としても、その正確な数は把握できていない。
――先ほどいた女……
おそらく次期族長候補の一人。
そんな人物がいる集落なら、武器や馬一頭くらい置いていても不思議ではない。
――何か見つけられるといいが……。
身を低くし、影と影の間をすり抜けるようにして移動する。
呼吸の音が、やけに響くような気がした。
耳鳴り。
葉擦れの音。
どこかで、赤子が鳴く声。
ふと、視線が惹きつけられる。
ガレスの唇が、わずかに歪んだ。
――俺は、ついてる。
ガレスが乗っていた馬が、集落の端に繋がれている。
駆け寄り、ろくに動かない指先と、隠し持っていた小型のナイフで繋がれていた紐を切る。
勢いをつけて跨り、膝で馬の体をはさんで、駆け出した。
星を頼りに、ただ駆けさせた。
南へ。南へ。
闇の森。
葉擦れの音だけが、耳のそばを這う。
幾度も叩かれた身体は、軋みをあげ、意識が朦朧とする。
血で塞がれた片目は、もはやほとんど見えていない。
だが、向こうに見えるのは、
――防壁の篝火。
肌が粟立つ。
暗闇に薄っすらと浮かぶ、その国境防壁。
荒い呼吸。
足が震えた。
「おい! ガレス隊士だ! 戻ってきた!
扉を開けろ!!」
騎士達の声が上がる。
仲間の声。
門番のランタンの火が揺れる。
軋む音を立てて、巨大な木製扉が開けられる。
馬が駆け込み、それはすぐに閉じられた。
仲間が駆け寄ってくる。
身体を支えられ、ガレスは、馬から滑るようにして落ちた。
血だらけの身体。
あちらこちらの骨が、折れてしまっている。
痛みをもはや感じないほどに、身体は襤褸切れのようだった。
「……ヴァルガ族は……」
声が出ない。
掠れ、空気が喉から漏れていく。
騎士たちは息を呑んで次の言葉を待った。
「――婚約者殿を……探している」
仲間の腕に支えられながら、ガレスは、それだけを告げた。
そして彼は
――意識を手放した。




