20 王器
夜。
ディートリヒがワインボトルと、グラスを掲げてみせる。
「飲もう」
深色のボトルに燭台の明かりが滑っていた。セレイヴは籐椅子に腰掛けたまま、眉を寄せる。
「僕……まだ未成年なんだ」
「十七だろう?
あと一年じゃないか。王太子が許す。飲め」
ますます眉が寄る。
「大丈夫。媚薬は入れていない。安心して飲め」
「びやく……?」
ディートリヒは楽しそうに笑った。籐椅子の前のテーブルにグラスを置くと、王太子手ずからワインを注ぐ。
「辺境で作っているワインだ。自領の特産物を知っておくのは悪くない。飲んでおけ」
セレイヴが渋々グラスを取るのを見届けると、ディートリヒはセレイヴの脇に立ったまま一気に飲み干した。そしてじっとセレイヴを見下ろす。
「……飲めってこと?」
「そうだ」
セレイヴは恐る恐るグラスに口をつけた。赤い液体を喉に流し込む。
眉を、寄せた。
ディートリヒは声を立てて笑う。
「まだ良さがわからんか」
王太子は指先をセレイヴの首筋に沿わせる。
途端に背筋が粟立ち、セレイヴは肩をすくめた。
「この程度で赤くなるか。あまり酒は強くなさそうだな。もっと下も見せてみろ。全身赤いのか?」
セレイヴはたまらずディートリヒの指を掴むと、彼を見据える。
「なんで、そういうことばかりするの。男色なわけじゃないんでしょ?」
ディートリヒはやはり楽しそうに笑っていた。
「私は王太子妃をこよなく愛している。血筋も能力も容姿も良い。この上なくいい女だ。
男なんぞ頼まれても抱きたくはないな」
ディートリヒは手を振り払うと、セレイヴの向かいの籐椅子に腰掛ける。口角を上げ、不敵に笑みながらセレイヴの金の瞳をまっすぐに見つめた。
「お前、精神的にも物理的にも人と距離を置いているだろう?
だから、あのようにした。
とんでもなく距離を縮めてやったのさ。
すごく嫌だっただろう?」
セレイヴが静かにディートリヒを見据えていると、彼は髪を撫でつけながら鼻で笑う。
「お前にどうしても異能を使わせてみたかったんだ。……結局失敗したけどな。
だが、お前に王位への野心がないことはよくわかった」
腕を組むと、背を背もたれに預け、脚を組んだ。
「だけどな、お前は人を傷つけることを厭いすぎだ。
父上がはっきりと公表してしまった以上、お前は“王族の一員”なんだ。自覚しろ」
セレイヴの視線が静かに下がる。
「私は武に秀でた男ではない。力がある方ではないんだ。そんな私に簡単に押し倒されるようではいけない。異能を使ってでも、お前は私を遠ざけるべきだった。
お前に傷がつくことで、お前の周りに咎めが行く。
人に安易に触れさせるな。
傷つけさせるな。
悪意があるものを寄せ付けるな。
優しくありたいのなら、強くあれ」
ディートリヒは持っていた空のグラスをテーブルに置いた。そうして、セレイヴの全身にさっと視線を走らせる。
「それに、お前自身は頓着がないようだが、そのずば抜けた容姿も自覚しろ。
例えばお前が本気を出せば、私でさえ落とせたかもしれない。
その美貌は男も女も狂わせる。
それだって才能だ。うまく使え」
セレイヴは自分の胸に手を当て、ディートリヒを見た。彼ははっきりと頷いてみせる。
「王族の血、月の血、その美貌。
すべてお前の武器になるんだ」
ディートリヒは口端を片側だけ持ち上げると、小さく笑った。
「異能のせいでまわりがお前を恐れる?
それでお前は目を合わせるのが怖いんだろう?
馬鹿を言うな。そんなもの、好きに恐れさせておけ。
辺境は国を守る要だ。
力を持つお前がふんぞり返ってその椅子に座っているだけで、他国への脅威になる。
王となる私にとってはこれほど心強いことはない」
ディートリヒは自分のグラスに追加のワインを注ぐと、また一気に煽る。
「お前の優しさや誠実さは、人としては好ましく思う。
だが、王族としては及第点もやれない」
空のグラスをセレイヴに向けた。
「セレイヴ。
我が弟。
強くなれ」
セレイヴは息を呑み、ディートリヒを静かに見つめる。ディートリヒの眉が下がった。
「お前……私のことを今、“意外と良い人だな”と思っているだろう。
腹芸を覚えろ。
アルベルト叔父は騎士らしい男だが、そのあたりはうまい。参考にするんだな」
ディートリヒは立ち上がり、ほとんど減っていないセレイヴのグラスにたっぷりとワインを注ぐ。
「辺境と王都は遠い。気軽に行き来はできん。
だが、ラブレターをたくさん書いてやろう。
返事をよこせよ」
自分のグラスとワインボトルを持つと、ディートリヒは背を向けた。いつものように、振り返ることなく扉へ向かう。
「じゃあな」
開いた扉から、一瞬だけ廊下の冷気が部屋に滑り込んだ。
揺れる蝋燭の火。
薄暗い廊下。
ディートリヒは吸い込まれるようにして、去っていった。
セレイヴはグラスを持ち上げ、窓にかざす。
赤い液体の向こうで、かすかに月が滲んで見えた。
「……強くなれ……か」
グラスを一気に飲み干す。
「……うぇ……やっぱり美味しくない」
翌日。
サイラス・ヴェインがセレイヴの部屋を訪れていた。大量の書類を抱え、セレイヴの前に立つ。
「……これは?」
「過去の辺境領の帳簿等です。天候の記録や、作物の収穫量、水道や道路整備などの記録もすべて持って参りました」
ローテーブルの上に積まれたそれに、セレイヴはそっと触れた。
「参考になれば……と。
分からないことがあれば、気軽にお尋ねください」
サイラスは静かにセレイヴと目を合わせる。
「サイラスは……僕のこと、怖くないの?」
真鍮のフレームが、鈍く光を返した。
「怖い……とは?」
「……ほら、異能とか、月の子であることとか……」
「実務において何か関係がございますか……?」
セレイヴと、背後に控えていたマティアスが驚いてサイラスを見つめる。
「……何か、私が配慮すべきことがあれば、なんなりとお申し付けください」
マティアスがふっと笑い、セレイヴは眉を下げた。
「本当に……君は裏がありそうで裏がない人なんだね」
「よく言われます。腹黒く見えますか?」
セレイヴが首を振る。
「君と一緒に仕事をする日が、楽しみ」
「そう言っていただけて光栄です」
サイラスは頭を軽く下げた。
「では、後ほど。
王太子殿下のお見送りがありますから、その時にまた顔を合わせることでしょう」
「うん。またね」
サイラスの背中を、セレイヴとマティアスは揃って見送る。
「勉強するものがいっぱい増えた」
「……忙しくなりますね」
「うん」
二人で、預けてもらった書類を整え、淡々と片付けていった。
インクと、紙の匂い。
ここにはほとんど無かった、新しい匂いだ。
午後になり、セレイヴたちは初日と同様に、辺境伯邸の車寄せの近くに列になって並んだ。
アルベルトに付き添われて邸内から出てきたディートリヒは、王族らしい豪奢な装いで、小さく手を上げている。「ありがとう」「世話になった」と使用人たちに声をかけていた。
カスパーやリディアにもひと言ずつ声をかける。
そうして、ディートリヒはセレイヴの前に立つと、にっと笑った。
腕を伸ばして抱き寄せると、セレイヴのこめかみにキスを落とす。
使用人たちから小さな悲鳴が上がった。
セレイヴが眉を寄せてディートリヒを見つめると、彼は楽しげに笑う。
「美青年と美青年のこの手の触れ合いは、特定の層に需要がある」
セレイヴだけに届く声で得意げにそう言った。
「……何言ってんの?」
セレイヴの言葉を無視すると、ディートリヒは大きく手を広げ、声を張り上げる。
「セレイヴ、遠い地だが、しっかりやるんだ。
兄は王都でお前の幸せを願っている!」
セレイヴはうんざりとした。
「……兄さんも……いつまでも壮健であることを、祈ってるよ……」
ディートリヒはまたセレイヴを抱き寄せて「下手くそ!」と耳打ちし、彼を離した。
爽やかに笑いながら馬車までの石畳を歩いていく。まるで、紳士のように、穏やかに。
彼が馬車に乗り込むと、使用人たちが一斉に頭を下げ、間もなく何台もの馬車が動き出した。
姿が見えなくなるまで、辺境伯邸の人々はその背を見送っていた。
やがて、騒がしかった前庭に、鳥の鳴き声と葉擦れの音が戻ってくる。
「セレイヴ、いつの間に殿下と仲良くなったのです」
隣にいたリディアに不思議そうに問われ、セレイヴは眉を寄せた。すぐには言葉を返せず、俯く。
「僕……あの人やっぱり苦手」
マティアスは後ろで小さく吹き出していた。
こうして、辺境伯邸の忙しく落ち着かない日々は、とりあえずは平和に終わりを告げたのだった。




