17 兄弟
辺境伯邸が、にわかに騒がしくなる。
使用人たちが忙しなく邸内を駆け回っている足音や声が、セレイヴの部屋の中からでも聞こえてきていた。
「王太子殿下が、いらっしゃるそうです」
部屋の中央でセレイヴと向き合って立つリディアがそう言うと、セレイヴはきょとんとリディアを見つめた。
「……何をしに?」
リディアは苦く笑う。
「おそらく、あなたに会いに」
「……僕に?」
「はい。セレイヴは非嫡出子ではありますけど、陛下があなたの存在をはっきりとお認めになられました……。
王太子殿下としては、やはり気になりますでしょう」
「……ふぅん」
「だから、挨拶だけでもマスターしてしまいましょう」
「うん」
マティアスも隣に並び、ボウアンドスクレープや立礼を繰り返し練習した。
「ダンスに誘うときは、こうです」
リディアがセレイヴに向かい、胸に手を当てて軽く頭を下げて見せる。
「わたくしと、ダンスを一曲いかがですか」
セレイヴは眉を寄せた。それをリディアとマティアスは不思議そうに見つめる。
「……どうされました?」
「跪かないんだね。絵本みたいに」
二人は、目を合わせて苦く笑った。
「状況によっては、やらないこともありませんが……。少し仰々しいですね」
「もしやるのなら、こうです」
セレイヴの隣で、マティアスが跪いて見せる。セレイヴもそれを真似して跪く。マティアスはセレイヴに顔を寄せると、そっと耳打ちをし、立ち上がると壁に控えていたマルグリットに並んだ。
リディアはそれを静かに見守っている。
セレイヴは一度立ち上がると、リディアに改めて向き合った。
「やってみてもいい?」
「え? ……えぇ、どうぞ」
セレイヴは一度呼吸を整えると、リディアに向かって跪いた。
左手を胸に当て、右手をリディアに差し出す。
「お美しい方。あなたの瞳の虜となってしまった愚かなわたくしに、どうか、あなたと一曲のダンスを踊る栄誉をお与えくださいませんか」
リディアの肩が震える。
金の瞳にまっすぐに見つめられ、目がそらせない。部屋の淡い光がすべて集められてしまったかのように、その銀髪と白い肌は光を返している。
そのまま、見つめ合う。
「……お嬢様」
マルグリットの小さな声にハッとして、リディアは慌ててセレイヴの手に自分の指先を添えた。
「……はい」
指先が、引き寄せられる。
セレイヴは、リディアの指先に小さく口づけを落とした。
セレイヴ以外の三人の顔が固まる。
セレイヴは少しだけ目元を柔らげると、すっと立ち上がり、リディアの手を握ったまま彼女の顔を覗き込んだ。
「上手にできてた?」
至近距離で目を見つめられ、リディアの頬がじわじわと赤くなった。
「……はい」
「良かった! やってみたかったんだ」
にっこりと笑んだマルグリットは隣にいたマティアスに耳打ちした。当のマティアスは眉を寄せている。
「マティアス卿。素晴らしいご助言でした。リディア様もときめいていらっしゃるご様子」
マティアスは首を振った。
「私は、“どうか、一曲のダンスを踊る栄誉をお与えくださいませんか”しかお伝えしていません。あとは全てセレイヴ様のアドリブですよ……」
「え……」
二人はいまだに手を握っているセレイヴと、戸惑っているリディアを見つめる。
「人たらしの才能がお有りでは……?」
「それは、薄々感じていました……」
マルグリットは楽しそうに笑い、マティアスは大きくため息をついた。
そうして迎えたとある日。
辺境伯邸の車寄せに、何台もの馬車が停まる。辺境伯邸の人々と、辺境騎士団は列をなしてそれを迎えた。
セレイヴもリディアの隣に立ち、王太子が降りてくるのを待つ。
従者が、馬車の扉を開けた。
黒髪に、深い翡翠色の瞳の男。長い移動期間を経たとは思えないほどの豪奢な服を着た青年が、降り立った。
王太子――ディートリヒは、静かに礼をとる人々を見回す。迷いなく、だが、ゆったりと歩を進めた。
風が止む。
全ての音が失われたかのような緊張が漂う。
彼は、セレイヴの前で足を止めた。
長い脚。
ブーツの先は、間違いなく義弟へ向けられている。
手を伸ばして彼の顎に手を添えると、下げていた頭を無理やり持ち上げさせる。
「お前がセレイヴ?」
「……はい」
セレイヴは、視線だけを下げた。
「銀髪に金目か。分かりやすいことだ」
柔らかい声とも、硬い声とも言い難い。感情の読めない声。
周りにいた人々は、息を呑んで見守る。
「後ほど、二人きりで話をしよう」
ディートリヒが、わずかに口端を上げる。
「なぁ? 兄弟」
手が外され、セレイヴは俯いた。
「……はい」
リディアと、後ろで控えていたマティアスの顔から血の気が引いていく。
ディートリヒはふっと笑うと、彼を待っていた従者のあとをついて、辺境伯邸の中へと入っていった。
人々から、安堵の息が漏れる。
セレイヴは長い息を吐いた。リディアはその背をそっとさする。
「……セレイヴ」
「……緊張した」
「えぇ、私も緊張してしまいました」
「二人きりで話すのか……。おなかが痛くなりそう……」
リディアはたまらずにふっと笑った。
「あとで胃薬をお持ちしますわ」
「ありがとう」
「辺境の医師が調合したものです。よく効きくと思います」
「違う。背をさすってくれて。
安心した」
セレイヴはリディアを離れ、マティアスとオリバーを連れて、彼も辺境伯邸の中へと歩いていった。
リディアは呆然とその背を見送る。
彼の背をさすっていた左手を、じっと見つめた。
「……なぜ?」
眉を寄せているリディアを見て、マルグリットは可笑しそうに、だが黙ってリディアを見守っていた。
歓迎の晩餐会には、セレイヴは参加しなかった。まだマナーがおぼつかないからという建前のもと、少しでも王太子をセレイヴに近づけたくないアルベルトの配慮だ。
いつもの出窓の前で、セレイヴは静かに本を読んでいた。
読み書きも問題なくできると分かった辺境伯邸の人々が、セレイヴに何冊もの本を与えたため、彼はこうして本を読んで過ごすことが増えた。
紙をめくる音。
それだけが静かに部屋に落ちる。
だが、静寂を切り裂くように、ノックの音が鳴った。
セレイヴとマティアスが目を合わせ、頷き合う。
マティアスは扉を開けた。
従者の後ろに立って現れたのは、ディートリヒ。
彼は当然のように部屋の中に入ってくる。
「席を外してくれ。
二人きりになりたい」
マティアスも、ディートリヒの従者も眉を寄せた。
「しかし」
「外せ」
部屋の空気がひやりと沈む。
従者たちは頭を下げ、静かに部屋を出ていった。
セレイヴは席を立ち、ディートリヒに目を向ける。
扉が閉まるのを確認すると、王太子はゆっくりとセレイヴに顔を向けた。
壁に備え付けの燭台の火が、大きく揺れる。
「さぁ、話をしようか。
――月の子よ」
窓の外には、月がひとつ、静かに浮かんでいた。




