16 微熱
自室に戻ったリディアは、書き物机に向き合うと、ため息をついた。
――結局オリバーを責めてしまった……。
オリバーを責めたところで、セレイヴが傷つかないわけでもないのに。
並んだ縦長の窓を見つめる。差し込むのは、まだ昼の柔らかい光。窓枠を風が小さく揺らしていた。
“怖いと思うのが当たり前なんだよ”
“マティアスが僕の立場を守るために怒ってくれているのも、分かるよ”
――セレイヴは、聡い。
自分の立場も、自分が人からどう見られているのかも、よく理解している。
――だから余計、彼は深く傷つく。
「……どうしたら、守って差し上げられるのかしら」
マルグリットが静かにリディアの前にカップを置く。柔らかい紅茶の香りが立ちのぼった。
「もう少し、セレイヴと一緒にいられたら……いいのかしら」
マルグリットの眉が上がる。
「見極めないと……」
リディアはマルグリットを振り返った。
「ねぇ、セレイヴはそもそも当主になるわけではないのだから、マナーもそこそこでいいのよね。ならば、選任の講師を雇うのではなくて、私が教えて差し上げるのは、どうかしら?
セレイヴの性質上、新しい人をつけるのは、やっぱりまだ難しいわ。
だから、私がやればいいのよ。
そうすれば、私がセレイヴを見極める時間も取れるし……。
……なんだ、一石二鳥じゃない」
マルグリットは瞳を輝かせているリディアを見て、にっこりと笑った。
「……とてもよいと思います」
(お嬢様は、セレイヴ様と一緒にいたいだけでは……?)
マルグリットはきちんと言葉を飲み込んだ。侍女らしく、柔らかく笑むだけで、壁に控える。
「あとでお父様に相談しなくては」
机に肘をついて顎を支えながら、窓を見上げる。鳥が一羽、庭園の木の上を飛んでいるのが見えた。
――そういえば……。
ふと、リディアは顎を支えていた右手を開いて見つめる。それから、ぎゅっときつく眉を寄せた。
「マルグリット……」
「はい」
「私……」
「はい」
「もしかして……セレイヴに触れていた?」
「え?
えぇ、頬に手を添えておいででしたね」
リディアが静かに立ち上がる。
「……なぜかしら」
「え!?」
(なぜってそれは……)
マルグリットは一生懸命言葉を飲み込んだ。リディアはマルグリットを振り向かないので、どんな表情をしているのかは彼女からは見えないが、おそらく、眉間にしわを寄せて難しい顔をしている。
「なぜでしょうね……」
彼女の言葉は震えていたが、リディアはそれには気づかず、真剣な表情のままに、また席に着く。マルグリットはその背を静かに見守るに徹した。
(さて、いつ気づくことやら)
窓の外から、鳥のさえずりが聞こえる。リディアは窓を眺めたまま、しばらく動かなった。
その晩も、セレイヴは月光の差し込む木立の間にいた。月光に手を差し出し、だが、すぐに手を引っ込める。月を見上げたまま、彼はしばらくそうして静かに立っていた。
草を踏む音が、かすかに落ちる。
セレイヴは、ゆっくりと控えていたマティアスの方を向いた。
「……マティアス」
「……はい」
セレイヴが歩き出したので、マティアスは駆け寄る。
「どうされました」
「少し、考えていることがあって……」
「はい」
「……君に、ほんの一瞬だけ、魅了をかけたい」
マティアスの肩がわずかに震える。
金の瞳と、銀灰の瞳が交わるが、セレイヴはすぐに目をそらした。セレイヴの銀の髪が風に揺らされる。
「……ごめん。やっぱり、なんでもない」
踵を返そうとしたセレイヴの手首を、マティアスは咄嗟に掴んだ。
「セレイヴ様。掛けてください」
俯いてしまったセレイヴの顔が、ゆっくりと上がる。
「……でも」
「私を信じてください」
セレイヴは瞳を閉じた。
細く、長く息を吐く。
そうして、彼はまた目を開けた。
「マティアス。魅了を君にほんの短い時間だけ、かける。ごめんね」
「いいえ」
「君はここで立っていて」
セレイヴはマティアスに背を向けると、彼から離れ、向こうに立つ木の下まで歩いていった。
振り返り、まっすぐにマティアスを見つめる。
胸に手を当て、少しだけ声を張った。
「……僕を、見てて」
風が草を撫でる。
月光が静かに二人の間を濡らしていた。
マティアスはセレイヴの金の瞳を見つめる。
呼吸を、ひとつ。
次の瞬間――
セレイヴはマティアスの目の前に立っていた。
マティアスは目を見張る。
思わず一歩下がった。
「……どう見えた?」
「セレイヴ様が……突然目の前に」
セレイヴは、木立の間でずっと興味深そうに眺めていたカスパーを振り返る。
「カスパーには、どう見えていた?」
彼は腕を組み、少しだけ口端を持ち上げた。
「俺には、セレイヴがマティアスに向かってゆっくり歩いているようにしか見えなかった」
セレイヴはマティアスに向き合うと、小さく頷く。
「マティアスに僕を見失うように、願ったんだ。
レキの身体能力は、純粋にこの星の人より高いと思う。でも……もしかしたら、近いことは僕にもできるかもしれない……と思ったんだ。
ただ……その場にいる全員に魅了をかけなくてはいけないから、人が多ければ多いほど、僕の負担は大きい」
「セレイヴ様……」
セレイヴは安堵したようにマティアスに手を伸ばして、墨色の髪に触れ、頬に触れる。
「もしもの時に、使えるかもね。
――身体、なんともない?」
「はい。問題ありません」
「良かった」
最後に肩に触れると、すっと離れていった。
「手伝ってくれて……ありがとう」
背を向ける。
「今日は、これで終わりにする。部屋に戻るよ」
「はい」
歩き出したセレイヴの背を追い、マティアスとカスパーも草を踏んだ。
翌朝。
オリバーは、籐椅子に腰掛けるセレイヴの前で頭を下げていた。
「オリバー、僕は怒ったりなんかしていないよ。頭を上げて」
そう言うセレイヴは視線を落としたまま、オリバーを見ようとはしない。
「俺は……セレイヴ様について、まだ間もありません。
でも……それでも、セレイヴ様がお優しい方で、周りの人間を大切にされる方だと……知っています」
「……怖いって思う気持ちは、理屈じゃないから。
……オリバーは、僕の専属のままでいてくれるの?」
「はい。セレイヴ様がお許しになる限りは」
「そっか。良かった」
オリバーがゆっくりと、頭を上げる。セレイヴの頭頂部を見つめ、痛みを堪えるように目を細めた。
「セレイヴ様、どうか、こちらを向いてくださいませんか」
どちらかの呼吸が、ひとつ落ちる。
セレイヴは迷うように、膝の上の自分の指をいじった。
そうして、彼はゆっくりとオリバーの方に顔を向け、視線をあげる。
オリバーの青い瞳は、わずかに揺れていた。
「お守りします。
それは、心からの気持ちです」
「……それを疑ったことはないよ」
オリバーはセレイヴにもう一度頭を下げると、踵を返した。
壁際にいたマティアスに鋭く睨め付けられ、瞳を伏せてそれに応える。
「……控えます」
「くれぐれも……頼みますよ」
セレイヴは二人のやりとりを見つめると、また窓を見上げた。




