15 葉擦
辺境伯邸庭園。
セレイヴとリディアは長めのテーブルを前に置き、横に並ぶようにしてベンチに座っていた。
「ほら、このようにカップは持ち上げるのです」
リディアがやってみせると、セレイヴもそれを真似てカップを持ち上げる。
「お上手です」
セレイヴはきょとんとしてリディアの若葉色の瞳を見つめた。
「カップを持ち上げただけで褒められるなんて……」
リディアはふわりと笑う。
「初めて経験されるのですもの。挑戦しようという気持ちが大切なのです」
「……そう」
「まだ選定中ではありますが、マナーは選任の講師から教えていただいたほうがいいでしょう。今日も自由に召し上がってください」
セレイヴの前には紅茶の入ったカップと小ぶりのケーキ。それをじっと見つめた後、フォークでケーキを小さく分け、セレイヴは当たり前のようにリディアの口の前に差し出した。
リディアの肩がぴくりと揺れた。
「……え」
リディアの視線がケーキとセレイヴの顔を行ったりきたりしている。
「ほら」
「“ほら”ではなくてですね……」
セレイヴの眉が下がった。
「リディアは甘いものは好きじゃないの?
女の子は甘いものが好きだと聞いたけど、違ったのかな。ごめんね。間違えちゃった」
セレイヴが手元に戻そうとしたフォークをリディアは掴むと、フォークの先に刺さったケーキを食べた。セレイヴはまたきょとんとリディアを見つめる。
「甘いものは……好きです。食べさせ合いに慣れていないだけなのです……」
「そっか」
セレイヴはフォークを置くと、手を伸ばす。リディアの口元についてしまった食べかすをそっと指先で払った。リディアは驚いて触れられた場所を手で押さえる。
「……ついてた」
「あ、ありがとうございます……。
セレイヴはなぜ……」
「ん?」
セレイヴはリディアの様子も気にせず、自分でケーキを食べ、「美味しい」とつぶやいた。
「なぜ腰には触れられないのに、口元には触れられるのです……?」
「母さんが、服で隠れている場所には触れてはいけないって言ってた。口は隠れていないから」
リディアの眉が寄る。
「それは……少し危険です。その理屈ならば、口づけもいいということになってしまいます」
「……口づけはまた、ちょっと違うんじゃないかな……」
セレイヴがケーキに視線を落としたまま首を傾げるのを見て、後ろで控えていたマティアスは苦笑をこぼした。
マティアスと並んでいるマルグリットは真剣な顔で顎に手を添えている。
「でも、婚約者同士ですし、額や指先への口づけなら問題ないのでは?」
「マルグリット」
「なんでしょうか。お嬢様」
「あなたは少し黙っていて」
「畏まりました」
マルグリットは軽く頭を下げると、マティアスに耳打ちした。
「お嬢様はまた機嫌が悪いですね」
これにもマティアスは小さく苦笑をこぼすだけだった。
風が少し強く吹く。リディアは被っていた帽子のつばを押さえた。
「風が強くなってきましたね。
帽子、取ってしまおうかしら……」
セレイヴは、リディアに教わった通りにカップを持ち上げながら紅茶を口に運ぶ。
「なんで?」
「……飛ばされてしまいそうですし。私は令嬢としては肌はすでに焼けていますもの。
守らなくても――」
リディアが言い切る前に、また風が吹き、彼女の被っていたつばの大きな帽子が飛ばされる。
「あっ!」
セレイヴが席を立って帽子を追うが、先に駆け出したオリバーが帽子が地面に落ちる前にそれを捕まえた。
「オリバー。ありがとう」
セレイヴが手を伸ばす。
オリバーは帽子を両手で丁寧に持つと、それを差し出した。
受け取ろうとした手が、
ほんのわずか――
触れる。
オリバーの指先がびくりと跳ねる。
帽子が、手から滑り落ちた。
それはセレイヴの手から逃げるように、整えられた芝の上に転がっていった。
オリバーの顔から血の気が失われる。
セレイヴはオリバーに向けていた顔をすっとそらすと、帽子を拾い上げ、汚れを払った。気にした風もなく歩き出そうとしたが、マティアスが彼らに向かって駆け寄ってくる。
「オリバー卿!
あなたそれでも専属護衛ですか!」
「申し訳ございません!」
セレイヴは驚いて二人を見る。
マティアスはこれまで見たことがないほどに眉を吊り上げ、オリバーは肩を震わせて頭を下げている。
「マティアス……」
「セレイヴ様になんと失礼な態度を!
これは、きちんと報告させてもらいますから」
「……はい」
セレイヴは慌ててマティアスの手を取った。
「マティアス、僕、気にしていないから……」
「そういう問題ではありません」
セレイヴは頭を下げたままのオリバーに目をやる。小刻みに身体が震え、彼の指先は白い。
視線をマティアスに戻すと、彼の手を両手で包むようにする。
「……僕は……普通じゃないでしょう?
“怖い”と思うのが当たり前なんだよ。
だから、彼を責めないで」
マティアスの視線を受けて、セレイヴは小さく頷いた。
「マティアスが僕の立場を守るために怒ってくれているのも、分かるよ。
でも、今は他にリディアとマルグリットしかいない。今だけは……目を瞑ってあげられないかな」
後から駆けつけてきたリディアは、この光景を見て、逡巡していた。
――マティアスが激昂するのも、分かる。
でも、セレイヴの特殊な立場を理解しながらも、オリバーを選び、オリバーにもセレイヴにも負担をかけているのは、私たち辺境伯の者だわ……。オリバーは、後ほどお父様かお兄様から注意を受けるはず。
――今、私に必要なのは、中立であること。
「オリバー」
リディアに呼ばれて顔を上げたオリバーの顔は、ひどく白かった。
「セレイヴは……」
――中立に。
「セレイヴは優しい方です。月の使者の件は、私も聞きました。でも、セレイヴは彼らとは違う」
――中立に……
「セレイヴを守るために陛下が私たちを選んでくださったのは、いかに特殊な血を継いでいようと、彼を守る力が私たちにはあると信じてくださったからです」
――なぜ、私はオリバーを責めているの?
「大変申し訳ありませんでした」
「今日は下がって。
お兄様を呼ぶわ」
「……はい」
――私。
セレイヴがリディアを見つめる。その瞳はわずかに揺れていた。
――私、怒っているのかしら……。
オリバーが、守るべき主に失礼な態度をとったから?
リディアはセレイヴに近づくと、そっと手を伸ばした。
――違う。
彼の頬に手を添える。
「私たちは、あなたを恐れてなんていません」
セレイヴの金の瞳が、リディアをとらえる。だがそれはすぐにそらされた。
――この瞳が、また隠されてしまうのが、怖かったからだわ……。
セレイヴは小さくため息を吐くと、リディアの手を取ってそっと頬から外させる。そして帽子をリディアの頭に乗せた。
目を合わせないまま、口端を少しだけ上げる。
「リディアの肌は、きれいだよ。
僕も、守ってあげたいって思う。帽子も、とても似合ってるしね」
リディアが口を開ける前に、セレイヴは彼女に背を向けた。
「……ごめんね。今日はもう、戻るね」
「セレイヴ……」
セレイヴが歩き出すと、マティアスは一礼して彼の背につく。
リディアたちは、静かに、二人の背を見送った。
風が、木立の葉をざわつかせている。
雲が流れるのがとても早かった。




