14 使者
満月が出ていた。
セレイヴはそれを部屋の出窓から見上げていた。風もなく、そっと触れた窓ガラスは静かに指先から熱を奪っていく。
「外に……出たいな」
そうこぼすと、控えていたマティアスが小さく頭を下げ、部屋の扉を開けた。廊下で待機しているオリバーに声をかけると静かに戻ってくる。
「……セレイヴ様。いつもの場所でよろしいですか」
セレイヴはゆっくり振り返り、小さく頷いた。彼が歩き出すと、マティアスがそれに続く。廊下へ出てきたセレイヴの後ろをオリバーも半歩下がってついて歩いた。
石床を踏む音が、暗い廊下にひっそりと落ちる。
少しだけ木立が開けたその場所には、鬱蒼と長い下草が蔓延っていた。草を踏み、セレイヴは月明かりの差す木々の隙間へと足を進める。
マティアスとオリバーは離れた木立の影に立つようにして、それを見守っていた。
「以前、月の使者がセレイヴ様に接触したことはお聞き及びですか」
声を潜めたマティアスに話しかけられ、オリバーは横目でちらと視線を返し、頷いた。
「……はい」
「セレイヴ様の魅了の詳細については」
「一応、話には聞いています」
「セレイヴ様が願い、その対象がセレイヴ様の姿を目に入れた時だけ、魅了に掛かります。
逆に言えば、セレイヴ様が願わなければ、我々はどれほど近くにいようと魅了にかかることはありません」
マティアスとオリバーの視線が交わる。
「……ですが、セレイヴ様はこうして私たちを遠ざけたがる」
オリバーがセレイヴに視線を向ける。銀髪が月光を艶やかに返し、その白い肌は、今にも夜に溶け出してしまいそうなほどに儚い。
「セレイヴ様から、決して目を離さないように。頼みますよ」
「はい」
セレイヴが月光を手に受けるようにして、両手を広げた。
だが、オリバーはほとんど無意識に、少しだけ視線を下げた。
「あぁ、いたいた」
彼らの背後から近づいてきたのはカスパーだった。気安くオリバーの肩に触れると、顔だけをセレイヴの方に向ける。
「あぁ、やっぱり異能の実験してたのか。今日は月がよく見えるもんな。まっすぐこちらに来て正解だった」
「はい。天候に恵まれず……俺が見るのは初めてです」
「あ、そうか。オリバー、交代の時間だが、少し見てから帰るか?」
オリバーの瞳が小さく揺れる。少し遅れて、彼は頷いた。
「……はい」
マティアスはその様子を、静かに見つめていた。
セレイヴはしばらく草むらに佇んで月を見上げていたが、やがて肩を落とし、ゆっくりと手を下げた。
風が吹き始める。
草が揺れ、木立の葉が忙しく音を立てた。
月が、一瞬だけ雲に隠された。
セレイヴはゆっくりとマティアス達のいる方へと振り向く。
その刹那、
彼は――目を見開いて凍りついた。
その表情にハッとしたカスパーとオリバーは剣を抜きながら背を振り返る。
男がいた。
カスパーはマティアスを突き飛ばして距離を取らせると、剣を握る。
かすかに背筋が冷える。
――気配がしなかった。
カスパーと並ぶほどの高い上背。
血の気を感じさせない白い肌に金の瞳。
見慣れぬ白装束の男は、カスパーとオリバーを静かに見つめていた。
「我らの異物は見世物ではない。その穢らわしい目で見るな。蛮族どもが」
その声を聞いただけで、背がぞくりと震える。
オリバーはその青目を、月の使者から外せずにいた。
月の使者は、ゆっくりとオリバーに視線を向けると、まばたきもせずに見つめ返す。
途端に、オリバーの喉が締め付けられ、呼吸が浅くなる。
剣を持つ手が、震え出した。
耳鳴り。
視界から、月の使者以外の全てが消える。
自分が立っている感覚さえ、鈍くなる。
使者は、腕を持ち上げた。
「触らないで!」
セレイヴの声に、動けずにいた三人はハッと息を呑む。マティアスがセレイヴに向かって駆け出し、騎士二人は剣を構え直した。
カスパーが踏み込んだ瞬間――
目の前から姿が消える。
急いで振り返ると、月の使者は既にセレイヴの前に立ち、その胸ぐらを掴んでいた。
「……セレイヴ様!」
マティアスが声を上げるが、月の使者は一瞬だけ彼の方を向き、その瞳がわずかに光を帯びる。
その途端に、マティアスの足が動かなくなる。
視線が、月の使者に縫い止められる。
「……マティアス……来ちゃだめ……」
「うぬはなぜまだ生きている。せっかく時間をくれてやったというのに」
襟元を強く握られ、喉が締まる。
セレイヴは声も出せずに、眉を歪めてその金の瞳を見つめた。
使者が、呼吸も触れそうなほどに、顔を寄せる。
「……我が名はルミナリスの執行者レキ。
ルミナリスの御名において、うぬに刃を届けよう」
レキが片手で小刀を取り出した。
銀の刃に、月光が触れる。
「――させるかぁ!」
声に、
レキはセレイヴを突き飛ばし、そのまま背に跳んだ。
セレイヴは体勢を崩して草の上に滑るように倒れる。
横に振られた長剣が、レキの小刀に流される。
短い金属音。
カスパーは片目を瞑ったまま、もう一度剣を振り上げる。
「つまり、見なけりゃいいってことだろう!?」
レキはまた後ろにすらりと引き、躱す。
切られた草が空を舞った。
カスパーが踏み込み、
突く。
空気が裂かれる音。
光を帯びた金の瞳が筋となって、夜に残る。
背に、ぞっとする気配。
足を踏み変え、カスパーは背後へ身体を捻った。
レキの小刀を剣で受け、衝撃を散らす。
――いつの間に背に回った?
繰り返される剣戟。
腕に鈍い痛みが走る。
草を踏んだ足元が、じりじりと後ろに下げられる。
――小刀のくせに、大剣みたいな重さをしてやがる。
額から汗が垂れる。
踏まれた草から青臭い匂いが立ちのぼった。
「レキ!」
浅い呼吸のまま立ち上がったセレイヴが、声を上げる。
「僕を見ろ!
僕を殺しに来たんだろ!?」
レキはそちらへ目は向けずに、腰を落としたカスパーを見下ろしていた。
「異物である僕は醜いだろう?
でも、見たくてたまらない。
レキ……こちらを見ろ。僕はここにいる」
レキの瞳が、吸い寄せられるように、
ゆっくりとセレイヴへ向く。
金の瞳同士が、絡み合う。
雲が風に押され、月光が落ちる。
「月へ帰るんだ」
セレイヴの瞳がぼんやりと光を帯びた。
その瞬間、
レキの足元がわずかにふらつく。
彼は顔を背け、片手で目を押さえる。
「……我にうぬの力は効かん。
青星の混ざり物め」
「……僕の中に流れるのは女王の血だよ。
使者の君が逆らえるのかな」
レキの金の瞳に、銀が映り込む。
カスパーの剣が、振り下ろされる。
レキは短く息を吐き出し、身を翻す。
だが、間に合わなかった銀髪が、一房、草の上に舞った。
カスパーがさらに踏み込んだ時――
レキは、姿を消した。
振られた剣は、空を切った。
月の使者は――もうどこにもいなかった。
カスパーとセレイヴの短い呼吸が、草むらの上を滑る。
風がそよぐ。
葉擦れの音。
草が波打つように、揺れていた。
セレイヴはその場に膝を落とす。
やっと動けるようになったマティアスが彼に駆け寄り、そっと抱きしめた。
「……また、使ってしまった……」
マティアスは首を振り、両手で顔を覆って俯いたセレイヴを胸に掻き抱いた。
カスパーはやっと剣を下ろし、あたりをゆっくり見回した。呼吸を整え、剣をしまう。
強く瞳を伏せ、奥歯を噛み締めた。
最も遠くにいたオリバーは、震える自分の手のひらを見つめた。
――何も……
――何もできなかった……。
満月だけが、静かに夜空に残されていた。




