11 夜月
辺境伯邸、アルベルトの執務室。
カーテンの向こうには、月が浮かんでいた。
アルベルトは、弱い燭台の火のもとで、書簡を一枚一枚確認していく。
ふっと口元が和らいだ。
「……これは良い報せ」
もう一枚。
若葉色の瞳が文字をゆっくりと追う。
「……面倒だな」
それを脇に置き、また一枚手に取る。
「……あぁ……やはり来たか」
ゆっくりと眺め、小さく折りたたんだ。
「あの男が動かない訳がない」
長く息を吐くと、紙を屑籠に投げ入れる。
「……さて、どうするかな」
火が、ゆらりと揺れた。
◇
リディアは右手の指先を見つめた。
それから顔を上げ、正面のソファに座る兄を見る。
「……どう考える?」
「必要だと思います」
「……そうだよな。ただ、人選が難しくてな」
「お兄様ではいけないのですか?
セレイヴ様の護衛騎士は」
カスパーはお茶のカップを持ち上げると、一口で飲み干した。マルグリットが信じられない顔を彼に向けながら、おかわりを注ぐ。
「……しばらくは俺がついてもいい。
だが、俺は次期当主であり次期騎士団長だ。ずっとは不可能だ。
だから、他の者を彼につけなければならない」
「セレイヴ様は、勝手に動き回られる方ではありません。辺境伯邸から出ない限りは、専属護衛はすぐには必要ではありませんわ。
ゆっくり選定なさっては」
「そうだな。父上に相談しよう」
二人で頷き合い、静かに茶を飲む。紅茶ではなく、夜に向けたハーブティーだ。口に含むたび、身体が温まる。
「お兄様は……ご婚約者様はまだ決められませんの?」
「父上に任せてある。
それなりの貴族の娘をもらうことになるんじゃないかな。騎士家系の娘だと、助かるな」
「……そうですか」
リディアは、カップに添えた右手を見つめた。
「何の話だ?」
「あぁ……いえ……」
カップをテーブルに置くと、右の指先を左手で包み込む。
「もしや……恋の話か?
俺は役に立たんぞ。母上がもうじき出産されるはずだ。戻ってきたら聞いてもらえばいい」
「そんな話はしていないではありませんか……」
カスパーは背もたれに身を預けると、楽しげに腕を組んだ。
「綺麗で物腰の穏やかな男だ。
俺はまだほとんど話したことないけどな。
君が恋に落ちたっておかしいことはない。
それに……夫婦仲が良好なのはいいことじゃないか」
リディアは眉を寄せる。
「……呑気過ぎではありませんか?
異能だとか……王の血や、月の子であることなど……たくさん問題があるではありませんか」
「“恋”の話だろう?」
カスパーは眉を上げる。
リディアは訝しげにその顔を見つめた。
「……つまり?」
「恋の障害は大きいほど燃えるって……団員の誰かが言っていた」
リディアは片手を額に当てると、小さく項垂れる。
「お兄様……」
「気構えすぎなんだよ。リディアはさ」
カスパーが声を立てて笑うと、テーブルの上の燭台の火が大きく揺れた。
「それにしても、右手、痛めているのか?」
リディアが顔を上げる。
「……なぜです?」
「さっきから、やたらと気にしているだろう?」
リディアはゆっくりと自分の右の指先を見た。
カスパーがマルグリットを見ると、彼女は口角を上げてにやりと笑み、大きく頷いて見せた。
「……なんだ。やっぱり恋の話だったのか」
「何の話をしているのですか?」
「大丈夫。リディアのペースで、ゆっくりとでいいんだから」
リディアはカスパーの顔を見、振り返ってマルグリットを見上げる。
二人とも愉快げに笑っているだけだ。
リディアは大きくため息を吐くと、右の指先を左手でつつみ込みながら、諦めたように瞳を伏せた。
「……よくわかりませんが……わかりました」
リディアが眉を寄せて考え込んでいるのを見て、カスパーとマルグリットは声を立てて笑った。
◇
セレイヴは月を仰いだ。
夜空には、半月が静かに浮かんでいる。周りの星々は静かに瞬き、薄い雲に時々隠されては、また姿を現す。
一人で庭園に立ち、彼は手のひらに月光を集めようと手を伸ばす。
風が通り過ぎ、葉擦れの音がする。
どこからか聞こえる鳴き声は、狼か、犬か。セレイヴには分からなかった。
森と土の匂い。
辺境の風は、どこか今夜も乾いている。
月は青白く、ただ静かにそこにあった。
「……どうして、力を完全には抑えられないんだろう……。
ここが月じゃないからかな」
「うぬが男だからだ」
突然の男の声。
セレイヴは振り返る。
――鼓動が、跳ねた。
男は一瞬でセレイヴまで距離を詰めると、彼の頬を両手で挟んだ。
異様に整った顔の男。
腰まである銀の髪を背に垂らし、見たこともない白い装束を纏っていた。
金の瞳に至近距離で顔を覗き込まれる。
セレイヴの呼吸が、止まる。
――既視感。
初めて見た男のはずなのに。
セレイヴの眉が寄った。
喉が張り付いてしまったかのように、声が出ない。
目をそらしたいのに、そらせない。
背の高いその男は、小さくこぼした。
「……醜い」
低く、艶のある声。
だが、一滴の感情も込められていない。
「ルミナリスの系譜の王は、女のみぞ許される。
しかし力を継いでしまったうぬは、男だ。
青星の血も絡みついているではないか。
……穢らわしいことよ」
セレイヴは震える手で、頬を掴んでいる手首に触れた。
「あなたは……誰なの」
「自刃すると言うのなら、見逃してやる」
「……え」
瞬きもせず、男の金の瞳はセレイヴを見下ろしていた。
「選ばせてやる。異物よ」
「……」
「刃を持つは、うぬか、我か」
――次の瞬間には、男の姿は消えていた。
自分の短い呼吸。
それだけが下草の上を滑っていく。
セレイヴは、その場に座り込んだ。
触れられた頬に、震える手を添えた。
冷たくも、温かくもない手だった。
まるで無機物のような。
呼吸が浅くなる。
息苦しい。
胸を押さえながら、セレイヴは蹲った。
男の金の瞳が、今も、自分を見ている気がする。
耳のそばで動悸が鳴り、吐き気を伴った。
知らずに、涙が頬を伝う。
「……助けて……」
声は、静かに夜風に解けていった。




