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10 湖畔


 馬の蹄が草を踏んで駆ける。

 風が渡り、草原は波のように揺れていた。

 澄んだ空はどこまでも続いている。


 三頭の馬が駆け抜け、それは雲の影を追い越した。


 マティアスの後ろに乗ったセレイヴは、小さく口を開けたまま景色を眺めていた。声にならない感嘆の声が、わずかに漏れている。


 前を走るリディアとマルグリットの馬が、次第に速度を落とし、マティアスの馬に並んだ。


「セレイヴ様……。

 セレイヴ、あちらに森が見えますね。

 あの木立の向こうの湖へ向かいます」


 リディアが手で示した先に、セレイヴとマティアスも目をやる。なだらかに下る平原の先に、蒼く茂る森があった。


「ここからだと、湖はよく見えないね」

「えぇ、さほど大きな湖ではないのです。湧き水が湖となり、その水は近くの洞窟へと流れていきます。ですから、表面上は湖がぽつりと小さく一つあるようにしか見えないのです」

「リディアはどうしてそこがおすすめなの?」

「静かだからです」


 若葉色の瞳がまっすぐに前を見ているのを、セレイヴは静かに見つめた。


「まず人が来ません」

「……そうなんだ」


 リディアはセレイヴを見ると、にっこりと笑んだ。手綱を緩め、速度を上げて先行する。


 マティアスとマルグリットの馬がそれを追い、セレイヴは黙ったまま彼女の背中を眺めていた。





 白樺が囲う湖畔。

 空を丸く切り取ったように、そこだけ森が開けている。鉛色の湖水は静かに揺れ、細い葉が浮いていた。少し遠くで水鳥が水の上を滑っている。


 マルグリットが敷いた布の上に、セレイヴとリディアが並んで座ると、セレイヴは後ろを振り返った。


「マルグリットとマティアスは馬を連れ、少し離れた場所にいます。呼びますか?」


 リディアがセレイヴの瞳をまっすぐに見て、そう言う。

 セレイヴは目をそらしたまま首を振った。


「……セレイヴさ……、セレイヴ。私の目を見てください。私も、あなたを怖いとは思いません」

 

 下草を見つめる。

 やがて、セレイヴはゆっくりと顔を上げた。

 リディアの若葉色の瞳。

 それを、見つめる。


 彼女はふわりと笑んだ。


「美しい金の瞳ですね。満月のようです」


 湖の水が、かすかに鳴る。


「……リディアの瞳は新緑の色。澄んでいるのに力強い色だね。リディアそのものみたい。とても素敵だよ」


 リディアは驚いたように目を見開くと、セレイヴからぱっと顔を背けた。


「あ……ごめん。やっぱり――」

「ち……違うのです。そんな事を言われたのは初めてで……さすがに……ちょっと恥ずかしくて」


 セレイヴは小さく首を傾げると、湖に視線を向けた。


「白い鳥がいる……。きれいだね」


 リディアも、湖に目を向ける。


「あの……セレイヴ。異能について、伺ってもいいですか?」

「……いいよ」

「辺境へ来る前に、意識して使ったことはお有りなのですか?」

「あるよ。三回……かな」


 湖の匂いを含んだ風が、ふっと舞うように吹いた。


「初めて使ったのは、十歳くらいの時。

 僕、近所の男の子たちによくいじめられてたんだ。その日は、特にひどかった……。

 囲まれて叩かれて……

 その時に初めて使った」


 セレイヴは向こうの白樺を、一本一本視線でなぞるように、ゆっくりと見つめている。


「そうしたら、僕を一番強く叩いた子が言ったんだ。

 “俺、お前と仲良くしたかったんだよ”……なんて、いきなりね。

 でも……彼の目は、光がなかった。力がない……というのかな。

 僕は嬉しくなかった。すごく怖くなったんだ。それで、もう二度と力は使わないって決めた」


 リディアは口を挟まずに、小さく頷いた。


「でも、最初に力を使ってから、自分の力がじわりと身体から出てくる感覚がわかるようになったんだ。

 ――それで、十二歳になる頃かな。成長とともに力が強くなってきたことが、自分でもよく分かった。

 だから……野良猫に、使ってみたんだ。その猫は死ぬまで僕に懐いていた」

「……お世話はされていたのですか?」

「うん。毎日ちゃんと餌をあげて、ブラシを掛けて……」

「純粋に懐いていただけでは……?」

「誰にも懐かない子だったから、初めは魅了の力だと思うよ。その後のことは……分からないけど」

「……そうですか」


 セレイヴの視線が下がる。


「最後は……十三歳の頃。

 きれいな女の人に腕を引かれて、路地裏に連れて行かれたんだ。

 “美味しいから食べてみな”と言われて、見たことのない食べ物をもらった。“いらない”って言ったんだけど、どうしてもと言われて仕方なく食べた。

 そうしたら、身体が急に熱くなって、呼吸がすごく苦しくなったんだよ。

 今思えばあれは、媚薬だったんじゃないかな」


 リディアは彼の方を向き、眉をぐっと寄せた。


「その女の人に壁に押し付けられて……怖くなったんだ。

 それで、異能を使った。“あっちに行ってほしい”と願ったら、彼女は急にふいっと向こうへと去っていったよ」

「……下劣ね」


 吐き捨てるように言ったリディアの言葉に、セレイヴは眉を下げると、ため息を吐いた。


「……そうだよね。女性に魅了を使うなんて……」

「違います! その女性のことです!

 十三歳の子どもに薬を盛るなんて!

 それに目的も最低です!」


 リディアがまっすぐにセレイヴを見ると、彼はきょとんとして彼女を見返す。

 遅れて、目元を和らげた。


「怒ってくれるんだね。

 ……ありがとう」


 リディアはゆっくりと息を吐き出すと、鞄から筒に入れられた携帯飲料と、小さな包みを取り出した。


「こちら、焼き菓子です。良かったら」


 セレイヴが受け取り、包みを開く。中に入っていたのは、四角く固く焼かれたビスケットだった。そのうちのひとつを指先で持ち上げ、口に入れる。


「……美味しい」


 リディアは苦く笑った。若い男女で食べるには、少し味気のないものだ。


「素朴な味ですが」

「……僕は好きだよ」

「良かったです」


 セレイヴは一つをつまむと、リディアの口元に差し出した。

 リディアの肩がわずかに震える。


「……え」

「ほら。リディアも」


 リディアの視線が、ビスケットとセレイヴの顔をいったりきたりしている。

 

「……その……。

 ……王都の街中では、男女で食べさせ合うのは、よくあることなのですか?」

「さぁ?」

「……」


 リディアの眉が寄る。


「お菓子は……幼い頃に父さんと母さん……違うね。

 ……養父母と食べた以来かな」


 リディアは意を決すると、セレイヴの手から焼き菓子を食べた。

 セレイヴの目を見て、淡く微笑む。


「……一緒に食べると美味しいですね」


 セレイヴは少しだけ柔らかく目を細めた。

 リディアはセレイヴの手の上の菓子を一つ取ると、それを見つめて、少し悩む。


 息を一つ吐いた。


「セレイヴも……これを……」


 セレイヴは迷うことなく、口を開けた。

 わずかに、彼女の指先に彼の唇が触れる。


「美味しい」

「……はい」


 湖面が揺れる小さな音。


 リディアは、自分の右手の指先をそっと見つめた。


「ねぇ、リディアに触ってもいい?」


 リディアは眉を寄せ、わずかに目を見張った。

 

「え……だめです!」

「そうか」


 セレイヴはもう一つビスケットをつまんだ。硬いビスケットは、噛むとゴリゴリと音が鳴る。


「……ちなみにどこに触れようと?」

「頭」


 リディアは細く息を吐くと、セレイヴに頭を差し出した。


「……どうぞ」


 セレイヴはビスケットのかけらのついた手を服で一度拭いてから、リディアの頭に触れ、優しく撫でた。


「ここは、木に囲まれてて、広くもなくて、隠れ家みたいだよね。

 ……リディアがここに来たくなるときって、疲れちゃった時なんじゃないのかな。

 リディアのことは、まだそんなにわからないけど、きっと頑張りすぎちゃう子なんだろうな……って思った」


 セレイヴが手を引くと、リディアはゆっくりと顔を上げた。


「……セレイヴは十七歳ですよね」

「うん」

「私は十八なんです」

「……えっと、つまり?」

「私のほうが上なんです」


 セレイヴは眉を寄せて、考える。

 ひらめいたように、ふと眉を上げた。


「あ……お姉さんぶりたいってこと?

 ……僕のこと、撫でたいって意味?」


 リディアは両手で顔を覆う。


「……なんか違うような気がします……」

「はい」


 セレイヴが頭を差し出すと、リディアは諦めてその髪を撫でた。


「……さらさらです」

「……褒めてるんだよね?」

「……そうです」

「良かった」


 リディアはたまらず声を上げて笑った。





「すごくいい感じではありませんか?」


 マルグリットがぽつりとこぼし、マティアスはわずかに眉を寄せる。彼らは、木陰で二人の様子を伺っていた。


「うーん……。

 セレイヴ様の無邪気さにリディア様が振り回されているようにしか見えませんが……」

「そうですか?」

「……違いますか?」

「男女の機微には疎いので」

「……そんな気はしていました」


 マルグリットが肩をすくめると、マティアスは首を振ってセレイヴ達の方に視線を向けた。


 水鳥が一斉に飛び立つ。

 空の青に、白い羽が静かに溶けていった。


 

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