第6話 女神の涙、森の異変
洋介とリリアの婚約の知らせから数年の歳月が流れた。エリアーナはあの日以来、一度も森から出ることはなかった。洋介との決別の誓いを、彼女は固く守り続けていた。しかし、その心は癒えることのない傷口のように絶えず痛み続けていた。彼女は以前にも増して、治癒の魔法に没頭するようになった。傷ついた動物がいれば昼夜を問わず駆けつけ、その命を救った。まるで、他者を癒すことでしか、自分の心の痛みを紛らわすことができないかのように。
エルフの仲間たちは、そんな彼女の姿を憂慮の目で見守っていた。長老エルドランは何度も彼女に語りかけた。
「エリアーナよ、お前の悲しみは分かる。しかし、その悲しみにお前自身が飲み込まれてはならぬ。お前は、この森の希望なのだから」
しかし、エルドランの言葉もエリアーナの心には届かなかった。彼女の心は、厚い氷の壁に閉ざされてしまったかのようだった。
そんなある日、森に奇妙な異変が起こり始めた。生命力に満ち溢れていた木々が少しずつ枯れ始め、色鮮やかだった花々はその色彩を失っていった。森を流れる小川は、淀み、精霊たちの歌声も聞こえなくなった。森全体が深い悲しみに包まれているかのようだった。
エルフたちは、この異変の原因を探ろうとしたが、誰にも、その理由は分からなかった。ただ一つだけ確かなことがあった。異変はエリアーナが住む森の、最も深い場所から始まっているということだ。
エルドランは、エリアーナの元を訪れた。治癒の魔法に没頭する彼女の周りだけが、以前と変わらぬ生命力に満ちている。しかし、その一歩外側は、確実に、死の世界へと変わりつつあった。
「エリアーナよ、気づいておるか。お前の悲しみが森を枯らしているのだ」
エルドランの厳しい言葉に、エリアーナは、ハッとして顔を上げた。
「私の⋯悲しみが⋯?」
「そうだ。エルフは、自然と共にある存在。お前の心の状態が、そのまま、森に反映される。お前が、心を閉ざし、悲しみに沈めば、森もまた、生命力を失っていくのだ。お前が流す涙は、もはや、癒しの光ではない。森を蝕む、毒なのだ」
エルドランの言葉は、エリアーナの心に深く突き刺さった。自分のせいで、この美しい森が枯れようとしている。自分が仲間たちを苦しめている。その事実は彼女にとってあまりにも衝撃的だった。
「私は⋯⋯どうすれば⋯⋯」
「お前の心を解き放つのだ。悲しみも苦しみも、全て受け入れ、そして乗り越えよ。それが、お前に与えられた試練なのだ」
エルドランは、そう言うと静かにその場を立ち去った。一人残されたエリアーナは、呆然と枯れ始めた木々を見つめていた。
一方、人間の村では、洋介とリリアの間に、待望の男の子が生まれていた。村中が、祝福のムードに包まれていた。洋介は父親になり、建築士としても、村の発展に大きく貢献し、村人たちから、絶大な信頼を寄せられていた。彼は、誰もが羨むような、幸せな家庭を築いていた。
しかし、彼の心の奥底には常にエリアーナの影があった。リリアを愛している。息子も、もちろん可愛い。しかし、エリアーナへの想いは時間の経過と共に、薄れるどころか、むしろ鮮明になっていくようだった。
夜、一人で図面を引いていると、ふと窓の外に、彼女が立っているような気がして、何度も振り返ってしまう。森の方から風が吹いてくると、その風が彼女のメッセージを運んでくるような気がして耳を澄ましてしまう。
忘れると、誓ったはずなのに。彼女を忘れることなどできはしない。
そんなある夜、洋介は奇妙な夢を見た。エリアーナが住む森が枯れていく夢だ。美しい緑は失われ、大地はひび割れ、彼女は、その中心で一人泣いている。その涙が、黒い雫となって、大地に吸い込まれていく。そして、その雫が落ちた場所から森が腐敗していくのだ。
洋介は悪夢にうなされ飛び起きた。胸騒ぎがしてじっとしていられない。彼はリリアと息子が眠る寝室をそっと抜け出し、夜の闇の中、森へと向かった。エリアーナとの約束を破ることにためらいはなかった。彼女が危険な状態にある。その直感が彼を突き動かしていた。
森の入り口に立った洋介は息を飲んだ。夢で見た光景が、そのまま目の前に広がっていた。かつて生命力に満ち溢れていた森は見る影もなく、枯れ果て、不気味な静寂に包まれていた。
洋介はためらうことなく、森の奥深くへと足を踏み入れた。エリアーナの元へ。彼女を救わなければ。その一心で、彼は暗い森の中を走り続けた。




