第5話 癒しの光、決別の誓い
エリアーナが提示した条件は、死刑宣告にも等しい重さで、洋介の心にのしかかった。二度と会わない。
忘れてくれ。
その言葉の一つ一つが、凍てついた刃となって彼の魂を切り刻む。彼女の存在を、記憶から消し去る? そんなことが、できるはずがない。彼女こそが、彼の魂が、前世から、そしてこの世界に生まれ落ちてから、ずっと探し求めてきた、唯一無二の存在なのだ。彼女を忘れることは、自分自身の魂の半分を、自ら引き剥がすことに等しかった。
しかし、彼の背後には死の淵を彷徨うリリアの、そして多くの村人たちの、か細い命がかかっている。自分一人の感情、エリアーナへの愛のために、彼らを見殺しにすることなど断じてできなかった。それは人として、そして村のリーダーとしての、彼の存在意義そのものを根底から覆す行為だった。
「⋯⋯わかった」
洋介は、地面に落ちた枯れ葉を睨みつけながら、声を振り絞った。顔を上げれば、彼女の瞳を見てしまえば、この決意が鈍ってしまいそうだった。
「君が村を救ってくれるなら、俺は、君の前から永遠に姿を消す。君のことも⋯⋯忘れる努力を、しよう」
最後の言葉は、自分でも信じられないほど、か細く、惨めな響きを持っていた。「忘れる」と断言できず、「努力をする」としか言えない、自分の弱さ。その言葉を聞いたエリアーナの表情が、月光の下でわずかに歪んだように見えた。いや、それは彼の願望が見せた幻だったのかもしれない。彼女の顔は、依然として、美しい氷の仮面で覆われたままだった。
彼女は何も答えず、ただ静かに村の方角へと歩き始めた。洋介は、まるで罪人が刑場へ引かれていくような足取りで、その後ろに従った。
エリアーナが、村に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
病の気配と死への恐怖で、澱のように沈んでいた村の空気が、彼女の登場によってピンと張り詰めた。偶然、彼女の姿を見つけた村人が息を飲み、その場に立ち尽くす。その驚きは瞬く間に、さざ波のように村全体へと広がっていった。家々の扉が軋みながら開き、人々が恐る恐る顔を覗かせる。
彼らが見たのは人間離れした、神々しいまでの美貌を持つ一人のエルフだった。月光を浴びた銀色の髪は、まるで光そのものを編み込んだかのようだった。森の木々と同じ緑色の瞳は、この世の全ての理を見通すかのように深く、そして静かだった。
エルフが、なぜこの村に?
村のリーダーである洋介様と共に?
誰もが畏怖と好奇、そして得体の知れないものへの恐怖が入り混じった、複雑な視線を彼女に注いでいた。囁き声があちこちから聞こえてくる。
エリアーナはそんな視線をまるで道端の石ころでも見るかのように、一切気にも留めなかった。彼女の意識はただ一点、村に渦巻く病の瘴気に集中していた。彼女は洋介を振り返ることもなくまっすぐに、村で最も死の匂いが濃い場所――診療所へと向かった。
診療所の中はこの世の地獄を凝縮したかのような惨状だった。狭い室内に所狭しと寝かされた人々。苦しげな咳、熱に浮かされたうわ言、そして、家族の無事を祈るすすり泣き。それらが混じり合い、重く、淀んだ空気を作り出していた。老医師は疲れ果てた表情で、ただなすすべもなく、その光景の前に立ち尽くしている。
エリアーナはその部屋の中心に静かに立った。そしてゆっくりと目を閉じた。全ての喧騒が彼女の世界から消え去っていく。彼女の意識は森の奥深く、自らの力の源泉へと、深く、深く潜っていった。
彼女がゆっくりと祈るように両手を広げると、その白い指先から柔らかな金色の光が蛍のように溢れ出した。最初は小さな光の粒子だったが、それは瞬く間に互いに結びつき、大きな光の奔流となって診療所全体を包み込んでいった。
その光は太陽のように熱くなく、月のように冷たくもない。それは生命そのものが持つ原初の温かさを持っていた。光が病に苦しむ人々の体を、優しく、優しく照らしていく。まるで母親が、熱に浮かされる我が子を慈しむように。すると、信じられない変化が起こり始めた。
激しく咳き込んでいた老人の胸が、穏やかに上下し始めた。高熱にうなされていた子供の額から、玉の汗が流れ落ち、その表情が和らいでいく。死人のように青白かった女の頬に、微かに血の気が戻っていく。
診療所の外で、固唾を飲んで見守っていた村人たちから驚きの声が上がる。それは、もはや魔法という言葉では説明しきれない、神の御業そのものだった。
エリアーナは目を開けることなく診療所を出ると、村の中をゆっくりと歩き始めた。一軒、また一軒と病人が眠る家を訪れ、その癒しの光で中を満たしていく。彼女が通り過ぎた後には、まるで春の嵐が全てを洗い流したかのように、清浄な空気が残された。
そして最後に、彼女はリリアが眠る村長の家へと向かった。
家の中では洋介と村長が、祈るような気持ちでリリアを見守っていた。リリアは、もはやほとんど呼吸をしていないかのように、か細い息を繰り返しているだけだった。その命の灯火は、今にも風に吹き消されてしまいそうだった。
エリアーナは部屋に入ると、リリアの枕元に静かに座った。そして、その熱い額にためらうことなく、そっと手を置いた。
彼女の手から放たれる、ひときわ強い金色の光が、リリアの体を繭のように、完全に包み込んだ。その光景を、洋介は息をすることさえ忘れて、ただ見守っていた。エリアーナの横顔は相変わらず無表情だったが、その瞳の奥には、深い、深い悲しみの色が揺らめいているように見えた。
(彼女は、どんな気持ちでリリアを癒しているのだろうか)
嫉妬、憎しみ、そういった感情を全て押し殺し、ただ、癒し手としての使命を全うしている。その気高い魂の在り方に洋介は胸を打たれ、同時に自分の無力さと罪深さを、改めて痛感させられた。
しばらくして奇跡が起こった。
リリアの青白かった唇に、ほんのりと赤みが差した。彼女の瞼が、かすかにぴくりと動いた。そしてゆっくりと、その瞳が開かれたのだ。
焦点の合わなかった瞳が、次第に光を取り戻し、そこに、心配そうに覗き込む洋介の顔を映し出した。
「⋯⋯ようすけ⋯⋯? わたし、どうして⋯⋯? 夢を、見ていたような⋯⋯」
「リリア!」
洋介は安堵のあまり、彼女の手を両手で強く握りしめた。涙が、後から後から溢れてくる。
「よかった⋯⋯! 本当に、よかった⋯⋯!」
リリアは、まだぼんやりとした頭で不思議そうに部屋の中に立つ、見慣れぬ女性を見つめていた。月光を背負い、まるで女神のように静かに佇んでいる。
「あの、かたは⋯⋯?」
「彼女が、君を、村を救ってくれたんだ。森のエルフ、エリアーナさんだ」
リリアは、洋介の言葉を聞くと、まだ衰弱しきっている体で、必死にベッドから起き上がろうとした。
「ありがとうございます、エリアーナ様。あなた様のおかげで、私の命は助かりました。このご恩は、一生忘れません」
リリアの純粋で、穢れのない感謝の言葉。
その言葉が、エリアーナの心に、小さな、しかし、鋭い棘のようにチクリと刺さった。自分は嫉妬心からこの娘を、心のどこかで見殺しにしたいとさえ願ってしまったのだ。それなのにこの娘は、こんなにも真っ直ぐな感謝を自分に向けてくれている。その純粋さが、エリアーナを深く苛んだ。
エリアーナは何も答えず、ただ静かに一礼すると部屋を出ていこうとした。使命は終わった。あとは約束通り、この村から、彼の人生から、永遠に姿を消すだけだ。
その時、洋介が彼女の前に立ちはだかった。
「エリアーナ、待ってくれ」
彼の声は、決意に満ちていた。
「約束は、守る。だが、最後に、一つだけ、聞かせてほしい」
洋介はエリアーナの、感情の読めない緑色の瞳を真っ直ぐに射抜くように見つめた。
「君は、俺のことを、本当に、忘れられるのか?」
その問いは彼に残された最後の、そして唯一の抵抗だった。忘れるな、と言いたい気持ちを必死で飲み込んで絞り出した問いだった。
その問いにエリアーナは、答えることができなかった。
忘れられるはずがない。
どうして忘れられるというのか。
この魂に、深く、深く、刻み込まれた愛の記憶を。百二十年もの間、ただ彼だけを想い続けてきたこの心を。
どうやって、消し去れというのか。
しかし、それを口にすることはできなかった。それを認めれば、この決意が揺らいでしまう。彼との間に断ち切れない甘い未練が残ってしまう。それは彼を苦しめるだけだ。
「⋯⋯それは、あなたには、関係のないことです」
そう答えるのが精一杯だった。彼女は自分の心を殺し続けた。
その冷たい言葉を聞いた洋介は、まるで全身の力が抜けていくようだった。彼は自嘲気味に、ふっと笑った。
「そうか⋯⋯。そうだな。もう、俺には関係のないこと、だ」
彼は、ゆっくりと道を開けた。
エリアーナは彼の横をすり抜けるようにして村を後にした。もう、二度と振り返らない。彼の顔を見てはいけない。これが最後の別れなのだから。
森へと帰る暗い夜道を一人、歩きながら。
エリアーナの美しい瞳から、こらえきれなかった涙が止めどなく、止めどなく溢れ出した。声にならない嗚咽が、彼女の喉を締め付けた。
これでよかったのだ。
彼は人間の女性と結ばれ、人間としての、短いけれど温かい幸せを生きるべきなのだ。自分のような、異形で悠久の時を生きる化け物が、彼の限られた貴重な人生を縛り付けてはならない。しかし心は正直だった。
洋介を失いたくない。彼のいない世界で、これから、何百年、何千年と、この孤独を抱えて生きていかなければならないのか。その、あまりにも長すぎる時間を思うと気が遠くなるようだった。
村では奇跡的な回復を遂げた人々が、エリアーナを「森の女神」と崇め、感謝の祈りを捧げていた。
リリアも順調に回復し、以前のような太陽のような明るい笑顔を取り戻していた。そして、村人たちの誰もが期待した通り、洋介とリリアは数週間後、正式に婚約を発表した。
その知らせは、森を渡る風の便りに乗ってエリアーナの耳にも届いた。彼女は、あの二人だけの聖域だった泉のほとりで、一人その知らせを聞いた。
胸にぽっかりと大きな修復不可能な穴が開いたような、空虚感。
しかし、不思議なことに涙はもう一滴も出なかった。流すべき涙は、あの夜、全て流し尽くしてしまったのかもしれない。
エリアーナは、静かな水面に映る自分の顔を見つめた。そこには、百二十年前と、何一つ変わらない、若く美しいエルフの顔があった。しかし、その瞳の奥には人間の一生分よりも、遥かに、遥かに、深い悲しみが、静かに、そして永遠に淀んでいた。
「さようなら、洋介」
エリアーナは、水面に映った、悲しい女に、そう、呟いた。
「私の、たった一人の愛した人」
彼女は自分の中に残っていた、「小田春音」の最後の欠片に、そっと別れを告げた。その瞬間から彼女はただの森の癒し手、エリアーナとして永遠の時を生きていくことを誓ったのだ。




