第4話 心の葛藤、埋まらない溝
収穫祭の夜、二人の間に生まれた亀裂は時が経つほどに深く、そして広くなっていった。洋介がエリアーナの元を訪れなくなってから、一月の時が流れた。人間にとっては三十日という具体的な日数だが、エリアーナにとっては、まるで永遠にも感じられる、長く、そして空虚な時間だった。彼女の日課は、変わらず森の境界から人間の村を眺めることだった。しかし、その目的は以前とは全く異なっていた。かつては、彼の姿を一目見るだけで満たされた心が、今は、彼の姿を探せば探すほど渇きと痛みを増していく。村の家々から立ち上る煙、畑を耕す人々の小さな影、子供たちの甲高い笑い声。その全てが自分が属することのできない幸せな世界の象徴に見えた。そして、その世界の中心にいるはずの洋介の姿を彼女は見つけることができなかった。
彼が自分を避けていることは、痛いほど分かっていた。祭りの夜に見せた、あの深く傷ついた瞳。自分の言葉が、ナイフのように彼を切り裂いたのだ。あの時、どうして、「一緒に行きたい」と素直に言えなかったのだろう。どうして、「あなたの隣にいたい」と、ただその一言が、言えなかったのだろう。エルフとしての矜持か、それとも、リリアへの嫉妬心を彼に見透かされることへの恐怖か。今となっては、どちらも言い訳に過ぎなかった。
自分のせいだ。私が、彼を傷つけた。
彼を愛しているのに、その愛し方が分からない。
エルフとしての長い時間が、私から、人間らしい素直な感情を奪ってしまったのだろうか。それとも、「小田春音」であった頃から、私は、臆病で、不器用な人間だったのだろうか。
自問自答は、答えのない迷宮の中を、ただひたすらに彷徨うだけだった。泉のほとりに一人佇み、水面に映る自分の顔を見つめる。そこには、何の感情も浮かべていない、人形のように美しいエルフの顔があるだけだった。その無表情さが、彼女をさらに孤独にした。
一方、洋介もまた、苦悩の日々を送っていた。彼の心は、真っ二つに引き裂かれていた。
昼間、彼は村のリーダーとして、建築士として、多忙な日々を送っていた。新しい家の建設、水路の補修、村人同士の諍いの仲裁。やるべきことは、山のようにあった。村人たちの信頼と期待を一身に背負い、彼は、その責任から逃げることは許されなかった。そして、そんな彼を、リリアが献身的に支えてくれていた。
彼女は、洋介の心の内に、エリアーナという存在がいることを、薄々感じ取っているようだった。しかし、決してそれを問いただすことはせず、ただ、以前にも増して明るく、甲斐甲斐しく、彼の世話を焼いた。彼女の太陽のような明るさは、エリアーナを想って沈みがちになる洋介の心を、何度も、何度も救ってくれた。
「洋介、また難しい顔をして。眉間に、深い谷ができてるわよ」
リリアは、そう言って、悪戯っぽく彼の眉間を指でつつく。その屈託のない優しさに触れるたび、洋介の心は、罪悪感でいっぱいになった。リリアと結婚すれば、自分は、人並みの幸せを手に入れることができるだろう。温かい家庭を築き、子供を育て、孫の顔を見て、穏やかに老いていく。それが、人間としての、自然で、正しい生き方なのだ。村の誰もが、それを望んでいる。
しかし、夜が来て、一人きりで机に向かうと、彼の心は、森の奥深くへと飛んでいった。
エリアーナに会いたい。狂おしいほどに、会いたい。
彼女の銀色の髪に触れたい。透き通るような声が聞きたい。そして、あの憂いを帯びた美しい瞳に、自分だけを映してほしい。
しかし、会えば、また彼女を傷つけてしまうかもしれない。「住む世界が違う」。彼女が放った言葉は、呪いのように、彼の心にまとわりついて離れない。彼女の言う通りなのだ。自分たちは、決して交わることのない、二つの平行線の上を歩いている。その事実が、重く、重く、洋介の心にのしかかっていた。
彼は、エリアーナを愛していた。しかし、同時に、リリアの優しさにも、確実に惹かれていた。二人の女性の間で、彼の心は、振り子のように揺れ動き、安らぐ場所を見つけられずにいた。
そんな、膠着した状況を、打ち破ったのは、予期せぬ、そして残酷な出来事だった。
秋の収穫も終わり、村に冬の気配が忍び寄り始めた頃。村で、原因不明の病が流行り始めたのだ。
最初は、軽い咳や微熱といった、ありふれた風邪のような症状だった。誰もが、すぐに治るだろうと高を括っていた。しかし、病は人々の楽観を嘲笑うかのように、その牙を剥いた。咳は次第に激しくなり、呼吸をするたびに喉からヒューヒューという苦しげな音が漏れるようになった。高熱に浮かされ、人々は悪夢にうなされ始めた。そして、発症から数日後には、呼吸が完全に困難になり、青白い顔で、息絶えていく者が、ぽつり、ぽつりと出始めた。
村に一つしかない、老医師が営む小さな診療所には、対応しきれないほどの患者が押し寄せた。薬草は、瞬く間に底をつき、なすすべもなく、苦しむ家族を見守ることしかできない人々。村は、これまで経験したことのない、静かなパニックに陥った。笑い声は消え、人々の顔からは表情が失われ、死の匂いが冷たい冬の風に乗って、村の隅々まで漂っていた。
そして、その病の魔の手は、リリアにも、容赦なく襲いかかった。
最初は、軽い咳だった。洋介は、彼女に、無理せず休むように言った。しかし、彼女は、「大丈夫よ、これくらい」と、気丈に笑い、病人の看病を続けた。だが、数日後、彼女は、高熱を出して倒れた。
洋介は、リリアの家で彼女の看病にあたった。真っ赤な顔で、荒い息を繰り返すリリア。その額に乗せた濡れ布は、すぐに熱くなってしまう。時折、うわ言で洋介の名前を呼ぶ。その苦しそうな姿を見ていると、洋介は、自分の無力さに絶望的な気持ちになった。
建築士である自分には、病を治す力はない。家は建てられても、人の命を救うことはできない。ただ、彼女の熱い手を握り、神に祈ることしかできないのだ。
その時、洋介の脳裏に、鮮やかに、ある光景が蘇った。
森の奥深く、月光が差し込む泉のほとり。エリアーナが、泉の水を手にすくうと水は金色の癒しの光を放った。あの光ならば。彼女の、あの不思議な力ならば。
リリアを、村の人々を救えるかもしれない。
その考えは、一筋の光明のように彼の絶望を照らした。しかし同時に、深い葛藤が彼を苛んだ。
エリアーナに助けを求めること。それは彼女を危険に晒すことになるかもしれない。人間たちはエルフという存在に対して、畏敬の念と同時に得体の知れないものへの恐怖心も抱いている。もし、彼女の力が村人たちに、悪魔の業として誤解されてしまったら? 彼女が、迫害の対象になってしまうかもしれない。
そして何よりも洋介自身の、男としてのプライドがそれを許さなかった。
祭りの夜、彼女に事実上拒絶された身だ。自分との間に壁を作り、会うことすら避けている彼女に今更どの面下げて助けを求めろと言うのか。しかも、助けてほしいのは恋敵であるはずのリリアなのだ。それはあまりにも身勝手で、虫のいい話ではないか。
プライドが彼に森へ行くことを躊躇させた。
しかし、リリアの容態は刻一刻と悪化していく。呼吸はますます浅くなり、意識も朦朧とし始めている。彼女の弱々しい呼吸を聞きながら、洋介の心の中で天秤が大きく揺れ動いていた。
自分のちっぽけなプライド。それとリリアのかけがえのない命。
比べるまでもない。
洋介は、歯を食いしばり、ついに決断した。プライドなど、どうでもいい。今、一番大切なのはリリアの命だ。彼女を失うことの方が、何千倍も、何万倍も、怖い。
洋介は、リリアの父親である村長に、後を託すと、家を飛び出した。夜の闇に紛れて、彼は、森へと走った。凍てつくような冬の風が、彼の頬を容赦なく打ちつける。
森の入り口に立ち、彼は一瞬ためらった。エリアーナに拒絶されたらどうしよう。罵られても仕方がない。それでも行くしかないのだ。
彼は、かつて、エリアーナと何度も歩いた道を、記憶だけを頼りに進んでいった。二人だけの聖域であった、あの泉のほとりへ。しかし、そこに彼女の姿はなかった。月光に照らされた泉が星屑を散りばめたように、静かに輝いているだけだった。
「エリアーナ!」
洋介は、必死に叫んだ。
「エリアーナ、どこだ! 頼む、出てきてくれ! 話があるんだ!」
彼の声は森の静寂に、虚しく吸い込まれていく。木霊すら返ってこない。彼女は、もう、この場所にさえ来ていないのだろうか。自分のことを完全に忘れようとしているのだろうか。絶望が彼の心を再び支配しようとした。
諦めかけて、その場に崩れ落ちそうになった、その時。
背後の巨大な夜樫の木の陰から、鈴を転がすような、しかし、氷のように冷たい声が聞こえた。
「⋯⋯私に何か用ですか。人間のあなたが、このような森の奥深くまで」
振り返ると、そこにエリアーナが立っていた。
月光を背に受け、その輪郭は青白く光っている。その表情は、以前よりもさらに硬く、冷たく、まるで美しい氷の彫像のようだった。彼女の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。
「エリアーナ⋯⋯! よかった、会えて⋯⋯」
洋介は、安堵と切実な思いで、彼女に駆け寄ろうとした。しかし、彼女の冷たい視線が彼をその場に縫い付けた。
「頼む、助けてくれ!」
洋介は、たまらずその場に膝をついた。土下座をするように、深く頭を下げた。
「村で、病が流行っているんだ。皆、苦しんでいる。リリアも⋯⋯リリアも、今、死にかけている! 君の力で、彼女を、村を、救ってほしい! この通りだ、お願いだ!」
エリアーナは、そんな彼の姿を、無表情のまま、ただ、見下ろしていた。リリア、という名を聞いた瞬間も、彼女の表情は、ピクリとも動かなかった。
長い、長い、沈黙が、二人を支配した。聞こえるのは、風が木々を揺らす音と、洋介の、荒い息遣いだけだった。
やがて、エリアーナの赤い唇がゆっくりと開かれた。
「⋯⋯なぜ、私が?」
その声は、冬の泉の水のように、冷え冷えとしていた。
「あなたは、私ではなく、あの子を選んだはず。人間の女と、人間としての幸せを。それに、私は、人間を助ける義理など、ありません。彼らが、どうなろうと、私の知ったことではないわ」
エリアーナの刃物のように冷たい言葉が、洋介の心を、容赦なく抉る。分かっていた。そう言われることは、覚悟していた。しかし、実際に、彼女の口から、その言葉を聞くと、全身の血が、逆流するような思いだった。
それでも、彼は、諦めなかった。
「分かっている! 俺が君を傷つけたことは、分かっている! 俺が君を拒絶し、君に甘え、君を苦しめた! 全部、分かっているつもりだ! でも、頼む! このままでは、皆死んでしまうんだ! リリアだけじゃない、罪のない、大勢の人々が苦しんでいるんだ! 君は、治癒の力を持っているんだろう!? 苦しむ者を見捨てることができるのか! それでも君は、森の癒し手なのか!?」
洋介の魂からの悲痛な叫びだった。その言葉に、エリアーナの氷の仮面がわずかに揺らいだ。彼女の瞳の奥で、何かが激しく葛藤しているのが見えた。
彼女はエルフだ。森の理と共に生きる癒し手だ。苦しむ者を見捨ててはおけない。それは彼女の、エルフとしての本能であり、使命だった。
しかし、彼女の心の中では、人間としての「小田春音」の、黒い感情が、激しく渦巻いていた。
なぜ、私が?
なぜ、私が、あなたの恋敵を、助けなければならないの?
あなたが、私を捨てて、選んだ女を。彼女が死ねば、あなたは、私の元へ、戻ってくるかもしれないのに。
そんな、醜い考えが、鎌首をもたげる。エルフとしての使命感と、人間としての嫉妬心。聖と俗。二つの感情が、エリアーナの中で、激しく、激しく、ぶつかり合っていた。彼女は、唇を、血が滲むほど、強く、噛み締めた。
長い、息が詰まるような沈黙の後。
エリアーナは、全ての感情を、心の奥底に押し殺し、静かに、口を開いた。
「⋯⋯いいでしょう。ただし、条件があります」
その声には、もう、何の温度も、感じられなかった。
「私が、あなたの村人を救ったら、あなたは、二度と私の前に現れないで。私のことを、私の存在を、あなたの記憶から、綺麗さっぱり、消し去ってください」
それは、エリアーナが自分の心を、自らの手で殺して絞り出した、あまりにも、あまりにも、悲しい条件だった。彼を救うための唯一の方法が、彼との永遠の決別だった。




