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【完結】転生した春の音  作者: りのぺろ


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3/10

第3話 時のすれ違い、心の距離

百二十年の時を超えて、二人の視線が交差した。洋介の戸惑いの声が、静寂の夜気を震わせる。「君は⋯?」。その声は、エリアーナの魂に深く突き刺さり、彼女の時間を百二十年前に引き戻した。当たり前だ。彼の記憶に、「エリアーナ」というエルフは存在しない。彼の魂が覚えていたとしても、彼の脳は、目の前にいる人間ならざる美しい存在を、理解できずにいるのだ。自分は、彼にとって見知らぬ、そして少しばかり奇妙な闖入者でしかない。


「⋯⋯森の者です」


エリアーナは、喉の奥からやっとの思いで言葉を絞り出した。声が震えないように、全身の神経を集中させる。


「村の様子が気になって、少し見に来ただけ。⋯⋯お騒がせしました」


そう言って、彼女は身を翻した。一刻も早く、この場から逃げ出したかった。彼の瞳に見つめられているだけで、築き上げてきた百二十年分の理性が、砂の城のように崩れ落ちてしまいそうだったからだ。追いかけてくるな、と心の中で絶叫しながら、彼女は闇の中へと駆け出した。エルフのしなやかな脚力は、あっという間に彼女の姿を村の灯りから遠ざけていく。

しかし、背後から、力強い足音が追いかけてくる。洋介だった。彼の足音は、エリアーナの心の迷いを映すかのように、乱れることなく、しかし執拗に、すぐ後ろまで迫っていた。なぜ、追いかけてくるの。見知らぬ森の女を、どうして。


森の入り口、外界と聖域を隔てる巨大な夜樫よるがしの木の下で、エリアーナはとうとう足を止めた。これ以上、彼を森に引き入れてはならない。ここは、エルフの世界だ。人間が安易に踏み込めば、森の掟が、精霊たちが、彼を拒絶するだろう。


「待ってくれ!」


追いついた洋介は、肩で息をしながら、エリアーナの腕を掴んだ。その手に、強い力が込められている。触れられた腕から、まるで電気が走ったかのように、懐かしい感覚が全身を駆け巡った。ああ、この温もりだ。この、少し不器用で、でも力強い手の感触。百二十年間、夢に見続けた温もりだった。涙が、もう彼女の意思とは関係なく、後から後から溢れてくる。


「離してください。私は、あなたとは違う世界の者です。これ以上、関わるべきではない」


エリアーナは、彼に背を向けたまま、懇願するように言った。


「違う世界? だから何だと言うんだ」


洋介の声には、切実な響きがこもっていた。


「俺は、君のことを知りたい。君と初めて会った気がしないんだ。さっき、窓の外に君を見つけた時、まるで、ずっと探していた誰かに、やっと会えたような⋯⋯そんな気がした。君は、一体誰なんだ? なぜ、そんなに悲しい顔で、泣いているんだ?」


洋介の真っ直ぐな言葉が、エリアーナの最後の砦を打ち砕いた。彼は、エリアーナを回り込み、その泣き顔を覗き込んだ。その瞳は、昔と何も変わっていなかった。いつだって、彼はこうだった。実直で、自分の気持ちに正直で、そして、少しだけ不器用で、でも誰よりも優しかった。


「⋯⋯エリアーナ」


自分の名前を告げた瞬間、エリアーナは、後悔した。名前という楔を、打ってしまった。もう、後戻りはできない。彼との間に、細く、しかし確かな繋がりが、生まれてしまった。


「エリアーナ⋯⋯。美しい響きだ」


洋介は、その名前を確かめるように、ゆっくりと繰り返した。


「俺は洋介。この村で、家を造っている」


彼は、そう言って、戸惑いながらも、優しく微笑んだ。その笑顔は、かつて小田春音が、世界で一番好きだった笑顔そのものだった。エリアーナの感情は、ついに限界を超えた。百二十年分の孤独と、再会の喜びと、そして未来への絶望が、一つの巨大な奔流となって、彼女の口から溢れ出した。


「洋介⋯⋯! 会いたかった⋯⋯! ずっと、ずっと、あなたに会いたかった⋯⋯!」


エリアーナは、彼の胸に全ての重さを預けるように飛び込んでいた。洋介は突然のことに戸惑い、一瞬その体を硬直させたが、やがて、泣きじゃくる彼女の銀色の髪を、その背中を、まるで壊れ物を扱うかのように、優しく、優しく撫でていた。

その夜、二人は森の境界で夜が明けるまで語り合った。月が西に傾き、東の空が白み始めるまで二人の言葉が尽きることはなかった。エリアーナは、自分のことを全て話した。


小田春音として生きた二十数年の人生。出版社で働き、物語を愛していたこと。洋介と出会い、恋に落ちたこと。彼の設計する空間が、どれほど好きだったか。プロポーズされた日の舞い散る桜のこと。そして、結婚式の前日にブーケを抱えたまま、車に轢かれて死んでしまったこと。

次に目覚めた時、エルフのエリアーナとして、この忘れられた森に転生していたこと。そして、百二十年もの間、ただひたすらに彼を想い続けてきたこと。


洋介は時折、信じられないというように首を振りながらも、黙ってエリアーナの話を聞いていた。彼の表情は驚きと混乱、そして深い悲しみの間で目まぐるしく変わっていった。常識的に考えれば、到底受け入れられる話ではない。狂人の戯言だと思われても仕方がなかった。

だが、彼の魂は、彼女の言葉の一つ一つが真実であると告げていた。


「⋯⋯信じられない。俺の知っている世界では、ありえない話だ。だが⋯⋯」


洋介は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。


「だが、君の話は不思議とすんなりと心に入ってくる。君と初めて会った時から、ずっと感じていたんだ。この胸の奥がざわつくような、懐かしいような、切ないような、特別な感情の正体が今、分かった気がする」


彼は、エリアーナの冷たくなった手を自分の大きな両手でそっと包み込んだ。


「春音⋯⋯。そうだったのか。君は春音だったのか⋯⋯」


洋介の緑色の瞳から、大粒の涙が静かに流れ落ちた。それは、前世の記憶が蘇ったからではない。彼の中で、ずっと燻っていた正体不明の喪失感の理由を、今、理解したからだ。彼の魂はずっと彼女を探し続けていたのだ。


「ごめん⋯⋯ごめん、春音。思い出してやれなくて。一人で、百年も⋯⋯」


二人は、百二十年の時を超えて、ようやくお互いを認識し、抱きしめ合った。森の木々が、夜明け前の風にざわめき、二人の再会を祝福し、そして同時に、これから訪れるであろう過酷な運命を、予言しているかのようだった。

その喜びも束の間、二人の間には、あまりにも大きく、そして冷酷な壁が、改めて立ちはだかっていた。

エルフと人間。その絶望的なまでの、寿命の差。

再会を果たした日から、二人は、人目を忍んで会うようになった。昼間は、洋介は村の建築士として、エリアーナは森の癒し手として、それぞれの時間を生きる。そして、月が昇り、世界が眠りにつく頃、洋介は村を抜け出し、森の奥深くへと向かう。エリアーナは、森の入り口で彼を迎え、二人だけの聖域へと誘うのだ。


その場所は森のさらに奥深く、月光だけが差し込む小さな泉のほとりだった。泉の水は地中から湧き出る際に魔力を帯びた鉱石の層を通るため、まるで星屑を溶かし込んだかのようにきらきらと輝いていた。周囲には夜光苔が自生し、青白い幻想的な光を放っている。そこは人間はもちろん、ほとんどのエルフさえ足を踏み入れない、二人だけの秘密の場所だった。

二人は、そこで、失われた時間を取り戻すかのように語り合った。

エリアーナは洋介に、エルフの森のことわりを教えた。風の言葉の聞き分け方、精霊との対話の作法、傷を癒す魔法の初歩。彼女が泉の水を手にすくうと水は金色の光を放ち、その光に触れた夜光苔はより一層強く輝いた。


「すごい⋯⋯。魔法、か。本当にあるんだな」


洋介は、子供のように目を輝かせた。彼の世界は、合理性と物理法則で成り立っていた。その彼が、今、目の前で、科学では説明できない奇跡を目の当たりにしている。

一方、洋介は、エリアーナに人間の村の発展を語った。新しく計画している水路の設計、村人たちの間の些細な揉め事、そして、建築家として、いつかこの国の王都に誰もが見上げるような美しい建物を建てたいという夢。


「人間の世界は、目まぐるしく変わる。俺たちがこの村に来て、まだ数年だが景色は全く変わってしまった。だが、それが生きているという実感なんだ」


エリアーナは彼の話を聞くのが好きだった。彼の語る人間たちの営みは、停滞した森の時間にはない、力強い生命力に満ちていた。しかし同時に、その話を聞くたびに彼女の胸は締め付けられた。彼の言う「数年」は、彼女にとっては瞬きのような時間でしかない。彼の語る「未来」は、彼女の永遠の時間の中では、あまりにも、あまりにも短い。

幸せな時間の中で、エリアーナの心は常に冷たい不安に苛まれていた。


洋介の目尻に、以前はなかった細い笑いジワが増えていることに気づくたび、心臓が冷たくなる。日に焼けた彼の腕に新しい傷が刻まれているのを見るたび、彼の命が有限であることを、まざまざと見せつけられるようだった。彼の明るい茶色の髪に、月光を浴びてきらりと光る、一本の白いものを見つけてしまった夜は一睡もできなかった。

それはまるで、美しい砂時計の砂が、確実に落ちていくのを、なすすべなく見つめているような、残酷な時間だった。


一方、洋介もまた、エリアーナの変わらない姿に、焦りと、言いようのない劣等感のようなものを感じ始めていた。彼女は、百二十年前の「春音」の話をする時も、今、目の前で魔法を見せる時も、寸分違わぬ姿で、そこにいる。その透き通るような白い肌も、銀色に輝く髪も、若々しいまま、時が止まっている。

自分だけが彼女の横で、確実に歳をとり、老いていく。いつか、彼女の前で醜く老いさらばえてしまう日が来るのだ。その恐怖が、じわじわと洋介の心を蝕んでいった。彼は、彼女が自分を置いていくのではなく、自分が彼女についていけなくなることを恐れていた。


愛し合っているのに、お互いを想えば想うほど二人の間にある「時間」という名の深い溝は、よりくっきりと、その輪郭を現していく。そして、その溝は少しずつ、二人の間にすれ違いを生み出していった。

エリアーナは、洋介の体のことを心配するあまり、つい、母親のような小言を言ってしまうようになった。


「洋介、また夜更かしをしたの? 目の下に、隈ができているわ。あまり無理をしてはだめ。人間の体は、エルフと違って、脆いのだから」


「大丈夫だよ、春音。これくらい、どうってことない」


洋介は、笑って答えながらも、その声には、微かな苛立ちが混じっていた。エリアーナの気遣いが、自分の老いや、人間としての弱さを指摘されているようで、辛かったのだ。「エルフと違って」という言葉が、彼と彼女の間に引かれた、越えられない線を、嫌でも意識させた。

ある夜、エリアーナは、昔話をするように、無邪気に言った。


「この泉のほとりの夜光苔はね、私が生まれた頃から、ずっとこうして輝いているのよ。百二十年前も、きっと、この半分くらいの大きさだったかしら」


その言葉に、洋介は、何も答えられなかった。彼女が語る「百二十年前」という過去に、自分は存在しない。彼女の長い人生の、ほんの入り口に、自分は今、立っているに過ぎない。その事実が、彼に、深い疎外感を抱かせた。

二人の会話は、知らず知らずのうちにお互いを傷つける地雷を内包し始めていた。

そんな危ういバランスの上で成り立っていた二人の関係に、決定的な亀裂を入れる出来事が起こる。

村ができて五年目の収穫祭の季節がやってきた。村中が活気と喜びに満ち溢れる、一年で最も大きな祭りだ。洋介はエリアーナを、その祭りに誘った。

泉のほとりで、彼は、少し緊張した面持ちで切り出した。


「エリアーナ、今度の収穫祭に、一緒に来ないか? 村の皆に、君を紹介したいんだ。俺の、大切な人だって」


それは、洋介なりの、大きな一歩だった。いつまでも、こうして夜の森で、隠れるように会っている関係を、終わらせたかった。彼女を、自分の生きる、光の当たる場所へと、迎え入れたかったのだ。

しかし、エリアーナは、悲しそうな顔で、静かに首を横に振った。


「ごめんなさい、洋介。私は行けないわ」


「どうしてだ!?」


「エルフが人間の村の祭りに現れたら、どんな騒ぎになるか分かるでしょう? 皆、私を好奇の目や恐怖の目で見るだけよ。あなたの立場も悪くなってしまうわ」


「そんなことはない! 俺が皆に、ちゃんと説明する! それに俺は、君を誰かに見られて困るような存在だなんて思ったことは一度もない!」


「無理よ、洋介」


エリアーナの声は、頑なだった。


「私たちは住む世界が違うの。あなたにも迷惑がかかるわ。お願い、分かって」


彼女の言葉は洋介の心を深く傷つけた。「住む世界が違う」。それは、彼が最も聞きたくない言葉だった。エリアーナは洋介を拒絶しているのではなかった。彼を、彼の築き上げてきた人間社会を守るために、自ら一歩を引いたのだ。そして何より、人々の輪の中でリリアと共に笑う彼の姿を間近で見ることに、耐えられそうになかった。それは彼女の、あまりにも悲しい自己防衛だった。


しかし、その想いは洋介には届かなかった。彼にはそれが、自分との間に明確な壁を作る、冷たい拒絶の言葉にしか聞こえなかったのだ。


「⋯⋯そうか。分かったよ」


洋介は、それ以上何も言わなかった。ただ、深く傷ついたような、寂しそうな目をして、踵を返し、一人、村へと帰っていった。

結局、洋介は、一人で祭りに参加した。


祭りの夜、村の中央広場には大きな焚き火が焚かれ、人々はその周りで、歌い、踊り、収穫の恵みに感謝していた。洋介は、その輪の中にいたが、心から笑うことはできなかった。彼の心は、森の奥深くで、一人、この喧騒を聞いているであろう、エリアーナの元にあった。

そんな彼の元に、リリアが木の実の酒が入った杯を持ってやってきた。


「洋介、元気ないわね。何か悩み事?」


彼女は何も聞かず、ただ彼の隣に座り、優しく微笑んだ。村人たちは、そんな二人を見て「お似合いの二人だ」「村の未来は、あの二人に任せれば安心だ」と、口々に囃し立てた。誰もが若きリーダーである洋介と、村長の娘であるリリアが結ばれることを望んでいた。

その全ての光景を。

祭りの灯りが届かない、遠く離れた丘の上の、木の陰から。


エリアーナは、ただ一人、黙って見つめていた。胸が張り裂けそうに痛い。

洋介の隣にいるべきなのは自分なのに。彼が本当に愛しているのは自分なのに。しかし、自分には、あの光の輪の中に入っていく資格がない。彼に、人間の幸福を与えてあげることはできない。

祭りの喧騒、人々の笑い声、陽気な音楽。その全てが自分だけを拒絶する、高い、高い壁のように感じられた。リリアの太陽のような笑顔が、自分の心を容赦なく抉っていく。嫉妬と、自己嫌悪と、そしてどうしようもない悲しみが、彼女の中で黒い渦を巻いていた。

祭りの後、洋介はエリアーナの元を訪れなかった。エリアーナもまた、彼に会いに行くことができなかった。会えば彼を傷つけてしまう。会えば自分が壊れてしまう。


二人の心の距離は物理的な距離以上に遠く、そして、絶望的に離れてしまったかのようだった。

森の奥の泉は、以前と変わらず神秘的な光を放っていたが、そこに、二人の姿が映し出されることはもうなかった。

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