第2話 百年の孤独、刹那の再会
エリアーナとして生を受けて、百二十度目の春が訪れようとしていた。忘れられた森では、時間の流れ方が外界とは異なる。それは単なる比喩ではなく、森そのものが悠久の時を内包し、そこに住まう者たちの心拍すらも、ゆったりとしたリズムに調律してしまうかのようだった。エルフにとって百年という歳月は、人間が季節の移ろいを数えるのに似て、さして大きな意味を持たない。新たな若葉が芽吹き、やがて朽ちて土に還る。その繰り返しの果てに、また新しい緑が生まれる。ただそれだけの、自然の摂理の一部だった。
しかし、エリアーナの中に眠る「小田春音」の魂は、その悠然とした時の流れに、完全には溶け込むことができずにいた。百二十年。人間の尺度で言えば、一人の人間が生まれ、老い、その生を全うし、さらにその子供や孫の代までをも見届けるに足る長大な時間だ。その歳月の中で、春音としての記憶は、まるで長い風雨に晒された石碑のように少しずつ、しかし確実に摩耗していった。
洋介の、あの実直な声。プロポーズの時に少しだけ上擦っていた愛おしい響き。思い出そうとしても霧の向こうから聞こえてくるようで、鮮明には蘇らない。彼の大きな手。ごつごつとして、けれど温かかった、あの手の感触。それも、今となっては夢の中で触れたかのような、曖昧な記憶の残滓でしかなかった。楽しかったデートの記憶も、喧嘩した日の気まずさも、結婚式の準備に胸を躍らせた日々も、まるで分厚いアルバムのページを一枚一枚めくっていくように色褪せ、そのディテールを失いつつあった。
それでも、ただ一つ、決して風化することのないものがあった。
彼の魂を愛している、という、その根源的な感情だけは百二十年の時を経てもなお、彼女の魂の中心で静かな熱を放ち続けていた。それはもはや記憶というよりは、彼女という存在を構成する、不可分の要素となっていた。洋介を想うこと。それはエリアーナにとって、呼吸をすることと同義だった。
彼女は、エルフの中でも特に優れた治癒魔法の使い手となっていた。その両手から放たれる柔らかな金色の光は、どんな傷も癒し、どんな病も和らげる力を持っていた。毒蛇に咬まれた若鹿を救い、嵐で枝を折られた古木を労り、病に苦しむ同胞がいれば夜を徹してその傍らに寄り添った。彼女の周りには、いつも穏やかで慈愛に満ちた空気が流れ、森の仲間たちは深い敬愛の念を込めて、彼女を「癒し手様」と呼んだ。
だが、仲間たちが知る由もなかった。他者を癒せば癒すほど、エリアーナ自身の心にある癒えない傷口が、疼くようにその存在を主張することを。傷ついた生き物の中に、あの日の自分の姿を重ねてしまうことを。そして、癒しの光を放ちながら、彼女の心は常に、たった一人の男の面影を追い求めていることだからだ。
「エリアーナ、また遠くを見ているぞ? お前の魂は、半分、ここにはないようだが?」
背後からかけられた声に、エリアーナはハッと我に返った。振り返ると、そこには森の長老であるエルドランが、深い叡智を湛えた瞳で彼女を見つめていた。彼の樹皮のように皺深い顔は、この森の歴史そのものを物語っている。エリアーナがエルフとして生まれ落ちた時から、彼は父親のように、あるいはそれ以上の存在として、彼女を見守り続けてきた。
「エルドラン様⋯⋯。申し訳ありません、少し考え事をしておりました」
「また考え事か。それとも、思い出に浸っていたのか。お前が『昔』と呼ぶ、ほんの瞬きほどの時間のことだ」
エルドランの言葉は、いつも真理を突いてくる。エリアーナは反論も言い訳もできず、ただ黙って俯いた。足元の苔が、露を含んでしっとりと輝いている。
「忘れられないか。人間としての、あの短い生を。そして、その想い人を」
「⋯⋯忘れたく、ないのです」
エリアーナは、絞り出すように言った。
「忘れてしまったら、本当に、彼との全てが、無かったことになってしまいそうで。この想いだけが、私が『小田春音』であったことの、唯一の証なのです」
「証、か」
エルドランは静かに息をついた。
「執着とも言う。我らエルフは過去に生きない。未来も憂えない。ただ、今ここに吹く風を感じ、木々の歌に耳を澄ませる。時の流れに身を委ねることで、永遠を生きるのだ。だが、お前は時の流れに抗おうとしている。それは、自ら茨の道を歩むに等しい」
「分かっています。でも、私にはできないのです」
「時の流れは残酷なようでいて、慈悲深くもある。全てを洗い流し、やがては平らにしてくれる。いつか、お前の心の傷も癒える日が来るだろう」
エルドランはそう言って、エリアーナの肩を優しく叩いた。しかし、エリアーナは、その傷が癒えることを望んでいなかった。洋介を忘れることは、彼との愛を、あの幸福だった日々を、自ら否定することのように思えたからだ。この痛みこそが、彼を愛した証なのだと、彼女は頑なに信じていた。
そんなある日、森に、これまでとは質の違う不穏な空気が流れ始めた。忘れられた森の南の境界。そこは緩やかな丘陵地帯となっており、人間たちの領域とは、暗黙の内に隔てられていた場所だった。その丘の向こうから、木が倒れる音、金属を打つ音、そして人々の喧騒が、風に乗って微かに聞こえてくるようになったのだ。
人間たちが、森の境界近くに、新たな住処を建設し始めたのだ。
森の精霊たちは、土を汚す鉄の匂いを嫌い姿を隠した。臆病な森の動物たちは、けたたましい音に怯え、森の奥深くへと逃げ込んでいく。エルフたちの間にも、動揺が広がった。
「人間どもめ、我らの聖域を侵す気か」
「今のうちに、警告を与えて追い払うべきだ」
強硬な意見を口にする者も少なくなかった。人間という種族が、いかに短絡的で、破壊を好むかを、エルフたちは長い歴史の中で知っていたからだ。
エリアーナは、言いようのない胸騒ぎを覚え、自らの目で確かめるために、南の境界へと向かった。何百年も足を踏み入れたことのない、森の辺境。鬱蒼とした木々を抜け、視界が開けた瞬間、彼女は丘の上で息を飲んだ。
そこには、懸命に働く人間たちの姿があった。屈強な男たちが斧を振るって木を切り倒し、女子供は石を運び、土地をならしている。彼らは決して、森を無意味に破壊しようとしているわけではなかった。むしろ、その眼差しは真剣そのもので、自分たちの生きる場所を、未来を、その手で必死に切り拓こうとしているだけなのだ。その必死な姿は、かつて建築士として、人々の暮らしのために情熱を燃やしていた、ある男の姿と、どこか重なって見えた。
エリアーナは、木々の陰に身を潜め、無意識に彼らの様子を観察していた。何日も、何日も。開拓地は、少しずつ、しかし着実に村の形を成していった。簡素な小屋が建ち、畑が耕され、井戸が掘られた。
そして、その中心には、いつも一人の青年がいた。
彼は、他の者たちより頭一つ背が高く、日に焼けた肌はたくましかった。他の人間たちに指示を出し、自らも率先して重い木材を運び、汗を流している。彼の周りには自然と人が集まり、その的確な指示に、皆が信頼を寄せて従っているようだった。
ある日の午後、青年が仲間と共に、組み上げたばかりの家の骨組みを見上げていた。強い西日が、彼の横顔を照らし出す。その真剣な眼差し、少しだけ尖らせた唇、仕事に対する一点の曇りもない真摯なまなざし。
エリアーナは、心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃に、その場に凍りついた。
(⋯⋯洋介⋯⋯?)
ありえない。そんなはずはない。髪の色は前世の漆黒ではなく、太陽の光を吸い込んだような明るい茶色だ。瞳の色も深い黒ではなく、森の木々と同じ穏やかな緑色をしている。顔立ちも、どこか異国の血を感じさせる彫りの深いものだ。別人だ。そうに決まっている。
だが。
魂が、叫んでいた。
あの人だ、と。
百二十年間、片時も忘れることのなかった、愛しい人の魂が、今、目の前にいると。
エリアーナは震える手で口を覆った。溢れ出しそうになる嗚咽を必死で飲み込む。木陰から飛び出し、彼の名前を叫びたい衝動に駆られたが、両足は根が生えたように動かなかった。
百年の時を経てついに再会できた。神は自分の祈りを、聞き届けてくれたのだ。喜びが津波のように全身を駆け巡った。
しかし、その直後。喜びの波が引いた後に残ったのは、喜びの何倍もの大きさを持つ、深い、深い絶望の感情だった。
今の自分は、エルフのエリアーナだ。そして彼は、人間の青年。
自分は、これから何百年、あるいは何千年と、この姿のまま生きていく。しかし、彼は、彼は、人間としての短い生涯を、あっという間に駆け抜けていってしまうだろう。やがて彼は歳をとり、顔にシワを刻み、白髪になり、そして死ぬ。
やっと会えたのに。
また死が、二人を分かつ。
それも、今度は一方的に彼だけを連れ去っていく、抗うことのできない、絶対的な別離が。
その事実に気づいた瞬間、エリアーナの世界は、喜びの光から一転して暗い絶望の闇に突き落とされた。
青年――洋介は、この異世界でも、建築の才能に恵まれていたようだった。彼が設計し仲間たちと共に建てた家は、簡素ながらも風通しや日当たりが計算され尽くした、住む人のことを第一に考えた温かみのあるものだった。村人たちは、若くして卓越したリーダーシップを発揮する彼を深く信頼し、愛していた。
エリアーナは、それから毎日、森の木陰から洋介の姿を見守り続けた。それが彼女の新たな日課となった。
彼に会いたい。一言でもいい、話がしたい。しかし、その一歩がどうしても踏み出せなかった。自分の存在が、彼の人生を、幸せを、狂わせてしまうのではないか。悠久の時を生きるエルフと、刹那の時を生きる人間。あまりにも違う二つの時間が、再び巡り会った二人を、無情にも引き裂こうとしているかのようだった。
季節は何度も巡り、村は少しずつ大きくなっていった。洋介も、たくましい青年に成長していた。そして、いつしか彼の隣には、いつも笑顔の絶えない、快活な人間の女性の姿があった。
彼女の名はリリア。村長の娘で村の誰からも愛される、太陽のような女性だった。彼女は洋介に想いを寄せており、その気持ちを隠そうともしなかった。仕事に打ち込む洋介のために、かいがいしく水の入った水差しを運び、汗を拭うための布を差し出す。そして二人は、仲間たちと共に楽しそうに笑い合うのだ。
その光景を見るたびに、エリアーナの胸は、まるで細い針で、何度も、何度も、突き刺されるように痛んだ。
春音だった頃の自分と洋介。
そしてリリアと洋介。
二つの光景が脳裏で重なる。エリアーナは自分の心の中に、黒く醜い感情が渦巻いていることに気づき愕然とした。嫉妬。百二十年もの間、彼だけを想い続けてきた。それなのに、いざ再会してみれば自分は何もできず、ただ遠くから彼が別の女性と親密になっていくのを見ていることしかできない。その無力感が彼女の心を蝕んでいった。
リリアは、自分にはないものを全て持っているように見えた。同じ人間として、同じ時間を生き、同じように歳をとり、彼を支え、やがては彼の子供を産むのだろう。それはかつて小田春音が夢見た、あまりにも眩しい幸福の形そのものだった。
ある満月の夜だった。
月光が、森を、そして人間の村を分け隔てなく青白く照らしている。エリアーナは泉の水面に映る自分の顔を見つめていた。百二十年前と何一つ変わらない、若く、美しいエルフの顔。しかし、その瞳の奥には人間の一生分よりも遥かに深い、孤独と悲しみが淀んでいた。
このまま見ているだけで本当にいいのだろうか。
このまま彼が何も知らずに別の誰かと結ばれ、その一生を終えるのを見送るだけで。
後悔しないだろうか。
いや、きっと後悔する。何百年、何千年経っても、この日の無力な自分をきっと呪い続けるだろう。
エリアーナは、ついに決心した。
一目だけでもいい。彼の声が聞きたい。そして、もし許されるなら、自分の気持ちに何らかの区切りをつけたい。たとえそれが、残酷な現実を突きつけられる結果になったとしても。
エリアーナは、音を立てないように森を出た。エルフの身体能力は、人間の比ではない。月の光だけを頼りに、彼女は風のように人間の村へと向かった。
村は夜の静寂に包まれていた。昼間の喧騒が嘘のように、家々の窓からは温かい光が漏れ、人々の穏やかな寝息が聞こえてきそうだった。エリアーナは、その光景に、前世で自分が生きていた世界の夜を思い出し、胸が締め付けられた。
彼女は洋介が住んでいるであろう、村で一番立派な、しかし華美ではない家を探し当てた。そして、そっと窓から中を覗き込んだ。
部屋の中では、洋介が大きな木の机に向かって、羊皮紙に図面を引いていた。揺れるランプの光が彼の真剣な横顔を照らしている。その姿は、前世で、夜遅くまで設計図と向き合っていた彼の姿と、寸分違わず重なった。その光景を見ただけで、エリアーナの目から堰を切ったように涙が溢れてきた。
会いたかった。
ずっと、ずっと、会いたかった。
この百二十年間、片時も忘れたことのない、愛しい人。
彼女は、嗚咽を漏らさないように、必死で唇を噛み締めた。
その時だった。
まるで、彼女の視線を感じ取ったかのように、洋介がふと、顔を上げた。
そして彼の緑色の瞳が、窓の外に佇む見慣れぬ女の姿を正確に捉えた。
月光に照らされて、銀色に輝く長い髪。人間離れした、神々しいまでの美貌。そして何よりも、その大きな瞳から大粒の涙を流しているその姿。
洋介の目が、驚きに、大きく、大きく見開かれた。
百二十年の時を超えて。
人間とエルフとして、再び出会った二人の視線が。
静寂の夜の中で、確かに交差した。
「君は⋯⋯?」
静寂を破ったのは、彼の、戸惑いに満ちた、かすれた声だった。
エリアーナは、何も言えずに、ただ、立ち尽くすだけだった。彼の声を聞いただけで、全身の力が抜けていくようだった。その声もまた、紛れもなく彼女が愛した洋介の声だったからだ。




