第303話 『東原の光明』と、前夜の祝宴
月酔仙がこの世を去ってから、どれほどの月日が流れただろうか。
長命種である俺にとって、それはほんの一瞬の瞬きにも等しい時間だったはずだ。
だが、俺の心にぽっかりと開いた穴には、ひどく冷たく淀んだ風が吹き荒れ続けていた。
光華王朝の宮廷は、もはや完全に狂気の坩堝と化している。
終わらない軍拡競争の果てに、かつて月酔仙が純粋な夢として描き、俺が前世の記憶から語った『星の海へ至る箱舟』の理論は、完全に軍部の手に渡ってしまった。
そして今夜。
スヴァトゴーラ王朝の分厚い防壁を無視し、遥か彼方の空から超質量を叩き込むための悪魔の兵器――弾道ミサイルのプロトタイプである巨大なロケットの打ち上げが、強行されようとしていた。
俺は今、東の原野に開拓された火龍の民の村、『紅泉郷』の中央広場にいた。
広場には無数の篝火が焚かれ、真昼のように明るく照らし出されている。
俺の足元には、ドワーフの親方に打たせたあの黒鋼のパイプ椅子がある。
どかと深く腰を下ろした俺の膝の上には、月酔仙の若き日の人格を投影したAI、黄龍の宝珠が静かに淡い光を放ちながら置かれていた。
「火龍様! いよいよ今夜ですね!」
顔を真っ赤に紅潮させた村の若者が、とびきりの清酒がなみなみと注がれた大杯を俺の前に掲げてくる。
「月酔仙様が手掛けられた、天へと昇る御柱! 我が光華の威信を懸けた偉業の成功を祈って、乾杯しましょう!」
「……ああ。そうだな」
俺は重々しく頷くふりをして、木杯を受け取った。
紅泉郷の民たちは、誰も真実を知らない。
彼らは今でも、あの打ち上げを『星の海を観測するための国家の偉大なプロジェクト』だと信じ切っている。
自分たちを導いてくれた仙人の夢が、まさか数万の命を奪うための照準器と殺戮兵器に成り果てているなどと、露ほども疑っていないのだ。
俺は喉の奥を焼くような酒を煽りながら、夜空を見上げた。
酒の味など、まったくしなかった。
ただ、舌の上に残るアルコールの苦味だけが、今の俺の気分と酷く同調している。
『……師父。アルコールの過剰摂取は、人化の術式の安定性に影響を及ぼす可能性があります。ご自愛ください』
膝の上の水晶玉から、黄龍の無機質で、それでいてどこか小うるさい文官のような念話が響いた。
『うるせえよ。お前まであのジジイみたいな小言を言うんじゃねえ』
『私は前マスター・李皓月の若き日の思考回路をベースに構築されています。師父の不摂生を咎めるのは、私のロジックとして当然の帰結です』
『へっ。生意気言いやがって』
俺は鼻で笑い、再び杯に酒を注がせた。
もしこのロケットが成功すれば、スヴァトゴーラ王朝は報復のためにさらなる破壊兵器を起動するだろう。
二つの大国による狂ったチキンレースは、もう後戻りできない地点まで来てしまっている。
俺は世界のバランサーとして、門番たる火龍として、ただこの愚かな人間の業を見届けるしかないのだろうか。
そんな自問自答を繰り返していた、その時だった。
『――警告。師父、緊急事態です』
突然、膝の上の黄龍が、かつてないほど激しい明滅を繰り返した。
『どうした、黄龍』
『先ほど打ち上げが強行されたロケットの推進システムに、致命的なエラーを検知しました。軌道計算が完全に狂っています。マスターの微細な術式補正を欠いた軍部の急造システムでは、あの質量の燃焼を制御しきれなかったようです』
俺は持っていた杯をピタリと止めた。
『どういうことだ。どこに落ちる』
『弾道軌道を再計算。……対象は現在、高度を維持できず急降下中。墜落予測地点は――ここです』
『なんだと!?』
俺は思わず、声に出して叫んでいた。
その瞬間、夜空の彼方から、耳をつんざくような轟音が響き渡った。
ゴォォォォッ……!!
広場で踊っていた村人たちが一斉に動きを止め、空を見上げる。
満天の星空を切り裂いて、巨大な炎の塊が、不気味な尾を引いて真っ逆さまに落ちてくるのが見えた。
「な、なんだあれは!?」
「星が、星が落ちてくるぞ!」
村人たちがパニックに陥り、悲鳴を上げて逃げ惑い始める。
あんなものがこの紅泉郷のど真ん中に直撃すれば、村人たちは一瞬で蒸発し、周囲の土地はミアズマに汚染されて完全に死の土地と化すだろう。
月酔仙が愛したこの村が、月酔仙の夢を歪めた兵器の残骸によって滅ぼされようとしているのだ。
「ふざけるな」
俺の奥歯がギリリと鳴った。
こんな最悪のブラックジョークを黙って受け入れられるほど、俺は行儀の良い存在じゃねえ。
俺は黒鋼のパイプ椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がった。
懐に黄龍の宝珠をねじ込み、首に巻いていたタオルを引きちぎって投げ捨てる。
「……逃げろッ! 全員、山の方へ走れ!」
俺は咆哮し、パニックに陥る村人たちを背にして、ただ一人、迫り来る火球の落下点へと歩み出た。
大気を震わせ落下してくる殺戮兵器。
人間の姿のまま、あれほどの質量と運動エネルギーを相殺することは不可能だ。
ならば、答えは一つしかない。
「クソッタレが……。後始末なら、俺がつけてやる」
俺は両腕を天に掲げ、百年以上かけ続けていたリミッター――重力魔法の極限のタガを、完全に解き放った。
ズォォォォンッ!!!
俺の足元の岩盤が瞬時に陥没し、粉々に砕け散る。
百八十五センチの肉体が眩い光に包まれ、急速に膨張していく。
魔力と質量が爆発的に解放され、周囲の空気が物理的に軋むような悲鳴を上げた。
分厚い赤銅色の鱗が皮膚を突き破って全身を覆う。
城壁のように強固な胴体、空を覆い隠すほどの巨大な翼、そして鋼鉄の岩山のような長い首。
数百万トンにも及ぶ古代竜の超質量が、一切の制限なくこの物質界に顕現したのだ。
『グガァァァァァァァッ!!!』
大地を揺るがし、大気を切り裂くような巨大な咆哮が、紅泉郷の夜空に響き渡った。
上空数百メートル。
圧倒的な質量と熱量を持って、弾道ミサイルが俺の頭上に迫っていた。
俺は大きく息を吸い込み、強靭な後脚で大地を蹴り砕いて、真っ直ぐに空へと跳躍した。
『師父! 対象との激突まで残り10秒!』
『計算はいらねえ! 真正面からぶっ飛ばすだけだ!』
俺は大きく顎を開き、喉の奥深く、龍脈から直接引き出した純度百パーセントのマグマと炎の魔力を極限まで圧縮した。
腹の底から湧き上がるのは、月酔仙を死に追いやったこの愚かな兵器に対する、そしてそれを生み出した人間の業に対する、純粋で圧倒的な怒りだ。
『消し飛びやがれェェェェッ!!!』
ゴァァァァァァァァァァッ!!!
俺の口から放たれたのは、すべてを光の粒子へと還元するような、白く輝く純粋な破壊の奔流だった。
極大のブレスが、迫り来る巨大なロケットを真っ向から捉える。
ズガガガガガァァァンッ!!
空中で凄まじい大爆発が起きた。
しかし俺の放った光の奔流は、その爆発のエネルギーごとロケットの残骸を飲み込み、天の彼方へ向かってすべてを焼き尽くしていく。
夜空が真昼のように白く染まり、致死性のミアズマすらも超高温の前に完全に浄化され、チリ一つ残さず消滅した。
やがて光の奔流が収まり、夜空に再び星の瞬きが戻ってきた時、そこにはロケットの残骸一つ残っていなかった。
俺は空中でゆっくりと翼を羽ばたかせながら、長く熱い息を吐き出した。
地上では、村人たちが呆然と空を見上げ、やがて地鳴りのような歓声を上げ始めたのが見えた。
◆◆◆
数日後。
俺は再びおっさんの姿に戻り、紅泉郷の広場に置いたままだった黒鋼のパイプ椅子に深く腰を下ろしていた。
『師父。宮廷のネットワークより、最新の公式発表のデータを傍受しました』
卓上の黄龍が、淡く明滅しながら報告をしてきた。
『軍部が強行したロケットの打ち上げは、公式には「大成功」として処理されたようです』
「……はあ?」
俺は杯の酒を噴き出しそうになり、眉間を深く揉んだ。
『どういうことだ。あんなもん、俺がチリも残さず焼き払っただろうが』
『皇帝の政治的判断です。国家の威信を懸けたプロジェクトの失敗を認めるわけにはいかなかったのでしょう』
『夜空を真っ白に染め上げた師父の極大のブレス。あれを文官たちは「我が国のロケットが天に到達し、神の領域に光をもたらした証」として民衆に発表しました』
「バカバカしいにも程があるぞ……」
『さらに、紅泉郷の民たちの間では、あの光の柱は「火龍様が国家の偉業を祝福し、奇跡の光を放ってくださった」という伝説として語り継がれ始めています』
俺は盛大に天を仰ぎ、深いため息を吐き出した。
月酔仙の純粋な夢を汚しておきながら、失敗の尻拭いまで俺の力に乗っかって美談に仕立て上げる。
その図太さには、怒りを通り越して感心すら覚えるほどだった。
『そして、師父』
黄龍が、さらに決定的な事実を告げる。
『皇帝は、この「偉業」を祝福してくださった偉大なる火龍に対し、正式な皇祖に連なる地位と、新たな二つ名を奉ることを決定しました。夜空を白夜のように染め上げ、我が国に光をもたらした偉大なる守護竜。すなわち――』
黄龍は一拍置き、恭しくその名を告げた。
『――『東原の光明』。これが、今後の師父の公式な神名として記録されます』
「……」
俺はパイプ椅子の背もたれに深く寄りかかり、腕を組んだ。
東原の光明。
皮肉なほどに美しく、そして完璧に俺の正体を言い当てている名前だった。
「……やれやれ。勝手に名前まで付けやがって。だが、まぁいい」
俺は口の端を少しだけ吊り上げ、黄龍の宝珠を撫でた。
「これで、光華の古代AIどものネットワークにおいて、俺の権限は実質的に皇帝と同等、あるいはそれ以上として認識されるってことだろ?」
『はい、師父。宮廷の深部データへのアクセスも、もはやフリーパスに近い状態です』
「なら、上出来だ。この肩書きは、後で都合よく使わせてもらうとするさ」
だが、この時の俺は、事態がどれほど破滅へ向かっているかを、まだ完全に理解してはいなかった。
俺がロケットを破壊し、時間を稼いだところで、人間の業は決して止まらなかったのだ。
狂気の軍拡競争は、やがて創造神の逆鱗に触れる最悪の結末へと突き進んでいく。
血と絶望に塗れた『大分断』の地獄が、すぐそこまで迫っていたのだ。




