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悪役令嬢の兇器はドス黒い鈍器《パイプ椅子》です ~前世は病弱、今世は物理最強。魔法もチートも私には勝てません~  作者: みやもと春九堂@月館望男
【外伝】悪役令嬢の兇器はドス黒い鈍器《パイプ椅子》です ~よろず屋ドレイクのおっさんは、なかなか穏やかに過ごせない。β版~
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第302話 親友の死と、託された星の海

 光華王朝の壮麗な宮廷は、終わらない軍拡の狂熱に浮かされ、血生臭い鉄と油の匂いに満ちていた。


 スヴァトゴーラ王朝との決戦に向けた軍靴の音が、昼夜を問わず石畳を打ち鳴らしている。


 だが、宮廷の最奥に位置する月酔仙の私室だけは、ひどく冷たく、重苦しい静寂に包まれていた。


 俺は分厚い革コートのまま、音を立てずにその部屋へと足を踏み入れた。


 部屋の中には薬草の匂いが充満しているが、それがもう何の役にも立たない気休めでしかないことは、竜の嗅覚を持つ俺には痛いほどに分かっていた。


 部屋の中央に置かれた豪奢な天蓋付きの寝台。


 そこに横たわっているのは、かつて水面に映る月を拾おうとして水の上に立ったという、あの風雅で飄々とした仙人の姿ではなかった。


 ただの、ひどく小さく、干からびた枯れ木のような一人の老人だった。


 白く美しかった顎鬚はパサパサに乾き、頬はこけ、閉じた瞼の奥にはもう、あの少年のような知的好奇心の光はない。


 仙術による不死や長寿は、その者の希望や心のありよう、知への渇望に深く依存している。


 自らが純粋に「月へ行きたい」と願った宇宙への夢が、皇帝と軍部によって大量殺戮兵器へと歪められ、世界を終わらせる火種になってしまったという絶望。


 その自責の念が、彼の中から清冽な仙気を完全に枯渇させ、ただの死にゆく人間へと引き戻してしまったのだ。


 俺は寝台の傍らに、腰に提げていた漆黒のパイプ椅子を静かに開いた。


 ドワーフの親方が打ち上げた黒鋼のフレームが、俺の数百万トンに及ぶ超質量を音もなく受け止める。


 ギシ、という微かな軋み音すら立てさせないように、俺は極限まで重力制御に意識を集中させ、ゆっくりと腰を下ろした。


 俺の気配に気づいたのか、月酔仙が薄く、和紙のような瞼を開いた。


「……ヨシュア、殿」


 掠れた、風の音のような声だった。


 俺は懐から小さな瓢箪を取り出し、寝台の脇の小机に置かれていた杯に、静かに琥珀色の液体を注いだ。


 紅泉郷の洞窟で、彼と共に何十年も寝かせ、いつか一緒に飲もうと約束していた極上のウイスキーだ。


「起きたか。外は相変わらず、バカな人間どもが鉄屑を引きずって歩き回る音でうるせえよ」


 俺は極力普段通りの、ぶっきらぼうな口調を作って答えた。


「少し、飲むか。お前さんが温度管理の結界を張ってくれたおかげで、とびきりの味に仕上がってるぜ」


 俺が杯を口元に近づけてやると、月酔仙は微かに唇を湿らせ、ほんの少しだけ、懐かしむように口角を上げた。


「……ええ。本当に、美味い酒ですな」


 だが、彼が飲み込めたのはほんの数滴だけだった。


 むせる力すら残っていないその姿に、俺は奥歯を強く噛み締めた。


 俺の前世は、プロレスを愛し、道場で若手をしごき、病床で激痛に耐えながら生を全うした人間だった。


 だから死というものには慣れているつもりだった。


 だが、悠久の寿命を持つ火龍として転生し、この世界で初めて対等に肩を並べ、共に笑い合い、酒を飲み交わした「唯一の親友(ダチ)」が、こうして老衰と絶望の中で消えていこうとしているのを見るのは、想像を絶する苦痛だった。


 相手の打撃を真正面から受け止め、力を逃がすのが俺のプロレスの理だ。


 だが、この静かに忍び寄る死の気配だけは、どうやっても受け身の取りようがなかった。


「……どうやら、私は間違えてしもうたようです」


 月酔仙が、虚空を見つめながらポツリと呟いた。


「帝はもう、老耄の言葉に耳を貸しませぬ」


 彼の目から、一筋の濁った涙がこぼれ落ち、深い皺を伝って枕へと染み込んでいく。


「私が、あの月に触れてみたいなどと夢を見なければ。火龍殿から星の海の理を聞き出さなければ……!」


 それは月酔仙が幾度も繰り返した、絞り出すような、血を吐くような懺悔だった。


 彼の手がシーツを弱々しく掴み、激しい後悔に震えている。


「自分を責めるな、李皓月」


 俺は、普段は決して口にしない彼の本名を呼び、その震える枯れ枝のような手を、自分の分厚い両手でそっと包み込んだ。


 俺のドラゴンの質量が彼を押し潰してしまわないよう、グラム単位で重力のベクトルを相殺しながら、ただその冷たい手の熱を逃がさないように。


「お前さんが望んだのは、空の彼方にある岩の塊に足跡をつけるっていう、純粋な夢だけだ。それを捻じ曲げるのは心の弱い一部の権力者さ。お前さんが気にすることじゃない……」


「ですが……!」


「心の弱い人間ってのは愚かなもんだ。新しい力を得れば、まずはそれで身を守ることじゃなく、先んじて誰かを叩く力に変えようとする」


 俺は低い声で、自らに言い聞かせるように語りかけた。


「俺の故郷の世界だってそうだ。空を飛ぶ技術も、星の海を渡る技術も、もとはと言えば人間同士で殺し合うための戦争の副産物だった。……お前さんのせいじゃない。人間が、人間である限り避けられない業だ」


 月酔仙は小さく首を横に振った。


「それでも……私の浅はかな好奇心が、数万の命を奪うものを生み出してしまった事実は変わりませぬ」


 彼は荒い息をつきながら、寝台の脇の小机に置かれていた、淡く明滅する水晶玉へと視線を向けた。


 俺たちが共に育て上げ、彼の若き日の人格をベースに構築された古代AI、『黄龍』の宝珠だ。


「……黄龍よ。聞こえておるか」


『はい。傍に控えております、マスター』


 水晶玉から響く無機質な声が、部屋の静寂に落ちた。


「今日この時をもって、お前の全管理権限を、ヨシュア殿……火龍殿へと移譲する。そして、空に浮かぶ観測用人工衛星『万里』の制御コードも、すべて火龍殿に託しなさい」


『……マスター。それは、マスターの生体活動の完全な停止を前提としたプロトコルです。承認できません』


「聞き分けのないことを言うでない。これは、私の最後の命令だ」


 月酔仙の揺るぎない仙人としての威厳を帯びた声に、黄龍の水晶玉が激しく明滅を繰り返した。


 演算回路が葛藤し、論理エラーを起こしているのが手に取るようにわかる。


『……権限移譲、承認。全プロトコルを、ヨシュア・A・ドレイク殿へ移行します。……マスター、本当に、これでよろしいのですね』


「ああ。ご苦労だったな、我が分身よ」


 月酔仙は穏やかに目を細め、再び俺へと視線を戻した。


「ヨシュア殿。この星の海を見渡す目と、我が愚かな知識の結晶……どうか、あなたに預かっていただきたい。人間には、まだ早すぎた火種です」


「……ああ。確かに預かった。俺が責任を持って、このバカな人間どもが世界を終わらせないように管理してやる」


 俺は力強く頷き、彼の手を優しく握り直した。


「お前さんが遺してくれたこの黄龍は、俺が一生かけて立派な酒飲みの話し相手に育て上げてやるよ」


 俺の冗談めかした言葉に、月酔仙の口元に、かつて共に紅泉郷で酒を酌み交わした時のような、風雅でイタズラっぽい笑みが浮かんだ。


「ふぉっふぉっ……それは、頼もしい。あの堅物が、どう変わるのか……見物ですな」


 彼の声はもう、耳を澄まさなければ聞こえないほどにか細くなっていた。


 部屋の窓の外から、スヴァトゴーラへ向けて進軍する重魔導兵器の不気味な駆動音が低く響いてくる。


 だが、俺と月酔仙の間にある空気だけは、あの小舟の上で月見酒を楽しんだ夜のように、穏やかで澄み切っていた。


「……ヨシュア殿。色々と、楽しい夢を見させてもらいました」


 月酔仙の目が、ゆっくりと閉じられていく。


「次は、火龍殿がいた世界へ……渡りたいものですな」


 彼が思い描いたのは、星の海を渡る金属の箱舟か、それとも俺が語ったプロレスの熱狂か。


 俺にはわからない。


 ただ、彼が最期に見た夢が、決して血塗られたものではないことだけは確信できた。


「では……おやすみなさいませ――」


 その言葉を最後に、彼の手から完全に力が抜け、胸の上下が止まった。


 長い、長すぎる時間を生き抜き、光華王朝の歴史を陰から支え続けた偉大な仙人が、ただの一人の人間として静かに息を引き取った瞬間だった。


 俺は、その冷たくなっていく手をしばらくの間握りしめ、目を閉じた。


 俺の内側にある数百万トンの竜の質量が、悲しみと怒りでマグマのように沸騰し、暴れ狂いそうになるのを、必死に重力魔法で押さえ込む。


 泣くことすら、俺には許されない気がした。


「ああ。晩安(ワンアン)兄弟(シォンディ)


 部屋の中には、俺の嗄れた声と、主を失った黄龍の宝珠が放つ、規則的で悲しげな明滅の電子音だけが響いていた。


 俺は静かに立ち上がり、黒鋼のパイプ椅子を折りたたんで腰に提げた。


 黄金のように輝かしかった俺たちの時間は、これで完全に終わったのだ。


 人間たちの業が作り出した終わらない軍拡競争が、親友の命を削り取り、彼が愛した月への夢を血塗られたものに変えた。


 俺は世界のバランサーとして、門番たる火龍として、この先訪れるであろう最悪の結末を見届けなければならない。


 窓の外の狂気に満ちた夜空を見上げながら、俺は一人、深い絶望と静かな怒りを腹の底へと飲み込んだ。


 俺の長すぎる人生において、これほどまでに重く、苦い酒の味を知った夜はなかった。

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