第301話 歪められたロマンと、終わらない軍拡
あの日、月酔仙と共に星の海へ至る箱舟の夢を語り明かした夜。
俺の長すぎる人生において、間違いなく最も輝かしく、満ち足りた黄金時代。
だが、その輝きは、あまりにも短く、そして残酷な形で終わりを告げることになった。
光華王朝の壮麗な宮廷の奥深く、月酔仙に与えられた広大な研究施設。
かつては純粋な知的好奇心に目を輝かせた文官や職人たちが集い、熱く議論を交わしていた場所だ。
だが、今の研究室を満たしているのは、焦燥と、血生臭い狂気、そして油と鉄の淀んだ匂いだ。
「紅月仙殿。……軍部から、推進剤の配合比率と、切り離し機構の構造図の提出を急ぐよう、再び通達がありました」
疲れ切った声でそう告げたのは、数え切れないほどの羊皮紙に埋もれるようにして座る月酔仙だった。
俺は漆黒のパイプ椅子の上で深く、重たい息を吐き出した。
かつての飄々とした老仙人の顔には、見る影もないほどの深い疲労と絶望が張り付いている。
「またか。……奴ら、まだあの鉄の筒を、ただのバカでかい大砲にするつもりでいやがるのか」
俺が忌々しげに吐き捨てると、卓上の黄龍が淡く明滅して冷徹な事実を告げた。
『師父。遺憾ながら、光華王朝の最高意思決定機関において、我々の進めていた宇宙探査計画は完全に別の目的へと転用されました。すなわち、遥か遠方の特定座標へ大質量兵器を正確に投射するシステム――『弾道ミサイル』の開発です』
「わかってるよ黄龍。口に出して言われると、余計に腹が立つ」
俺は分厚い指で額を押さえた。
すべての元凶は、遥か北方に位置する極寒の軍事大国、スヴァトゴーラ王朝との対立だった。
終わらない軍拡競争が限界点を超えようとしていたのだ。
スヴァトゴーラが新たな機甲部隊を配備したという報せにパニックに陥った皇帝たちがすがりついたのが、月酔仙の『ロケット』の技術だった。
空高く、重力の壁をぶち抜いて天へと昇る推進力。
それが彼らには「スヴァトゴーラの防壁を無視して、空の彼方から一瞬で敵の首都を火の海に変える究極の兵器」としか映らなかったのだ。
純粋な夢が、悪意によって最も効率的な大量殺戮兵器へと歪められていく。
「……私の、せいです」
月酔仙が、震える両手で顔を覆い、絞り出すように呻いた。
「私が、あの月に触れてみたいなどと、あんな途方もない夢を見なければ。火龍殿から星の海の理を聞き出さなければ、このような……こんな恐ろしい地獄の釜の蓋を開くことにはならなかった……!」
「自分を責めるな、月酔仙。お前さんが望んだのは、あんな血生臭いオモチャじゃねえ」
俺はパイプ椅子から立ち上がり、彼の肩にそっと手を置いた。
「人間ってのは、便利な道具があれば、いつだってそれを殴り合いの棍棒に変えようとする生き物だ。それはお前さんの責任じゃねえよ」
「ですが! 私の仙術の理論が、黄龍の演算が、今まさに数万の命を奪うための照準器として使われようとしているのですぞ!」
月酔仙の悲痛な叫びが、薄暗い研究室に空しく響いた。
純粋な夢を汚され、自らの手で世界を焼く兵器を生み出してしまったという絶望と自責の念が、月酔仙の仙術を枯渇させ、命を内側から確実に削り取っていた。
俺は奥歯を強く噛み締めた。
世界のバランサーたる門番・火龍として、人間同士の国取り合戦や政治には口出しできないという絶対の掟がある。
だが、親友がゆっくりと死に近づいていくのを、ただ見ているしかない己の無力さが腹立たしかった。
◆◆◆
数日後。
宮廷の空気は、いよいよ引き返すことのできない狂気の淵へと足を踏み入れていた。
そして、俺にとってさらに胃の痛くなるような、最悪の決定が下された。
離れの庵に、見慣れた足音が近づいてくる。
現れたのは、実戦用の使い込まれた革鎧と大剣を身に帯びた若武者たちだった。
チー・ダイ、フェイ・ガオ、ヤー・ダー、シャオ・イェの四人だった。
「……紅月仙様。ご無沙汰しております」
代表して前に出たシャオ・イェが、死地に赴く者の覚悟が張り付いた顔で深く頭を下げた。
「俺たち、スヴァトゴーラとの最前線への出立を命じられました」
チー・ダイが、いつもの無邪気な笑顔を消し去り、力強く宣言する。
彼らの瞳には、国のために戦うという将軍としての誇りと、悲壮な決意が宿っていた。
だが、俺の胸の中は、絶望的な焦燥感でどす黒く塗り潰されていた。
スヴァトゴーラの最前線がどれほどの地獄か。
魔法抵抗が極大の殺戮兵器の群れ。
国家同士の大量殺戮の最前線に放り込まれれば、彼らなどただの安い使い捨ての駒に過ぎない。
「……行くのか、どうしても」
「皇帝陛下の勅命です。俺たちは、光華王朝の将軍として、この国と、故郷である紅泉郷の民を守る義務があります」
彼らは、自分たちが捨て駒であることを薄々理解している。
俺は苛立ちのままにパイプ椅子の背もたれに思い切り体重を預けた。
黒鋼のフレームが、俺の無意識に漏れ出た怒りの圧に悲鳴を上げる。
「いいか、お前ら」
俺は立ち上がり、四人の前に歩み寄った。
「絶対に、死ぬんじゃねえぞ」
俺の言葉に、彼らは力強く頷いた。
「当たり前です! 敵の将の首をぶっ飛ばして、必ず生きて帰ってきますよ!」
「バカ野郎。そうじゃねえ」
俺はチー・ダイの頭を軽く小突いた。
「手柄なんか立てなくていい。逃げられる時は全力で逃げろ。打撃を避けられないなら、急所を外して受け身をとれ。泥水を啜ってでも、どんなに無様でもいいから、絶対に生き残ることだけを考えろ。……相手の力に真っ向からぶつかるなよ」
それは、彼らに取っ組み合いを教えたおやっさんとしての、偽らざる本音だった。
シャオ・イェが、微かに口元を綻ばせた。
「……はい。受け身をとり、相手の力を利用して理を極める。忘れません。それにしても、もはや隠そうとはなされないのですね。紅月仙殿。いや、師父」
「あ……ま、まぁそういうことだ。どうにも、しまらねえな……」
頭をかく俺に、四人の若武者たちは大きく笑うと、深々と一礼し、戦場へと去っていった。
彼らの背中が見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くしていた。
その夜。
俺は一人、庭園の片隅に漆黒のパイプ椅子を開き、ウイスキーの杯を傾けていた。
かつて月酔仙と共に宇宙のロマンを語り合った池の水面には、美しい満月が映っている。
だが、隣で杯を傾け、笑い合ってくれる親友の姿はそこにはない。
俺は杯の酒を一息に煽り、喉を焼くアルコールの刺激と共に、深い絶望を胃の腑に流し込んだ。
『師父。……感情の乱れにより、重力制御のベクトルがわずかにブレています。周囲の空間に負荷がかかっていますよ』
卓上の黄龍が、静かに明滅して俺を咎める。
「うるせえよ……。今夜くらい、少しばかり空気を重くさせろ」
俺は夜空の月を見上げた。
黄金のように輝かしかった俺たちの時間は、完全に終わってしまった。
俺の愛した人間たちの営みが、俺自身の語ったおとぎ話のせいで焼き尽くされようとしている。
パイプ椅子の冷たい黒鋼の感触だけが、今の俺にとって唯一の現実に繋ぎ止める錨だった。
やがて訪れるであろう、最悪の結末を予感しながら、俺はただ無力に杯を重ねるしかできなかった。




