第300話 月見酒の夢と、黄龍の誕生
光華王朝の壮麗な宮廷の奥深く、広大な敷地を誇る月酔仙の屋敷の庭園には、海のように広い人工の池が造られていた。
夜更けの静寂の中、その水面を滑るように進む小さな木舟の上に、俺と親友の月酔仙は並んで腰を下ろしていた。
澄み切った夜空には満月がぽっかりと浮かび、鏡のような水面にその美しい姿を落としている。
俺は周囲に人目がないことを確認すると、宮廷で纏っていた『紅月仙』としての深い皺の刻まれた老人の顔から、本来の百八十五センチの筋骨隆々としたおっさんの姿へと魔力を解いた。
だが、この柔な木舟に乗るという行為は、俺にとって非常に神経をすり減らす苦行でもあった。
自身の内側に圧縮された数百万トンに及ぶ古代竜の超質量。
それを重力魔法で極限まで相殺し、小舟の浮力と完璧に釣り合わせなければならないからだ。
少しでも魔力のベクトルがブレれば、この小舟は一瞬にして木端微塵に粉砕され、俺の身体は池の底深くまで突き抜けてめり込んでしまうだろう。
息を吸うだけでも慎重さを要求されるこの綱渡りのような状態だが、それでも親友と水入らずで酒を飲むこの風流な時間のためならば、労力を割く価値は十分にあった。
「……やれやれ。息の詰まるような一日でしたな」
月酔仙が、風雅な衣の袖を揺らして深く、長い溜息を吐き出した。
何代にもわたって皇帝の師を務め、国の行く末を占うキングメイカーとして宮廷に君臨し続ける彼だが、その長すぎる寿命ゆえに、最近では泥臭い政争にすっかり辟易しているようだった。
「ヨシュア殿。皇帝陛下が、また無茶な遷都の相談を持ち込んできましてな」
月酔仙が手元の瓢箪から、俺の持つ小さな木杯へと琥珀色の液体を注いでくれる。
「いっそのこと、ヨシュア殿が巨大な火龍の姿でこの宮廷に火を噴いて、あの権力亡者どもを更地ごと追い払ってくれませんかな?」
「よせや。俺を人間どもの面倒な政争に巻き込むな」
俺は苦笑しながら、紅泉郷の洞窟で数十年という時をかけて寝かせた極上のウイスキーを口に運んだ。
アルコールの強烈な刺激はすっかり丸くなり、焦がした樽の甘く芳醇な香りが鼻腔を抜けていく。
「お前さんが自分で撒いた種だろうが。それに、俺が暴れたらこの美味い酒を造る場所まで灰になっちまう」
「ふぉっふぉっふぉっ、それもそうですな。この酒が飲めなくなるのは、流石の私も御免被りたい」
月酔仙はからからと笑い、自身の杯を傾けた。
静かな水音だけが響く中、俺たちはしばらく無言のまま、水面に映る揺れる月を眺めていた。
かつて彼が、水面に映る月が美しすぎてそのまま仙術で水面に立ち、月を拾おうとしたという『月酔仙』の名の由来にもなった、あの白く輝く球体だ。
やがて、月酔仙がぽつりと、何処か遠くを見るような声で呟いた。
「……私は、あの月に触れてみたいのです」
俺は杯を持つ手を止め、隣に座る親友の横顔を見た。
「この血生臭く、泥臭い権力争いのない、遥か高みの静寂の海へ。……どれほど仙術の極みを尽くそうとも、あそこには決して手が届きませぬ。それゆえに、どうしようもなく惹かれるのですな」
彼の瞳には、老成した賢者としての翳りではなく、純粋な少年のように好奇心に満ちた熱い光が宿っていた。
その真っ直ぐな夢の吐露を聞いて、俺は少しだけ考え込み、やがてゆっくりと口を開いた。
「……月酔仙。俺の故郷のおとぎ話を聞く気はあるか?」
「おとぎ話、ですか?」
「ああ。俺がこの星に火龍として生まれ落ちる前の、遠い別の世界の話だ。……あそこには、月に触れた人間たちがいたんだよ」
俺の言葉に、月酔仙の細い目が大きく見開かれた。
「……月に、人間が? 仙術を持たぬ、ただの人がですか?」
「そうだ。仙術でも魔法でもねぇ。ただの『理』の積み重ねさ」
俺は重力魔法の制御に気を配りながら、前世の記憶の奥底に刻まれた、あの偉大な計画について語り始めた。
「俺の故郷の人間たちはな、莫大な火薬を詰め込んだ巨大な金属の筒――『ロケット』って言うんだが、それを作った。下から途方もない炎を噴き出して、その推進力だけで空の彼方、重力の壁をぶち抜いて天へと昇っていくんだ」
「火を噴く、筒……」
「ああ。空高く昇りきった後は、燃料が空になった下の筒を次々と切り離していく。身軽になりながら虚空の海を渡り……ついに、あの月に鉄の船を降ろしたんだよ」
「なんと……! 魔法の力も借りず、ただ火の力と金属の構造だけで、星の海を渡ったと申されるか!」
「アポロ計画って呼ばれる、バカみたいに金と執念をかけた人間たちの夢の結晶さ」
俺は杯のウイスキーを舐め、さらに言葉を続けた。
「月にはな、空気がないんだ。風も吹かないし、雨も降らない。だからこそ、そこに降り立った人間たちが刻んだ足跡は、何千年、何万年経っても、誰にも消されることなく永遠にそこに残り続けるんだよ」
俺がその事実を語り終えた時、月酔仙の身体は小刻みに震えていた。
彼の瞳には、これまでに見たことがないほどの狂熱と、抑えきれない知的好奇心の炎が燃え盛っていた。
「……素晴らしい。なんという雄大な、そして理にかなった術式でしょうか!」
月酔仙は小舟の上で立ち上がりそうになり、俺が慌てて重力魔法で舟のバランスを修正する羽目になった。
「仙術のような属人的な力ではなく、何万もの人間たちの叡智と物理の理を積み上げて、天へと至る箱舟を造り上げる……。ヨシュア殿! 私のような年寄りが、よもやこれほどの胸躍る夢を見ることになろうとは!」
それからの時間は、まさに熱狂そのものだった。
俺たちは小舟の上に寝転がり、夜空の月を見上げながら、夜明けまで語り明かした。
推進力や多段式の切り離しの構造、軌道計算の概念。
俺が前世の朧げな知識を話し、月酔仙はそれを自らの持つ古代の魔法演算の知識と照らし合わせながら、次々と新しい術式や構造のアイデアを口走った。
ただ純粋に、空の彼方へと思いを馳せる。
それは、長すぎる寿命を持て余していた俺にとっても、宮廷の毒に疲れ果てていた彼にとっても、奇跡のように輝かしい時間だった。
◆◆◆
あの日、小舟の上で語り明かした月見酒の夜からしばらく経った頃のことだ。
俺が屋敷の離れで漆黒のパイプ椅子に座って欠伸をしていると、月酔仙が嬉々とした顔で一つの丸い物体を抱えてやってきた。
「ヨシュア殿。ついに完成いたしましたぞ」
彼が俺の前の卓上に置いたのは、透き通るように美しい、大きな水晶玉だった。
「なんだこりゃ。新しい占いでも始めるのか?」
「いえいえ。ヨシュア殿から聞いたあの『ロケット』なる箱舟を飛ばすには、気が遠くなるほどの緻密な軌道計算と、星々の魔力波長を観測する目が必要不可欠です」
月酔仙は愛おしそうに水晶玉を撫でた。
「その膨大な演算を補助するために造り上げた、自律思考型の演算頭脳――私の分身にして新たな弟子ですな。私の若き日の思考回路をベースにしたのですが……少しばかり小うるさい文官のようになってしまいましてな。……黄龍、ご挨拶しなさい」
彼が水晶玉に魔力を流し込むと、内部に金色の光が渦巻き、明滅を始めた。
『――起動完了。魔力波長、安定。お初にお目にかかります。ヨシュア師父、私の演算能力が、師父の深遠なる目的に寄与できることを光栄に存じます』
水晶玉から響いてきたのは、堅苦しい響きを持った若者のような声だった。
「へっ、随分と礼儀正しいじゃねえか。よろしくな、黄龍。俺は細かい計算は大の苦手なんだ。こき使ってやるから覚悟しておけよ」
『はい。私のリソースが許す限り、いかなる命にもお応えいたしましょう』
こうして、後に俺の相棒となる人工知能、『黄龍』が誕生したのだ。
◆◆◆
それからの日々は、さらに忙しく、そして充実したものとなった。
月酔仙は皇帝の資金を引き出して極秘の宇宙開発プロジェクトを立ち上げ、俺は紅泉郷で造らせた極上の酒を差し入れながら、彼らの研究を横で面白おかしく見守った。
俺は黄龍の端末の前に座り、彼にこの世界の歴史や、人間の生態、前世の記憶の数々をインプットしていく時間を楽しんだ。
黄龍は乾いた砂が水を吸い込むように知識を吸収し、時折その小うるさい文官のような口調で俺の雑な説明にツッコミを入れてくるようになった。
その度に俺は「やかましい」と笑いながら言い返し、月酔仙がそれを横で見ながら瓢箪の酒を飲んで微笑んでいる。
誰の血も流れない、純粋な知的好奇心とロマンだけを追い求める日々。
俺の悠久にも等しい千年以上の人生において、月酔仙と語り合い、黄龍と共に過ごしたこの日々こそが、間違いなく、最も満ち足りた、そして最も輝かしい黄金時代だった。




