第219話 完璧なフルコースの孤独と、満たしきれない「心の虚ろ」
離宮の厨房の片隅で、料理の師であるバルガスが作ってくれた出涸らしの骨ガラから、命の全てを使い切る「いただきます」の真理を学んでから数週間。
皇子レオン・ヴィータヴェン・ラノリアの料理技術は、単なる栄養補給の域を完全に脱し、もはや宮廷の熟練料理人すらも凌駕する「神の領域」へと足を踏み入れつつあった。
自身の強大すぎる魔力回路の欠陥を補うための「燃料補給」から始まった食への探求は、今や他者の身体に巣食う欠損を見抜き、その「虚ろを満たすための救済」へと完全にシフトしている。
そして今日、レオンは厨房で一つの大きな恩返しを企てていた。
自分という欠陥だらけの存在を見捨てず、規格外の愛情と権力で今日まで守り育ててくれた父ユリアン、母エレノア。
そして誰よりも傍で料理の基礎から全てを叩き込んでくれたバルガスへ、自身の集大成とも言える「完璧なフルコース」を振る舞うことである。
「――よし、火加減は完璧だ。次はソースの乳化に入る」
皇宮の専用厨房で、レオンは一人、凄まじい熱気の中で立ち回っていた。
彼の動きには一切の無駄がない。レヴィーネから徹底的に叩き込まれたハニマル流闘術の足捌きで、巨大な調理台の間を滑るように移動していく。
ミスリル製の包丁を振るうその姿は、乱取り稽古で次々と敵をなぎ倒していく武術の達人のような洗練された美しさがあった。
レオンは、三人の対象者の身体にある「虚ろ」を事前に完璧に視認し、それぞれの欠損を埋めるための専用メニューを構築していた。
連日の予算会議で脳に重度の疲労を抱えている宰相ユリアンには、V&C商会が誇る物流ルートから厳選した最高級の「海竜の脳天肉」を使った、疲労回復と魔力補填に特化した極めて濃厚なテリーヌをメインにしたコースを。
女帝としての激務と、外交のプレッシャーで胃腸に微かな淀みが見えた母エレノアには、世界樹の朝露を隠し味に忍ばせ、極限まで消化を良くした「海鮮と夏野菜の冷製ジュレ」をメインにしたコースを。
そして、日々火の前に立ち続け、関節や筋肉に慢性的な疲労を蓄積させているバルガスには、コラーゲンとタンパク質の塊である「エンシェント・ボアの極厚ロースト・特製赤味噌ワインソース」をメインにしたコースを。
それぞれの体質、現在の疲労度、そして魔力の波長。
それら全てを計算し尽くし、食材の命を余すところなく使い切った、栄養学と魔法学の極致とも言える三つのフルコースである。
「完成だ。これなら、お父様たちの虚ろを完全に、一滴の淀みもなく消し去ることができるはずだ」
レオンは、美しく盛り付けられた皿の数々を見下ろし、確かな手応えと共に頷いた。
すぐさま、冷めないうちに保温機能のついた配膳のワゴンを押し、それぞれの居室へと向かう。
◆◆◆
最初に訪れたのは、父である宰相ユリアンの執務室だった。
「おや、レオ。これは……素晴らしい香りだ。君が作ってくれたのかい?」
書類の山に埋もれていたユリアンは、運ばれてきたテリーヌを見るなり、疲労の色が濃かった顔をパッと輝かせた。
「はい、お父様。脳の疲労を回復させる特別な成分を濃縮してあります。さあ、冷めないうちに」
「ありがとう。ちょうど頭が回らなくなっていたところだ。……いただきます」
ユリアンは銀のフォークを手に取り、美しく切り分けられたテリーヌを一口食べた。
途端に、彼の見開かれた目から驚きの色が漏れる。
「……信じられない。口の中で海竜の濃厚な旨味が弾けた直後、スーッと霧が晴れるように頭の中がクリアになっていく。レオ、君の腕は本当に宮廷一かもしれないね」
ユリアンは嬉しそうに微笑み、再び手元の書類に目を落としながら、静かに、そして確実に皿を空にしていった。
レオンは、その様子をじっと見つめながら、自身の瞳に魔力を集中させた。
視界が切り替わる。
ユリアンの頭部に渦巻いていた黒い「虚ろ」が、テリーヌの圧倒的な栄養価と魔力によって、みるみるうちに塗り潰され、物理的な欠損は完全に修復されていった。
(……よし。完璧だ)
レオンは一礼して執務室を辞し、次は母エレノアの待つ女帝のサロンへ、そして最後に厨房のバルガスのもとへと向かった。
エレノアも、バルガスも、レオンの作った完璧な料理に舌鼓を打ち、惜しみない賛辞を送ってくれた。
そしてレオンの目論見通り、彼らの身体に巣食っていた「虚ろ」は、計算通りに、物理的・魔術的には完全に満たされたのである。
大成功だ。誰もが喜び、誰もが健康になった。
己の料理がもたらした完璧な結果に、レオンは深い満足感を得るはずだった。
……しかし。
「……おかしい」
全ての下膳を終え、一人静まり返った厨房に戻ってきたレオンは、微かな違和感に首を傾げていた。
「栄養は完璧に補給された。魔力も満ちた。お父様もお母様も、あんなに喜んでくれたのに……どうして、あんなに『静か』だったんだろう」
レオンの脳裏に焼き付いているのは、彼らが食事をしている最中の「虚ろ」の消え方だった。
確かに、物理的な欠損は完璧に埋まった。
だが、それはまるで、乾いたスポンジが機械的に水を吸い上げたような、無機質で静かな回復だったのだ。
レオンが求めていたのは、もっと別のものだった。
かつて、自分が絶望の淵にいた深夜の厨房で、父ユリアンと隠れるようにして食べた、あの簡素な「卵かけご飯」。
あるいは、バルガスが作ってくれた、端材をぶち込んだだけの泥臭い「賄いの白湯スープ」。
あの一杯を食べた時にレオンの魂を強く揺さぶった、あの爆発するような熱気と、身体の芯から燃え上がるような強烈な「生命力」が、今日の完璧なフルコースには決定的に欠けていたのである。
(僕の料理の腕が足りないのか? いや、違う。味も栄養も、今日作ったものの方が何百倍も上だったはずだ)
レオンは調理台の前に立ち尽くし、ギリッと唇を噛んだ。
(お父様は、書類から目を離さずに一人でテリーヌを食べていた。お母様は、広すぎるサロンのテーブルで一人、優雅にジュレをすくっていた。師匠も、僕という皇子の前で、かしこまりながらローストを咀嚼していた……)
孤高。孤独。そして静寂。
どれほど完璧な料理であろうと、それは一人で、黙々と胃袋に流し込むだけの「高級な燃料補給」の域を出ていなかったのだ。
それはまるで、観客が一人もいない対戦相手すら存在しない場所で、ひたすらに美しい武術の型を見せているようなもの。
そこには、人と人が交わることで生まれる「熱狂」も「交歓」も存在しない。
「……一人で食べる完璧なコース料理じゃ、心の奥底にある本当の『虚ろ』は、満たしきれないんだ」
レオンの口から、無意識のうちにその言葉がこぼれ落ちた。
人間は、ただ栄養と魔力だけで生きている機械ではない。
喜びを分かち合い、「美味しいね」と笑い合い、「これは熱いぞ」と注意し合う。
その『繋がり』という名の熱量こそが、料理をただの物質から「救済の魔法」へと昇華させる最大の触媒だったのだ。
(栄養だけじゃない。心を満たすための、圧倒的な『熱狂』と『共有』が必要なんだ。……それぞれの皿を取り分けるコース料理じゃダメだ。全員が、身分も立場も忘れて、一つの大きな場所に集まらなきゃいけないんだ!)
レオンの瞳に、再び狂気じみた、しかし先ほどよりも遥かに温かく、力強い光が宿った。
「大きな、一つの器。全ての具材の命が溶け出し、混ざり合い、それを全員でつつき合う料理……」
レオンは、厨房の奥に片付けられていた、百人分ほどのスープを一度に煮込むことができる、特大のずん胴鍋を睨みつけた。
「……鍋だ。コースじゃない。あり合わせの端材でもいい、僕が最高の出汁を引く。そして、みんなをこの厨房に呼び集めて、一つの鍋を囲ませるんだ!」
完璧な孤食の限界を知った天才児は、ついに一つの真理――「共食による口福の相乗効果」へと手を伸ばそうとしていた。
そしてそれは、かつてレヴィーネとミリアが世界を平定し、一つにまとめるために用いた最強の魔法、「ちゃんこ」という名の巨大な渦へと、彼自身が自覚のないままに辿り着こうとしている瞬間でもあった。




