第220話 一つの大鍋がもたらす熱狂と、口福の相乗効果
完璧に計算し尽くされたフルコースがもたらした「孤食の限界」と「静寂」。
それを痛感したレオン・ヴィータヴェン・ラノリアは、一人静まり返った厨房の奥に鎮座していた、特大のずん胴鍋を調理台の中央へと引きずり出した。
それは、宮廷の宴などで数百人分のスープを一度に仕込むための、文字通り巨大な鉄の器であった。
大人の男が両手を広げても抱えきれないほどの威容を誇るその鍋を前に、レオンの瞳には、先ほどまでの洗練されたコース料理を作っていた時とは全く異なる、野生味を帯びた闘志が燃え上がっていた。
「綺麗に取り分けられた個人用の皿じゃダメなんだ。全員をこの一つの鍋に巻き込んで、身分も立場も忘れるような、熱狂の渦を作り上げる!」
レオンが巨大なずん胴鍋に張ったのは、先日バルガスから伝授された「いただきます」の精神――ワイバーンの出涸らしの骨ガラから、極限の強火で髄の髄まで叩き出した、濃厚で荒々しい特製の白湯スープである。
そこに、V&C商会が誇るトヨノクニ産の三年熟成赤味噌と、アリス乳業から届いたばかりの特製濃厚豆乳を惜しげもなく投入し、強烈なコクとまろやかさをスープの根底に敷き詰める。
「具材は……完璧な形に切り揃える必要なんてない。あり合わせのもの、不揃いな端材で十分だ!」
レオンは、先ほどのフルコース作りで余った野菜の切れ端や、形がいびつでハネられた根菜類、そして安価だが旨味の強い魔獣の細切れ肉やスジ肉を、ドワーフ謹製の包丁で次々と荒削りに切り飛ばし、大鍋へと放り込んでいく。
さらに、山の恵みである多種多様なキノコをたっぷりと裂いて入れ、最後に味のつなぎとして、大量のすりおろしニンニクと黄金生姜をぶち込む。
乱雑なように見えるが、レオンの瞳と手は味・香り・滋養、全てのバランスを危うげなく縫い合わせていた。
「いけっ!」
レオンが魔導コンロの火力を最大まで引き上げる。
ゴオォォォォォッ!!
大鍋の中で、赤味噌と豆乳のスープがマグマのようにボコボコと沸き立つ。
ニンニクと生姜の暴力的なまでの香りが、味噌の匂いと混ざり合い、厨房という枠を軽々と超え、深夜の離宮全体へと強烈なアピールを放ち始めた。
「……な、なんだ、この胃袋を直接殴りつけてくるような匂いは!」
たまらず厨房に飛び込んできたのは、夜間警備にあたっていた近衛騎士たちだった。
その後ろからは、「お腹が空いて眠れなくて……」と目をこする侍女のアンナや、片付けのために戻ってきたバルガスと厨房のスタッフたち。
さらには、その尋常ではない匂いにつられたのか、寝巻きの上にガウンを羽織っただけの父ユリアンと母エレノアまでもが、フラフラと厨房に姿を現したのだ。
「おや、レオ。先ほど素晴らしいテリーヌをいただいたばかりだというのに、私の胃袋がこの匂いを嗅いで『まだ入る』と騒いでいるのだが……これは一体?」
腹の底から湧き上がるような食欲に戸惑うユリアンに、レオンは巨大なずん胴鍋の前に仁王立ちし、集まった三十人近い面々に向かって高らかに宣言した。
「お父様、お母様。それに皆さんも、ちょうどよかったです! 今から、ここで夜食にします! 身分も、立場も、作法も、今は全て忘れてください! 皆でこの一つの鍋をつついて、腹一杯食べるんです!」
その言葉に、近衛騎士や侍女のアンナたちは一斉に青ざめた。
「で、殿下! いくらなんでも、我々のような下々の者が、女帝陛下や宰相閣下、ましてや皇子であられる殿下と同じ鍋をつつくなど、不敬にも程があります!」
「そうです! せめて、私たちが取り分けて、別の部屋で……」
慌てて辞退しようとする彼らの声を、ピシャリと遮ったのは、他でもない第二代女帝エレノアだった。
「レオンが『身分を忘れろ』と言っているのです。それに……」
エレノアは、大鍋から立ち上る湯気を胸いっぱいに吸い込み、悪戯っぽく、しかし逆らうことの許されない絶対者の笑みを浮かべた。
「こんなに美味しそうな匂いを目の前にして、別室で一人寂しく食べるなんて、それこそ我慢できませんわ」
エレノアは自ら食器棚へと歩み寄り、木のお椀を取り出すと、大鍋の前に立った。
それにユリアンも苦笑しながら続き、バルガスが「陛下がそう仰るなら、今夜は無礼講だ」と、近衛騎士や侍女たちにお椀と柄杓を配り始める。
かくして、ヴィータヴェン・アクシス連邦皇国の最高権力者たちと、末端の使用人や護衛たちが、一つの大鍋を囲むという前代未聞の「大乱戦」が、深夜の厨房で幕を開けた。
「さあ、遠慮はいりません! どんどん食べてください!」
レオンの合図と共に、皆が一斉に鍋へと柄杓を伸ばす。
熱々のスープと共に、煮込まれた不揃いな肉や野菜がお椀に盛られ、それぞれの口へと運ばれていく。
「はふっ、はっふ……! あっつ! でも、美味いっ!」
「このお肉、形はバラバラなのに、スジの奥まで味が染みていて最高ですね……っ!」
「こらこら、お前たち、女帝陛下の前だぞ、少しは静かに……いや、このスープはたまらん! おい、そこの大根をこっちにも回してくれ!」
最初は畏まっていた者たちも、あまりの美味さと、巨大な鍋が放つ圧倒的な熱量に当てられ、理性のタガが次々と外れていった。
額に汗を浮かべ、ハフハフと息を吐きながら、誰もが夢中で鍋をつつく。
隣の者が食べている具材が美味しそうに見えて、「それ、少しちょうだい」と声をかける。
熱々の豆腐を口に入れてむせた侍女を、近衛騎士が笑いながら背中を叩く。
ユリアンとエレノアも、気取ったマナーなど完全に忘れ去り、フーフーと息を吹きかけながら、楽しそうにお椀を空にしてはおかわりを求めていた。
「美味しいわね、ユリアン」
「ああ。レオのテリーヌも絶品だったが、皆でこうして食べる熱い鍋も、また格別だよ」
厨房は、熱気と、笑い声と、食器が触れ合う活気ある音で満たされていた。
レオンは、その喧騒の輪の少し外側に立ち、自身の瞳に魔力を集中させた。
視界が切り替わり、彼らの身体にある「虚ろ」の様子が浮かび上がる。
その光景を見た瞬間、レオンは雷に打たれたように息を呑んだ。
「……すごい」
先ほどの完璧なフルコースを食べた時の「静かな回復」とは、全く次元が違った。
ただ栄養が補給され、物理的な欠損が埋まるだけではない。
皆が「美味しいね」と笑い合うたびに。
熱い鍋を囲んで、同じ熱量を共有するたびに。
彼らの身体の底から、キラキラと輝くような圧倒的な「生命の光」が爆発的に湧き上がる。
残っていた微かな「心の虚ろ」までもを、跡形もなく完全に吹き飛ばしていくのだ。
(栄養の数値だけじゃない。魔力の純度だけでもない。……『繋がり』と『笑顔』が交換されることで生まれる『幸福』こそが、虚ろを埋める最大のスパイスだったんだ!)
一人で食べる完璧な料理は、ただの「燃料」だ。
だが、こうして一つの鍋を皆で囲み、熱を分かち合うことで、料理は初めて関わる者全ての魂を救済する「魔法」へと昇華される。
これこそが、かつて世界を一つにまとめ上げたレヴィーネとミリアの最強の武器「ちゃんこ」の、真の力なのだ。
レオンはこの時、理屈ではなく魂で完全に理解したのである。
「殿下! 殿下も突っ立っていないで、早く食べないと具がなくなってしまいますよ!」
汗だくになったアンナが、笑顔でレオンに手招きをする。バルガスも、お玉を振りかざして豪快に笑っている。
「うん、今行くよ!」
レオンは自身のお椀を手に取り、熱狂の渦の中心へと飛び込んでいった。
自分自身の身体にあった「魔力回路の欠陥」による無数の虚ろも、皆と笑い合いながらこの熱い鍋を口にした瞬間、まるで幻だったかのように、完全に、そして永遠に消え去っていったような気がした。
己の欠陥を呪っていた孤独な天才児は、この日、一つの鍋を通して、世界を救済するための「真の理」へと、見事に辿り着いたのである。
彼が皇宮の厨房を飛び出し、世界のあらゆる「虚ろ」を埋めるための覇道へと歩み出すのは、もう間もなくのことであった。




