第218話 バルガスの賄いと「いただきます」の真理
「旬」の食材が持つ、季節特有の「虚ろ」を埋める力。
その真理に辿り着き、侍女アンナを救済してからのレオン・ヴィータヴェン・ラノリアは、まるで堰を切ったかのように、さらに一段深い狂気的なまでの料理研究へと没頭していった。
彼の頭脳は、父である宰相ユリアン譲りの冷徹で精密な分析力を持っている。
そして肉体は、祖母である初代女帝レヴィーネ譲りの規格外のパワーと、それをミリ単位で制御するコントロール力を併せ持つ。
最強の頭脳と最強の肉体。その二つが「料理」という一点に集約された時、離宮の厨房では毎日のように、錬金術の実験か、あるいは高度な魔法儀式と見紛うような光景が繰り広げられることとなった。
「――ふッ!!」
鋭い呼気と共に、レオンの手刀がまな板の上の巨大な塊に振り下ろされる。
ドガァァァンッ!! という空気を切り裂くような爆音と共に、極めて強固な『ワイバーンの大腿骨』が、見事なまでに真っ二つに叩き割られた。
通常であれば、ドワーフの専用工具を使わなければ表面に傷すらつけられない強靭な魔獣の骨だ。
だがレオンは、ハニマル流闘術の「浸透勁」を応用した魔力による身体強化を乗せ、己の「素手」でいとも容易くそれをやってのける。
「よし、骨髄の断面は完璧だ。これを香味野菜と一緒に極限まで煮出し、卵白を使って徹底的にアクと不純物を吸着させる……」
レオンの瞳には、一切の妥協を許さない求道者の光が宿っていた。
彼が今挑んでいるのは、究極の「黄金コンソメスープ」の抽出である。
対象の身体にある「虚ろ」を完璧に満たすためには、雑味や不純物は一切不要。
最高級の素材から、最も純度が高く、最も魔力密度の濃い「ほんの一滴」の旨味だけを極限まで絞り出す。
それこそが、今のレオンが辿り着いた「最も効率的で完璧な料理」の形だった。
数時間後。
魔導コンロの上で、徹底的な温度管理のもと静かに熱されていた大鍋から、琥珀色に輝く、宝石のように透き通ったスープが完成した。
小皿にすくい、一口だけ味見をする。
ワイバーンの野性味溢れる力強さが、一切の臭みを持たない洗練された圧倒的な旨味となって、脳髄を直接殴りつけてくるような完成度だった。
「……できた。これなら、どんなに深い魔力枯渇の『虚ろ』でも、一瞬で満たすことができる純度だ」
レオンは満足げに頷くと、小鍋に黄金のスープを移し替えた。
そして、振り返って、控えに立っていた侍女のアンナに指示を出した。
「アンナ。大鍋に残っている骨ガラと、出汁を取るのに使ったクズ野菜の山は、もう魔力も旨味も抜け切った『ゴミ』だ。悪いけれど、生ゴミとして廃棄しておいて」
「かしこまりました、殿下」
アンナが大鍋の取っ手に手を伸ばそうとした、その時だった。
「――お待ちください、殿下」
静かに、しかし有無を言わさぬ絶対的な重さを持った声が、厨房に響いた。
声の主は、真っ白なコックコートに身を包んだ大男。離宮の厨房を預かる宮廷料理長、バルガスだった。
彼はゆっくりと歩み寄ると、アンナの腕を優しく制止し、レオンが「ゴミ」と呼んだ大鍋の中身を覗き込んだ。
「バルガス師匠? どうかしましたか。その出涸らしの骨ガラに、何か問題でも?」
レオンが不思議そうに小首を傾げる。
彼の「虚ろを見る瞳」を通しても、その骨ガラや野菜の残骸からは、目ぼしい魔力や生命力の光はもう一切見えていなかった。
一番美味しい「上澄み」は、全て先ほどの黄金のコンソメスープとして抽出してしまった後だからだ。
魔法的な視点で見れば、それは間違いなく空っぽの残骸である。
「殿下。確かに、殿下が作られたコンソメは、宮廷料理の歴史を覆すほどの至高の芸術品です。……ですが」
バルガスは、大鍋の中から巨大なワイバーンの骨ガラをトングで拾い上げ、レオンの目の前に突きつけた。
「この骨ガラは、まだ『死んで』などおりません。殿下はこれをゴミとおっしゃいましたが、我々料理人からすれば、これはまだ極上の恵みを秘めた『宝の山』でございます」
「宝の山……? でも、もうそこからは、澄んだスープは取れませんよ。あとはもう、雑味やエグみしか残っていないはずだ」
レオンの当然の反論に、バルガスはふっと、どこか懐かしむような、そして後進を導くような深く柔らかい笑みを浮かべた。
かつて彼自身も、侯爵家の三男という貴族の身分にあった頃は、美しく整えられた「上澄み」の料理しか口にしてこなかった。
だが、料理の道へ飛び込み、数多の食材の「命」と向き合ってきたからこそ、知っている真理がある。
「澄んだスープだけが、料理ではありません。……殿下、少しお時間をいただけますか。我々厨房の『賄い(まかない)』というものをお見せいたしましょう」
バルガスはそう言うと、自らエプロンの紐をキツく締め直し、調理台の前に立った。
そして、レオンが捨てようとしたワイバーンの骨ガラを、巨大な肉叩きでさらに細かく砕き始めたのだ。
「いいですか、殿下。コンソメのように静かに煮出すのではなく、今度は強火で、骨の髄の髄までを徹底的に叩き出すように、グラグラと煮えたぎらせるのです」
大鍋の下の魔導コンロが、最大火力で暴力的な炎を噴き上げる。
沸騰する湯の中で、砕かれた骨同士が激しくぶつかり合い、残っていたゼラチン質と髄液が溶け出していく。
先ほどまで透明だったお湯は、みるみるうちに白濁し、濃厚な乳白色のスープへと姿を変えていった。
「そして、殿下が『クズ』と呼んだ野菜の切れ端や、剥いた皮。これらには、実の部分よりも強い土の香りと、過酷な自然を生き抜くための野性味溢れる複雑な栄養が詰まっています。これを細かく刻んで、特製の味噌と一緒にごま油で炒め合わせるのです」
ジュワァァァッ!! という食欲を暴力的に煽る音と共に、焦げた味噌とごま油、そして野菜の端材が放つ香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がった。
それは、レオンが作っていた洗練されたコンソメとは真逆の、泥臭く、荒々しく、しかし圧倒的な「生」の匂いだった。
「さあ、完成です。これが我々厨房の人間が、過酷な労働を乗り切るためのエネルギー源……『特製・白湯スープと、端材の味噌炒め』でございます」
バルガスが差し出した木のお椀を受け取り、レオンはゴクリと唾を飲み込んだ。
白く濁ったスープ。見栄えは決して良くない。
だが、一口飲んだ瞬間、レオンは雷に打たれたように立ち尽くした。
「――っ!!」
濃厚。あまりにも濃厚だ。
洗練された旨味ではない。
骨の奥底から絞り出されたような、暴力的なまでの生命力が、ドロドロのスープとなって胃の腑に流れ込んでくる。
端材の味噌炒めもそうだ。
皮の硬い食感や、根菜の切れ端の土臭さが、味噌の深いコクと合わさることで、噛み締めるほどに強烈な「食べている」という実感と満足感を脳に直接叩き込んでくる。
(なんだ、これ……! コンソメみたいな純粋な魔力はない。僕の『虚ろを見る瞳』でも数値化できなかったのに……僕の身体の底にある『虚ろ』が、まるで大地から直接、強引に栄養を吸い上げているみたいに、力強く満たされていく……!)
レオンは夢中で、お椀の中身を胃に流し込んだ。
美しい上澄みだけを求めていた自分の料理が、いかに表面的な「綺麗事」であったかを、その泥臭い一杯が強烈な衝撃となって教えてくれたのだ。
「美味しいです……。すごく、美味しい」
空になったお椀を両手で握りしめ、レオンは呆然と呟いた。
「殿下は、ご自身の『虚ろを見る瞳』と、完璧な計算能力を過信しすぎておられました。最も効率よく、最も純度の高い栄養だけを抽出しようとするあまり……食材の『命』を、ただの燃料カートリッジか魔法石のように扱ってしまっていたのです」
バルガスは、空になった大鍋を優しく、愛おしむように撫でた。
「命を頂くということは、その全てを使い切るということです。美しい上澄みを取った後には、骨の髄までしゃぶり尽くす泥臭さがある。……我々はそれを『いただきます』という言葉に込めて、日々火の前に立っているのです」
いただきます。
その言葉の真の重みが、レオンの心にズシリと響いた。
自分はなんて傲慢だったのだろう。自分が忌み嫌っていた「他者の痛みを知らず、贅沢を貪るだけの貴族たち」と、今の自分は何が違うというのか。
美味しいところだけを搾取し、残りをゴミと切り捨てる。それは、上に立つ者として、次期皇帝として、絶対にやってはならないことだった。
(……僕は、全てを統べる者になるんだ。だとしたら、綺麗なものだけを見ていちゃダメだ。泥臭いもの、捨てられそうになっているもの……その全てを救い上げ、生かし切る『度量』を持たなければ)
レオンは深く、深く、バルガスに向かって頭を下げた。
「バルガス師匠。……僕が間違っていました。命への敬意が、圧倒的に足りていませんでした」
「気づいていただけて何よりです、ちいさな一番弟子殿」
バルガスは、レオンのプラチナブロンドの頭を、大きな手でワシャワシャと優しく撫でた。
「さあ、賄いの時間はこれからが本番です。殿下も、もう少し端材の炒め物を召し上がりますか?」
「はい! ……あ、あの、バルガス師匠! もしよければ、僕にもその『白湯スープ』の火加減と、端材のエコな切り方を教えていただけませんか!?」
「はっはっは! もちろんですとも!」
この日を境に、レオンの料理は劇的な進化を遂げた。
洗練された美しさだけでなく、食材の命を極限まで使い切る泥臭さと力強さ。エコノミーであり、エコロジーであるという「大衆を救うための食の在り方」。
後に「僕の目の届く場所で飢えるなど、絶対に許さない」という強固な意志で世界を変革する美食帝の治世の理念。
それは、この夜、厨房の片隅で食べた一杯の濁ったスープから、確かな産声を上げたのである。




