第217話 栄養バーの進化と、「旬」が埋める季節の虚ろ
ヴィータヴェン・アクシス連邦皇国の離宮にある厨房は、皇子レオン・ヴィータヴェン・ラノリアにとって、今や第二の自室であり、己の限界に挑むための最前線の「戦場」と化していた。
かつて、自身の未発達な魔力回路が引き起こす「魔力的飢餓」をやり過ごすため、周囲の大人たちが用意した無味乾燥な栄養バーを嫌々かじっていた少年の姿はもうない。
自身の瞳に「虚ろ」を見る能力が覚醒したことで、レオンは完全に「作る側」へと回っていた。
己の身体を実験台にし、足りない栄養素を完璧に逆算して生み出された「特製手作り栄養バー」。それは既に、味も栄養価も完成の域に達していた。
だが、レオンの飽くなき探求心は、そこに留まることを決して良しとしなかった。
「……よし。エンバクと木の実をベースにした基本の補給食は、これで完璧だ。だが、これだけでは毎日の過酷な鍛錬の合間に食べるには、少しばかり『遊び』が足りないな」
深夜の厨房。レオンは巨大な大理石の調理台に向かい、腕組みをして唸っていた。
彼の視線の先には、数え切れないほどの試作品が山のように積まれている。
祖母である初代女帝、レヴィーネから直接叩き込まれている「ハニマル流闘術」。
その過酷なトレーニングで失われる莫大なカロリーと魔力を補うためには、単なる効率の追求だけでなく、疲労した脳にダイレクトに幸福感を与える「究極の甘味」が必要だと、レオンは直感していたのだ。
「強烈な疲労を吹き飛ばす、脳髄に響くような圧倒的な甘さ。それでいて、胃に重くもたれず、瞬時に魔力へと変換される極上のスイーツ……。そうだ、栄養バーの進化系として、それを開発しよう」
レオンは小さなエプロンの紐をキツく締め直し、再び調理台へと向かった。
それからの数日間、レオンは狂ったようにスイーツ作りに没頭した。
V&C商会の広大な物流網を駆使して集められた希少なスパイス。
トヨノクニの豊穣慈愛講から届いた最高級の和三盆。
そして、アリス乳業が誇る、神牛の乳から作られた極上の発酵バターと濃厚な生クリーム。
それらの国宝級の素材を、レオンは自身の規格外の身体能力と、繊細な魔力コントロールで完璧に調合していく。
生地を練る動きは、まるで巨大な魔獣を抑え込む武術の型のように力強く、かつ精密だ。
メレンゲを泡立てるホイッパーは、常人の目には止まらないほどの速度で回転し、ボウルの中に白く輝く雲を作り出していく。
その様子を厨房の奥から見守っていた宮廷料理長バルガスは、深い感嘆の息を漏らした。
侯爵家の三男という貴族の地位を捨ててまで料理の道に生きたバルガスにとって、食材への探求に身を焦がすこの幼き皇子は、理想の体現者だった。
(……素晴らしい集中力だ。かつて泥水のようなペーストを飲まされていた殿下が、ご自身の力で『食の喜び』を切り拓いておられる。我々料理人にとって、これほど誇らしいことはない)
バルガスは、ちいさな一番弟子の背中を、まるで我が子を見るような温かい眼差しで見守り続けた。
「バルガス師匠! 第三試作型の『魔力濃縮パウンドケーキ』、焼き上がりました!」
魔導オーブンから取り出した熱々のケーキを素早く切り分け、レオンはバルガスに差し出した。
「おお、これは……! 口に入れた瞬間、発酵バターの濃厚な香りが爆発し、まるで全身の細胞が歓喜の声を上げるようです! 殿下、これならば……」
バルガスが絶賛する横で、レオンは自身の身体の「虚ろ」を確認した。
確かに、カロリーと魔力は完璧に補充され、丹田の周りにあった細かな虚ろは綺麗に消え去っている。
だが、レオンの表情は決して晴れなかった。
「……違います。確かに燃料としては最高ですが、これではただの『すごく美味しい栄養の塊』です。僕が求めているのは、もっとこう……食べた人間の魂を震わせ、季節の移ろいすらも忘れさせるような、心を満たす究極の……」
レオンがぶつぶつと呟きながら、次なるレシピの構築に入ろうとした、その時だった。
「失礼いたします、レオン殿下。明日のご予定の確認に……っ、あ……」
厨房の重厚な扉を開けて入ってきたのは、レオンの身の回りの世話を専属で担当している若い侍女、アンナだった。
だが、彼女の様子が明らかにおかしい。
足取りはおぼつかず、顔面は蒼白。額にはじっとりと脂汗が浮かび、ひゅぅ、ひゅぅと荒い息を吐いている。
「アンナ!? どうしたんだ、顔色がすごく悪いぞ!」
レオンは瞬時に調理台から飛び出し、床に崩れ落ちそうになったアンナの身体を、間一髪で抱きとめた。
「も、申し訳ありません、殿下……。少し、目眩が……」
「喋らなくていい。すぐにそこの椅子に座って」
アンナを厨房の椅子に座らせ、レオンはすぐさま自身の瞳に魔力を集中させた。
視界が切り替わり、相手の生命力や魔力の欠損状態を視覚化する「虚ろ」の能力が発動する。
アンナの身体を見た瞬間、レオンは息を呑んだ。
彼女の胃の腑から腸にかけて、どんぐりほどの大きさの、どす黒い「虚ろ」がいくつも連なって点在していたのだ。
それは、魔力枯渇による単なる空腹や、過労による肉体的な損傷とは明らかに異質の、じっとりと冷たく、それでいて熱を帯びているような、不快な淀みだった。
(なんだ、この虚ろは……? 栄養不足でも、疲労でもない。もっと根本的な、身体の『芯』のバランスが崩れているような……)
今は夏の終わり。ヴィータヴェン領ほどではないにせよ、皇都の夏は過酷だ。
厳しい残暑と、夜の急激な冷え込み。それに加えて、皇子であるレオンの世話という、絶対に失敗の許されない激務。
それらが彼女の自律神経を静かに、しかし確実に蝕んでいたのだ。
いわゆる、重度の夏バテと季節の変わり目による「体調不良」である。
「アンナ、これを食べて。僕が作った、最高の魔力濃縮パウンドケーキだ。カロリーも魔力も、これ一つで十分すぎるほど補給できるはずだから」
レオンは、先ほど完成したばかりの自信作を小皿に乗せ、アンナに差し出した。
「あ、ありがとうございます……。殿下の御手作りの品をいただけるなんて……」
アンナは震える手でフォークを持ち、ケーキを一口食べた。
途端に、彼女の顔に少しだけ血色が戻る。特級の素材と魔力が織りなす暴力的なまでの栄養価が、彼女の肉体に強制的に活力を与えたのだ。
「……美味しいです。身体の奥から、無理やりにでも力が湧いてくるような……」
「よかった。これで虚ろも……」
だが、レオンの瞳に映る「虚ろ」は、完全には消え去っていなかった。
確かに、カロリーと魔力で強引に上書きされたことで、全体的な淀みは薄くなっている。
しかし、胃の奥底にあるあの「冷たく湿ったような虚ろ」の芯は、ケーキの濃厚なバターや砂糖の力に反発するように、依然としてそこに居座り続けていたのだ。
(ダメだ。万能栄養食じゃ、あの虚ろは埋めきれない!)
レオンはギリッと唇を噛んだ。
カロリーが足りないわけではない。魔力が足りないわけでもない。
今の彼女の身体が本当に求めているものは、暴力的なエネルギーの塊などではなく、もっと別の、根本的な救済だ。
「……アンナ。君の身体は今、熱を持て余しているのに、胃腸は冷え切っている。そして、濃厚な食べ物を消化するだけの力を失っているんだ」
レオンはアンナの前に膝をつき、真剣な眼差しで語りかけた。
「夏バテだ。季節の変わり目の激しい寒暖差に、身体が適応しきれずに悲鳴を上げているんだ。……待っていて。僕が必ず、君のその『季節の虚ろ』を完全に消し去るものを作るから」
レオンは弾かれたように立ち上がり、厨房の奥にある巨大な食材庫へと駆け込んだ。
万能の栄養食が通じないなら、どうすればいい?
人間の身体が自然環境の変化によってダメージを受けるのなら、それを癒すのもまた、同じ自然が育んだ力であるはずだ。
(季節の移ろいによって生じる特有の『虚ろ』には……その季節の環境を生き抜き、最も力を蓄えた食材こそが、最高の特効薬になるはずだ!)
レオンの頭の中で、一つの真理が雷のように閃いた。
彼が食材庫の奥、特別な魔法冷却庫から取り出したのは、V&C商会が南方の温暖な領地から特別に取り寄せた、夏の終わりの宝石――『太陽の蜜桃』と『星降るマスカット』だった。
強烈な日差しをたっぷりと浴びて限界まで甘味を蓄えた桃と、涼やかな夜風に吹かれて爽やかな酸味を閉じ込めたマスカット。
まさに、夏の熱気と秋の涼しさを同時に内包した、今この瞬間しか味わえない「旬」の極みである。
「これだ。これなら、彼女の狂った自律神経を優しく整え、冷えた胃腸に負担をかけずに、失われた水分とミネラル、そして『季節の力』を直接送り込める!」
レオンは目にも留まらぬ包丁捌きでフルーツの皮を剥き、美しい果肉を切り出していく。
濃厚なケーキの生地は使わない。胃に負担をかけるバターや生クリームも極力排する。
ベースにするのは、アリス乳業から届いた新鮮で酸味のあるヨーグルトだ。
そこに、微量の蜂蜜とレモン果汁を加えてさらに爽やかさを引き出し、冷やし固めて極上のブランマンジェを作る。
そして、その純白のキャンバスの上に、切り出した『太陽の蜜桃』と『星降るマスカット』を、まるで宝石を散りばめるように美しく飾り付けた。
仕上げに、宮廷菜園で摘んだミントの葉を一枚添える。
「アンナ、これを食べてみて。ゆっくりでいいから」
完成したばかりの、見た目にも涼やかな「旬のフルーツ・ブランマンジェ」。
レオンが差し出した冷たい器を受け取り、アンナはそっとスプーンを入れた。
ぷるん、としたヨーグルトのブランマンジェと共に、みずみずしい桃とマスカットが口の中に運ばれる。
「……あ……っ」
一口食べた瞬間、アンナの瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
甘い。けれど、先ほどのケーキのような暴力的な甘さではない。
太陽の光をいっぱいに浴びた桃の果汁が、乾ききった身体の隅々にまで優しく染み渡っていく。
マスカットの弾けるような酸味が、もやもやと重かった頭をスッキリと晴れ渡らせ、冷たいヨーグルトが、荒れていた胃の粘膜を優しく撫でるように包み込む。
それはまるで、夏の終わりの涼風が、熱を持った身体の中をスーッと吹き抜けていくような、極上の清涼感だった。
「美味しい……。すごく、美味しいです、殿下……。なんだか、身体の中のドロドロしたものが、全部綺麗に洗い流されていくみたいで……っ」
涙を流しながら、アンナは夢中でブランマンジェをすくって口に運んだ。
レオンは、その姿をじっと見つめながら、己の瞳に魔力を込めた。
見事だった。
万能の栄養バーやケーキでも消し去れなかった、アンナの胃腸に巣食っていたあの「季節の虚ろ」が。
旬の果物が持つ瑞々しい生命力に触れた瞬間、まるで朝日に溶ける霜のように、跡形もなく綺麗に消え去っていったのだ。
(勝った……!)
レオンは、心の中で力強くガッツポーズをした。
人間もまた、自然の一部だ。
どれほど強大な魔力で身体を強化しようと、どれほど完璧に栄養を計算しようと、季節の移ろいという巨大な理からは逃れられない。
だからこそ、その季節の過酷な環境を生き抜いて育んだ「旬」の食材には、どんな魔法薬にも勝る、特有の虚ろを埋める絶対的な力が宿っているのだ。
「薬膳と、旬の真理……。料理って、本当に奥が深いな」
空になった器を抱え、すっかり血色の良くなった安らかな笑顔で息をつくアンナを見て、レオンは深い充足感に包まれた。
ただの燃料補給ではない。
相手の身体と、その相手を取り巻く「環境」までをも見極め、最適な一皿を処方する。
後の世において、あらゆる病や飢餓を食で打ち払う「美食帝」の伝説。
その根幹を成す『旬の理』への到達が、この一杯の冷たいブランマンジェから見事に結実したのである。




