第215話 ただの燃料からの脱却、あるいは「ちいさな一番弟子」の誕生
深夜の厨房で、激務に疲弊した父ユリアンと共に「秘密の卵かけご飯」を食べてから、数年の月日が流れた。
少年期を迎えた皇子レオン・ヴィータヴェン・ラノリアの日常は、血の滲むような鍛錬と、己の身体との過酷な対話の連続であった。
「――シッ!!」
皇宮の奥に設けられた広大な修練場。
鋭い呼気と共に、レオンの振るう分厚い木剣が空を裂いた。
まだ幼さの残る小さな身体が踏み込んだ瞬間、足元の重厚な石畳がミシリと軋みを上げ、大気を震わせるほどの風圧が巻き起こる。
最強の血脈であるヴィータヴェンとガルディアから受け継いだその肉体は、祖母である初代女帝レヴィーネ直伝の「ハニマル流闘術」のスパルタ教育――もとい、愛に溢れた徹底的な武術指導によって、同年代の子供たちとは比較にならないほど強靭に鍛え上げられていた。
大の大人である近衛騎士ですら、今のレオンの木剣をまともに受け止めれば、数メートルは後方へと吹き飛ばされるだろう。
だが、どれほど外側を鋼のように鍛え上げようとも、依然として彼の肉体の内側には、生まれ持った致命的な「欠陥」が残ったままである。
身体の奥底、丹田に位置する無尽蔵の「魔力炉」と、全身の血管に沿うように張り巡らされた「魔力回路」。
その二つの接続が、成長した今でも極めて不安定なのだ。
(……くっ、またか!)
木剣に魔力を纏わせ、仮想敵に向けて強力な斬撃を放とうとした瞬間だった。
レオンの視界が、ふっとノイズが走ったように暗く明滅した。
回路が完全に直結していないがゆえに、不意に大きな魔力を引き出そうとすると、接続不良を起こした回路が一気に魔力を吸い上げ、唐突な「魔力的飢餓状態」に陥ってしまう。
胃袋が内側から雑巾のように急激に絞り上げられ、手足からスゥッと熱と力が抜け落ちていく。
視界の端が黒く歪み、立っていることすら困難になる強烈な目眩と寒気。
レオンは咄嗟に修練場の床に膝をつき、道着のポケットに手を突っ込んだ。
「はむっ、もぐ……っ」
取り出したのは、一本の短い棒状の携帯食。
それを躊躇うことなく口に放り込み、強く咀嚼して飲み込む。
瞬間、極限まで濃縮されたカロリーと甘み、そして上質な魔力が爆発的に胃の腑から広がり、干上がっていた回路を瞬時に潤した。
全身の血流がドクン、と大きな音を立てて再開し、奪われていた体温が急速に戻ってくる。
「……ふぅ。危なかった。今日の暴走は、少し規模が大きかったな」
すっかり血色の戻った顔で立ち上がったレオンの手には、食べかけの「特製栄養バー」が握られていた。
かつての彼は、この不定期に訪れる飢餓状態をやり過ごすため、周囲の大人たちが用意した無味乾燥な栄養バーや、泥水のようなペーストを、生きるための「燃料」として嫌々かじっていた。
しかし、今は違う。
彼が口にするそれらの補給食は、全て「レオン自身の手作り」に変わっていたのである。
◆◆◆
「……よし。さっきの武道鍛錬では、速筋の酷使と、接続不良による瞬間的な魔力枯渇が起きた。だから、失われたタンパク質とミネラルを最優先で補いつつ、魔力定着率の高い食材を組み込む必要がある」
修練を終えたその足で向かった離宮の厨房に、幼いながらも真剣な声が響き渡る。
踏み台に乗って巨大な大理石の調理台に向かっているのは、頭に真っ白な三角巾を巻き、小さなエプロンを身につけたレオンだ。
彼の手元には、数え切れないほどの食材と、精密な分量を量るための魔導計りが並べられている。
「新しい特製栄養バーのベースには、香ばしく煎ったエンバクと、魔力含有量の高いドライ・エルヴンフィグ(エルフの無花果)を多めに刻んで入れよう。繋ぎのヌガーには、トヨノクニのスズ様から送られてきた神牛乳を煮詰めた濃厚なキャラメルを……」
ブツブツと呟きながら、手際よく巨大なボウルの中で材料を混ぜ合わせていく。
その後ろでは、腕組みをした恰幅の良い大男が、うんうんと満足げに頷いていた。
真っ白なコックコートを着こなす彼こそが、離宮の厨房を預かる宮廷料理長、バルガスである。
「素晴らしい手際です、レオン殿下。ご自身の身体が今、どのような栄養素を欲しているか。それを完璧に理解し、逆算してレシピを組み立てておられる」
「ありがとうございます、バルガス師匠!」
レオンは、粉だらけになった顔をパッと輝かせて振り返った。
「まだまだバルガス師匠たちの足元にも及びませんが、最近はようやく、素材の『焦げる一歩手前の最高の香り』が分かるようになってきたんです」
「はっはっは! 私のような変わり者の貴族崩れが、殿下のような優秀なお弟子さんを持てるとは。我々厨房の人間は鼻が高うございますよ!」
バルガスをはじめとする厨房のスタッフたちは、皆一様に目を細め、ちいさな一番弟子を温かく見守っている。
かつてのレオンにとって、食事とは己の欠陥を埋め合わせるための、苦痛を伴う義務でしかなかった。
だが、激務の合間を縫って父ユリアンが作ってくれた、あの深夜の「卵かけご飯」の記憶が、彼を根底から変えたのだ。
(……食事は、ただ栄養を補給するためだけのものじゃない)
ボウルの中の粘り気のある生地を、天板に均等に広げながら、レオンは内心で強く反芻する。
(どうせ食べなきゃいけないなら、美味しく食べたい。……ううん、違う。僕は、お父様と二人で作ったような、あの温かくて、美味しくて、心がホッとするような料理を、いつでも自分で作れるようになりたいんだ)
自分が抱える「欠陥」を呪うのは、もうやめた。
魔力が枯渇しやすいなら、その分、最高に美味しくて効率の良い補給食を自分で作ればいいのだ。
その前向きな探求心が、レオンを「料理」という底なしの沼へと引きずり込んでいった。
そして何より、彼には最強の血脈ゆえの恐るべき集中力と分析力があった。
己の身体を実験台にし、「今、何が足りていないか」を極限まで突き詰めるうちに、彼は天才的な栄養学の知識と、それを形にする調理技術を凄まじい速度で吸収していったのである。
「バルガス師匠! 焼き上がりました!」
魔導オーブンから、甘く香ばしい匂いと共に、黄金色に焼き上がった巨大な一枚の栄養バーの板が取り出される。
レオンはそれをドワーフ謹製の包丁で素早くスティック状に切り分け、まだ湯気の立つ一本を手に取った。
「ふーっ、ふーっ……はむっ」
サクッ、という軽快な音の後に、キャラメルの濃厚な甘みと、無花果の甘酸っぱさ、そしてエンバクの香ばしさが口いっぱいに広がる。
咀嚼して飲み込むと、胃の腑からじんわりと温かい魔力が全身の回路へと染み渡っていくのがわかった。
単なる燃料ではない。
作った者の「美味しくなれ」という情熱と計算が込められた、極上の食事の味がした。
「……美味しい。これなら、激しい鍛錬の合間に食べても、絶対に口の中がパサパサしないし、魔力の回復効率も以前の二割増しです!」
「お見事です、殿下。これはV&C商会で商品として売り出しても、冒険者たちから注文が殺到する出来栄えですよ。見栄えばかりを気にするお歴々の貴族どもに、爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだ」
バルガスが痛快そうに笑いながら拍手喝采を送る中、レオンは照れくさそうに笑った。
生きるために嫌々飲んでいた泥水のような「燃料」は、今や彼自身の努力と探求によって、完璧な「美味しい手作りの補給食」へと昇華された。
自分の身体の声を聴き、それに最適な料理を処方する。
その「自分に今どんな栄養が必要か」を極限まで見極める訓練の積み重ねが、やがてレオンの瞳に、思いもよらない「ある変化」をもたらすことになる。
最強の身体能力と、最強の料理スキル。
二つの車輪が噛み合った時、後の世に「美食帝」として語り継がれる名君の真の能力が、ついに覚醒の時を迎えようとしていた。




