第214話 燃料補給の呪縛と、父と食べる深夜の卵かけご飯
幼少期に入り、レオン・ヴィータヴェン・ラノリアに明確な自我が芽生え始めた頃。
彼は、自分が他の子供たちとは決定的に違う「欠陥」を抱えていることを、誰よりも正確に、そして残酷なまでに自覚するようになっていた。
ヴィータヴェン、ガルディア、コーンフィールド、ラノリア。
大陸の頂点に立つ四つの最強の血脈を一身に受け継いだ天才児。
だが、その丹田に宿る強大すぎる魔力炉と、未成熟な魔力回路の不適合は、相変わらず不定期な「漏水(暴走)」を引き起こし、彼の身体から容赦なく魔力と生命力を奪い続けている。
結果として、レオンは常に腹を空かせていた。
底なしの空腹と、喉が焼け付くような、細胞の隅々が悲鳴を上げるような魔力の「渇き」。
それに耐え、生命を維持するためには、文字通り四六時中、何らかの形でカロリーと魔力を胃袋に詰め込み続けなければならない。
彼の小さなポケットには常に、宮廷料理長バルガスが心血を注いで開発した「特製栄養バー」がねじ込まれている。
栄養価の高い雑穀やドライフルーツを、魔力濃度の高い蜂蜜とヌガーでカチカチに固めた代物だ。少しでも体温の低下や目眩を感じれば、レオンはそれをかじり、無理やりにでも己の身体という名の『炉』にカロリーを焚べなければならなかった。
周囲の大人たちは、国を挙げてレオンのために最高の食材を集めてくれた。
宮廷料理長であるバルガスは、レオンの小さな胃袋に負担をかけず、かつ極限まで栄養を摂取できるよう、毎食、気が遠くなるような手間と時間をかけて豪華な料理をテーブルに並べてくれた。
だが、レオンにとってそれは、決して「喜び」ではなかった。
生きるために、暴走する魔力を埋め合わせるために、ひたすら胃に流し込むだけの果てしない作業。
いつ暴走するかわからない恐怖に怯えながら口を動かす食事は、いつしか楽しみではなく、ただの苦痛を伴う「燃料補給」へと成り下がっていたのである。
どれほど美しく、どれほど美味なる料理であろうと、味わう余裕などない。ただ生存の義務として咀嚼して飲み込むだけ。
食事の時間が来るたびに、レオンの心は泥のように重く沈んだ。
(……僕は、ただ飯を食い潰すだけの、壊れた魔力炉だ)
周囲の大人たちの過保護なまでの優しさと献身が、逆に己の不甲斐なさを鋭く浮き彫りにする。
天才、連邦皇国の希望と持て囃されながら、自分の身体一つ満足に制御できない情けなさ。
その強烈な自己嫌悪と罪悪感が、本来ならば活発であるはずのレオンの性格を、次第に内向的で物静かなものへと変えていった。
ある夜のことだった。
「……っ、はぁ、はぁ……」
広い寝台の上で、レオンはべっとりと脂汗をかきながら目を覚ました。
まただ。寝ている間に魔力回路が暴走し、激しい空腹と魔力枯渇が唐突に襲ってきたのだ。
胃袋が完全に空っぽになり、内側から自身の臓腑をギリギリと食い破ろうとするような強烈な飢餓感。指先から急速に熱が奪われ、視界がチカチカと明滅する。
レオンは震える手を伸ばし、枕元に常備してある栄養バーを掴み取った。
だが、それを口元に運び、乾いた唇に触れさせた瞬間、強烈な吐き気が込み上げてきた。
「……う、えっ……」
食べ飽きているーーいや、違う。身体が、心が、この無味乾燥な「燃料」をこれ以上詰め込まれることを、本能レベルで拒絶しているのだ。
しかし、何かを胃に入れなければ、最悪の場合、生命力ごと魔力に変換されて死に至る。
レオンは鉛のように重い身体を引きずって寝室を抜け出し、自身が暮らす離宮の、薄暗い厨房へと向かった。
深夜の厨房には、夜間勤務の料理人たちが気を利かせて用意してくれた夜食が、魔法保温器の中に美しく並べられていた。
最高級の魔獣肉から抽出した極上の黄金スープ、栄養満点の温野菜のピューレ、ふっくらと焼かれた白パン。
どれも、バルガスたちの途方もない愛情と、莫大な金がかかっている「燃料」だ。
だが、レオンはどうしても、それに食指を伸ばすことができなかった。
「……ごめんなさい……せっかく、作ってくれたのに……」
ポツリと、誰に言うでもなく呟いた言葉と共に、レオンの目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
情けない。食べなければいけないのに、食べたくない。
周りの大人たちにこれほどまでに迷惑と心配をかけ、貴重な食材を浪費し続けているのに、自分はただ我が儘に泣いているだけの、出来損ないの子供だ。
レオンが厨房の冷たい石畳の床にへたり込み、小さな膝を抱えて声を殺して泣きじゃくっていた、その時。
「どうしたんだい、レオ。こんな夜更けに」
静かな、しかしひどく温かい声が頭上から降ってきた。
弾かれたように顔を上げると、そこには、執務着のシャツの袖を無造作に捲り上げ、ひどく疲労したような、けれど底抜けに優しい微笑みを浮かべた父、ユリアンの姿があった。
「お父、様……」
王配にして、この巨大な連邦皇国の宰相。年度末の予算編成で連日深夜まで激務に追われているはずの父が、なぜここにいるのか。
驚きと、この上なく情けない姿を見られたという恥ずかしさで深く俯くレオンの前に、ユリアンは静かにしゃがみ込んだ。
「魔力枯渇かい? 夜食が用意されているようだが……食べたくない、という顔をしているね」
父の痛いほど的確な指摘に、レオンは堪えきれず、幼い胸の内にずっと抱え込んできたドロドロとした心情を、堰を切ったように吐露した。
「……僕、自分が嫌なんです。レヴィお祖母様やお母様みたいに強くもないし、お父様やミリアお祖母様みたいに頭もよくない。ただ欠陥だらけの身体で、みんなが作ってくれた高価なご飯を、味もわからずに燃料みたいに食べるだけの……迷惑な子供だから……っ」
しゃくり上げ、小さな肩を震わせるレオンの頭を、ユリアンの大きな手が、ぽん、ぽん、と優しく撫でた。
「レオ。子どもなんて、周りに迷惑かけてこそだよ」
ユリアンは、この世界で最も賢く冷徹な宰相としてではなく、ただ一人の父親として、柔らかく諭すように語りかけた。
「君が食べているものは、君が大きく育つために必要なものだ。だから、迷惑だなんて微塵も気にすることはないんだよ。今はまだ魔力回路が未熟なだけだ。君なら必ず、大きくなって自分の力を完璧に制御できるようになる。……そうしたら、その分、存分に私たちや国に恩返ししなさい。それでいいんだ」
「お父様……」
「それに、私もお腹が少しすいているところだ。仕事の区切りがついてね。……一緒になにか食べようか」
ユリアンは立ち上がり、厨房の保温器や食材棚を静かに物色し始めた。
「おや、保温器にご飯が残っているね。母上がラノリアから取り寄せた魔法米『タカノホマレ』だ。ふむ、冷蔵の魔法箱には、新鮮な魔鳥の卵もある……とすれば」
ユリアンは、二つの小さな茶碗に、ほかほかのタカノホマレをよそった。
そして、その中央に小さなくぼみを作り、新鮮な生卵をポンと割り入れる。純白の米の上で、黄金色に輝く黄身がプルプルと揺れた。
さらに、戸棚の奥から小さな小瓶を取り出す。
「母上のV&C商会と、ラノリアの職人たちが常に改良を続けている、旨味たっぷりの特製醤油だ。これを、ほんの少しだけ垂らして、よく混ぜるんだ」
カチャカチャと、ユリアンが箸で卵とご飯を混ぜ合わせる。
黄金色に輝く米粒から、醤油の焦げたような香ばしい匂いと、卵のまろやかな香りがふわりと立ち上った。
たったそれだけ。火すら使っていない、宮廷料理と呼ぶにはあまりにも簡素な代物だ。
「さあ、食べよう。……ただ、王配にして宰相たる私が、深夜に厨房でこういった手抜きのご飯を食べると外聞が悪いからね。一生懸命夜食を作ってくれたバルガスたちにも申し訳ない」
ユリアンは、悪戯っ子のように片目を瞑り、レオンの口元に人差し指を立てた。
「だから、これは私とレオだけの秘密だよ?」
「……はい」
レオンは、差し出された茶碗を受け取り、震える手で箸を持った。
黄金色に輝く、卵かけご飯。
一口、ゆっくりと口に運ぶ。
「――っ」
温かい。
タカノホマレの力強い甘み、卵の濃厚なコク、そして特製醤油の奥深い旨味が、口の中で見事な一体となって解けていく。
だが、何よりもレオンの魂を揺さぶったのは、栄養価や味そのものではなかった。
激務で疲弊しているはずの父が、自分のためだけに作ってくれたという、どうしようもなく温かい愛情。
その圧倒的な「熱量」が、昼間に義務として流し込んでいる豪華な料理のどれよりも、レオンの心に深く、優しく染み渡ったのだ。
「美味しいかい?」
「……はい。とっても、美味しいです」
レオンは、ポロポロと涙をこぼしながら、夢中で卵かけご飯をかき込んだ。
父と二人、深夜の厨房でこっそりと食べる、秘密のご飯。
そのたった一杯の卵かけご飯は、レオンの規格外の魔力暴走による「飢えと渇き」を物理的に満たすには、カロリーも魔力も少しばかり不足していたかもしれない。
けれども。
食事をただの燃料補給だと諦め、己を呪っていたレオンにとって、それは間違いなく、生まれて初めて心から「美味しく、楽しい」と感じられた、魂を救済するかけがえのない記憶となったのである。




