第188話 騒がしい食卓。世界中の英雄が、ただの「親バカ」になる場所。
処置を終え、綺麗になった赤ん坊が、ベビーベッドに寝かされた。
まだ目は開いていないけれど、握りしめた小さな拳は力強く、肌は透き通るように白い。
部屋の隅で、アリスがそっと、誰にも気づかれないようにベビーベッドに近づいた。
彼女は――「境界の存在」となり、不老の時を生きることになったわたしの親友は、赤ん坊の額にそっとキスを落とした。
「……はじめまして、赤ちゃん」
アリスは、ささやくような、けれど祈りのような声で言った。
「私はアリスおばちゃん……ううん、これからずっと、君と君の子孫を守り続ける『守り神』だよ」
彼女の指先から、淡い翠色の光が溢れ出し、赤ん坊を包み込む。
『ゆりかごの加護』。
どんな病も、怪我も弾く、最強の結界魔法。
「ようこそ、世界へ。……君の未来は、私が絶対に守るからね」
その誓いは、誰にも聞こえなかったかもしれない。
けれど、赤ん坊は安らかな寝息で、それに応えたように見えた。
「……よく頑張ったね、レヴィーネ」
分娩室に入ってきたアレクセイが、わたしの汗を拭いながら、震える声で言った。
彼の目には、涙が溢れている。
「ええ。……あなたも、お疲れ様」
わたしは、腕の中に戻された小さな命を見下ろした。
温かい。重い。
これが、命の重さ。
「……名前は、決めているんだろう?」
アレクセイが優しく尋ねた。
わたしは頷き、窓の外を見た。
雨上がりの空に、大きな虹がかかっている。
空と大地を繋ぐ、七色の橋。
わたしは思い出す。
かつて、わたしが実家に戻った時に出会った、病弱な少年。
わたしと同じように病に苦しみ、けれどわたしよりも早く、この世を去ってしまった「魂の兄弟」。
――ノア。
彼が生きられなかった未来。彼が見たかった世界。
それを、この子は全部背負って、健康な足で駆け抜けていくのだ。
過去と未来を繋ぐ。
人と人を繋ぐ。
わたしたちが作った「道」のように。
「……ええ。『エレノア』。……愛称は『ノア』」
わたしは、赤ん坊の頬に指を触れ、言霊を込めるように告げた。
「古代の言葉で、『光』や『松明』を意味する名。……そして、虹の架け橋の名を継ぐ子」
「エレノア……。いい名前だ。強くて、優しい響きだ」
アレクセイが、赤ん坊の手をそっと握る。
「ようこそ、エレノア。……この世界は、美味しくて、騒がしくて、最高に退屈しない場所よ」
わたしが語りかけると、赤ん坊――ノアは、まるで言葉を理解したかのように、ニカっと口を開けて笑った。
そして、わたしの人差し指を、その小さな手でギュッと握りしめた。
ギリギリギリ……。
「……っ」
指の骨がきしむほどの、強い力。
新生児とは思えない、圧倒的な握力だ。
あの神様が残していった「健やかに」という祝福が、遺憾なく発揮されている。
「……ふふ。握力も合格点ね」
わたしは痛みを堪えながら、心からの笑顔を浮かべた。
この握力なら大丈夫。
どんな運命も、どんな食材も、その手でしっかりと掴み取れるはずだ。
「おめでとう、レヴィちゃん!」
「おめでとうございます、レヴィーネ様!」
アリスとミリアが、涙ぐみながら覗き込んでくる。
扉の隙間からは、ソレンやノブナガ、マラグおじいさまたちが、我先にと中に入ろうとして揉み合っているのが見える。
「おおお! ワシのひ孫か! 筋肉はあるか!?」
「マラグ殿、押さないでくれ! 余が先に顔を見るのじゃ!」
「二人とも静かにしてください! 姉上がお疲れなんですから!」
彼らは赤ん坊の手を見て、一様に顔を見合わせた。
扇子でも、ダンベルでも、ツルハシでもない。
彼女が握りしめていたのは――「母親の指(最強の筋肉)」だった。
「……あ、素手か……」
全員が妙に納得した顔をして、賭けは引き分けとなったようだ。
騒がしくて、愛おしい仲間たち。
わたしの「悪役令嬢」としての物語は、ここで幕を下ろす。
けれど、これからは「母親」としての、もっと激しく、もっと楽しい物語が始まるのだ。
「さあ、ノア。……ご飯の時間よ」
わたしは、世界一幸せな重みを抱きしめた。
空には虹。
大地には道。
そして腕の中には、希望。
わたしたちの「大団円」は、ここからまた、新しい色で描かれていく。
◆◆◆
【第一部:それから数年後 ~世界一騒がしい食卓~】
「――だめえぇぇぇッ!! それはノアのぉぉぉッ!!」
ドガァァァァァァァァンッッ!!!!!
平和なはずの週末の朝。ヴィータヴェン・アクシス連邦皇国の皇城、そのダイニングルームの壁が、物理的に粉砕された。
舞い上がる粉塵。飛び散る瓦礫。
そして、その中心で仁王立ちしているのは、金髪碧眼の愛らしい少女――ではなく、小さな破壊神だった。
エレノア・ヴィータヴェン・ガルディア。
通称「ノア」。今年で五歳になる、我が国の第一皇女だ。
彼女の小さな手には、飴細工のようにひしゃげたミスリル製のスプーンが握られている。いや、握りしめすぎて指の形にめり込んでいる。
「……はぁ」
わたし、レヴィーネ・ヴィータヴェンは、読みかけの新聞(イリス編集・世界経済版)を置き、優雅に、しかし深く溜息をついた。
「ノア。……食事中に壁を壊してはいけませんと、何度言ったら分かりまして?」
「だってぇ! ソレンおじさまが、ノアの『からあげ』を横取りしようとしたんだもん!」
ノアが頬を膨らませて抗議する。その視線の先には、瓦礫の山から這い出してくる屈強な青年――弟のソレンがいた。
20歳になり、開拓旅団の団長として逞しく成長したソレンだが、五歳の姪っ子の一撃には敵わなかったらしい。
「い、痛ってぇ……。冗談だよノア、冗談……。ちょっとからかっただけじゃないか」
「食べ物の恨みは怖いのよ、ソレン。教育的指導として、瓦礫の撤去はあなたに任せますわよ」
わたしは弟をたしなめつつ、娘に向き直った。
「ノア。唐揚げを守る気概はよろしい。……ですが、力の加減を覚えなさい。スプーンを曲げるのは『幼児の嗜み』ですが、壁を砕くのは『工事』です。……我が家は毎日リフォームする予定はありませんのよ?」
「むぅ……。はい、お母様」
ノアがしょんぼりと変形したスプーンを見る。
その顔立ちは、夫のアレクセイに似て知的で整っているのに、中身と筋肉密度は完全にわたし(ヴィータヴェン家)のそれだ。神様の「健やかに」という祝福は、これでもかというほど効いているらしい。
「ははは! 元気でいいじゃないか。……ほらノア、新しいスプーンだよ。こっちはドワーフのガンテツ親方特製、オリハルコンとヒヒイロカネの合金製だから簡単には曲がらないぞ」
そこへ、エプロン姿のアレクセイが、湯気の立つ大皿を運んでくる。
かつての「氷の皇子」は今や、公務の合間に娘と料理を作ることを至上の喜びとする「親バカ王配」になっていた。
「パパありがとー! ……んッ! 硬い! これなら全力で握っても大丈夫!」
「おいおい、試すな試すな。……食事の前に、お客様が到着するぞ」
アレクセイが苦笑した瞬間、廊下の向こうから賑やかな声と足音が近づいてきた。
「おーい! レヴィちゃーん! ノアちゃーん! 来たよー!」
「ノブナガ様! 廊下を走らないでください! マラグ様も、柱で拳を鍛えない! 皇城の柱はサンドバッグではありません!」
「カッカッカ! 堅いことを言うなミリア! 孫の顔を見るのに遅れてたまるか!」
「お主は義理の祖父といったところじゃろう! こっちは血の繋がった孫とひ孫じゃぞ! 先を譲れい!」
ドヤドヤと部屋に入ってきたのは、この世界を動かす「家族」たちだ。
先頭を切って飛び込んできたのは、永遠の若さを保つ我が親友、アリス。
両手いっぱいに、エルフの里から届いたばかりの果物と野菜を抱えている。
「アリスおばちゃーん!」
「ノアちゃん! うりうり、また筋肉増えた? 上腕二頭筋がカチカチだよー!」
アリスがノアを抱き上げ、高い高いをする。五歳児とは思えない密度の体重を、アリスは強化魔法なしで軽々と支えている。彼女もまた、この数年で農作業によりフィジカルが仕上がっているのだ。
続いて、ラノリアからは「週末婚」で通ってきている国王夫妻――ギルベルトとミリアが入室する。
「やあ、レヴィーネ姐さん! 今日のメインディッシュは、ラノリア牛の最高級サーロインを持ってきたぞ!」
「野菜もバランスよく摂ってくださいね。……それとレヴィーネ様、先月の壁修繕費の請求書ですが……ああもう、また新しい箇所が増えてるじゃないですか! イリス、即座に見積もりを!」
ミリアが砕けた壁を見て悲鳴を上げるが、その顔はどこか楽しそうだ。
彼女の薬指には、ラノリア王家の証である指輪が光っている。二人の「姉弟国」経営は順調そのもので、V&C商会の株価は天井知らずだという。
そして、好々爺モード全開の二人の英雄。
トヨノクニのノブナガと、北のマラグお祖父様。
「おお、ノア! ワシのひ孫よ! 今日は『特注ダンベル』を持ってきたぞ! 五キロじゃ!」
「いやいや、そこは『鉄扇』じゃろう! ほれノア、これで『是非もなし』と言ってみせい!」
二人の老人が、五歳児におもちゃを貢いでいる。
「まったく……。騒がしい食卓ですこと」
わたしは呆れながらも、口元が緩むのを止められなかった。
西からは肉とワイン。
東からは米と魚。
北からはキノコと山菜。
南からはスパイスと果実。
大きなテーブルの上には、世界中の「美味しいもの」が所狭しと並べられている。
かつては国境という壁に阻まれ、輸送コストという距離に阻まれていた食材たちが、今はこうして一つの食卓に当たり前のように同居している。
それは、わたしたちが「道」を作り、守ってきた平和の証だ。
「さあ、全員揃いましたわね。……席につきなさい」
わたしの号令で、世界最強の面々が椅子(特注強化品)を引く。
アレクセイがワインを注ぎ、ミリアがサラダを取り分ける。
「では、日々の糧と、騒がしい家族に感謝して」
わたしはグラスを掲げた。
「「「いただきます!!」」」
カチャカチャと食器の音が響く。
「んまー! このコロッケ最高! 中身はずんだ!?」
「アリス殿、それはトヨノクニの新作じゃ! 合うじゃろう?」
「ソレン、野菜も食え。筋肉にならんぞ」
「分かってますよギル義兄上! でも肉が美味すぎて……!」
「ママ! パパ! このお肉、口の中で溶けちゃうよ!」
「ふふ、よく噛んでお食べ。……レヴィーネ、君も」
アレクセイが、わたしの皿に切り分けたステーキを乗せてくれる。
わたしはそれを口に運んだ。
噛み締める。
肉汁が溢れる。
スパイスの香りが抜ける。
そして、みんなの笑い声が聞こえる。
「……ん。美味しい」
わたしは目を細めた。
かつて、病室の白い天井を見上げていた少女は、こんな未来を想像できただろうか。
悪役令嬢として転生し、物理で壁を壊し、道を作り、国を作り。
そして今、愛する人たちに囲まれて、最高のご飯を食べている。
(退屈しない人生……。ええ、満点ですわ)
わたしは、隣で幸せそうに笑う夫の手を、テーブルの下でそっと握った。
彼もまた、強く握り返してくる。
窓の外には、鉄道が走り、飛空船が舞う、発展した皇都の街並み。
この世界は、まだまだ面白くなる。
ノアが大きくなる頃には、もっと遠くへ、もしかしたら星の外へだって行けるかもしれない。
「……楽しみですわね」
「何か言ったかい?」
「いいえ。……おかわりを所望しただけですわ!」
「ははっ、了解だ、我が女帝陛下」
賑やかな笑い声は、いつまでも、いつまでも響いていた。




