第187話 誕生、エレノア。その手は「母の指」を握りしめて離さない。
そして、季節は巡り。
窓の外の木々が色づき始めた、秋の夜のこと。
皇城の寝室は、静かな月明かりに包まれていた。
臨月を迎え、大きくせり出したお腹を抱え、ベッドに横たわるわたし。
その傍らには、いつものようにアレクセイが椅子に腰掛け、わたしの手を握っていた。
「……随分と、下がってきましたわね」
わたしは、自分の腹部をさすった。
岩のように硬く、そして温かいその膨らみ。
中には、わたしと彼と、そして神様の祝福を受けた「命」が詰まっている。
「ああ。……もういつ生まれてもおかしくないと、アリスも言っていたよ」
アレクセイは、愛おしそうにわたしのお腹を見つめた。
その瞳は、かつて「氷の皇子」と呼ばれた頃の冷徹さは微塵もなく、ただただ甘く、とろけるような熱を帯びている。
彼はそっと、わたしのお腹に耳を寄せた。
「……聞こえるかい? パパだよ」
アレクセイが、猫なで声で語りかける。
外では冷徹な政治家であり、現場では鬼の監督である彼が、この部屋でだけはただの甘い父親になる。
「早く出ておいで。……君に会えるのを、世界中の誰よりも楽しみにしているんだ」
彼はわたしの膨らみにキスを落とし、うっとりと呟いた。
「ああ……愛しい、僕らの天使ちゃん」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間。
わたしの脳裏に、強烈な既視感が走った。
あれは――わたしがまだ、言葉も話せない赤ん坊だった頃。
いいえ、もっと前。光を見る前の、温かい闇の中にいた頃の記憶。
壁の向こうから、甘く、柔らかな声が聞こえていた。
『ああ、イリーザ。……今日も動いたね。なんて愛おしいんだろう』
ヴィータヴェン辺境伯、ユリス。
普段は騎士団を率いる凛々しい父様だが、母様の前ではいつも甘々だった。
彼はわたしのいる場所に向かって、毎日のように頬ずりするように語りかけていたのだ。
『早く会いたいな。……世界一可愛い、ぼくらの天使ちゃん!』
優男風の柔和な顔をさらにデレデレに崩して、花が飛ぶような幻覚が見えるほどの甘い声。
胎内にいたわたしは、そのあまりの親バカっぷりと糖度の高さに、「……うるさいですわね、お父様。安眠妨害ですわ」と呆れ果てて、ドンと壁を蹴ったものだ。
まさか、世界一知的でクールだと思っていた我が夫の口から、同じ台詞を聞くことになるとは。
「……アレク。あなた、キャラが崩壊していますわよ?」
わたしがジト目で指摘すると、彼は平然と顔を上げた。
「崩壊? いいえ、これが正常進化だ。……自分の娘を天使と呼ばずして、何と呼ぶんだい?」
「まあ、そうですけれど……。お父様って、みんなそうなりますの?」
「なるさ。……君のお義父上の気持ちが、今なら痛いほどよく分かるよ」
アレクセイは、幸せそうに微笑んだ。
その笑顔を見ていると、呆れる気持ちよりも、愛おしさの方が勝ってしまう。
きっと母イリーザも同じ気持ちだったのだろう。
「……ふふ。血は争えないわね」
わたしが彼の手を握り返そうとした、その時だった。
ドスッッッ!!!
「ぐっ!?」
わたしのお腹の中から、強烈な「蹴り」が放たれた。
それも、可愛らしい胎動ではない。正確に、耳を当てていたアレクセイの頬骨を狙った、鋭い一撃だ。
「い、痛っ……!」
アレクセイが顔を押さえて仰け反る。
「あらあら。……挨拶代わりの右ハイキックかしら?」
「はは……。いい蹴りだ。……骨の芯に響くよ」
アレクセイは、赤く腫れた頬をさすりながら、それでも嬉しそうに笑った。
「間違いなく、君の子だ。……強くて、元気な女の子だ」
「ええ。……私も昔、父様に同じことをしましたもの」
わたしはお腹を撫でた。
内側から返ってくる、力強い反応。
それは、かつて病室の天井を見上げ、死に怯えていた「鷹乃」には決して手に入らなかった、圧倒的な生命力の証明だった。
◆◆◆
その数日後。
運命の時は、唐突に訪れた。
「――っ!! き、来ましたわ!!」
深夜の皇城に、わたしの叫びが響いた。
破水。そして、襲い来る陣痛。
「レヴィーネ様!? 準備! 準備を!」
「お湯! 清潔な布! それと『予備のベッド』を!!」
ミリアが叫び、アリスが走り回る。
皇城の奥に設けられた分娩室は、一瞬にして戦場と化した。
その分娩室の扉の外、廊下の待合スペースには、そうそうたる面々が集結していた。
「うおおおお! まだか! まだ生まれんのか!!」
廊下を行ったり来たりしているのは、豪快な筋肉の塊、わたしの祖父マラグだ。
北の辺境から、蒸気機関車を乗り継いで駆けつけたらしい。
「お祖父様、落ち着いてください。……義兄上が気を失いそうです」
マラグをなだめているのは、わたしの弟、ソレン。
まだ十代前半だが、大陸横断工事で鍛え上げられた体躯は大人顔負けだ。
彼は丁寧な口調で、しかしわたしの弟らしく堂々としていた。
その視線の先には、顔面蒼白で壁に手をついているアレクセイがいる。
「……大丈夫だ、ソレン。私は……大丈夫だ」
「義兄上、足が震えてますよ。……僕が支えましょうか?」
「カッカッカ! 情けないぞアレクセイ! 腹を据えんか!」
そして、マラグの背中をバシバシと叩きながら笑っているのは、派手な南蛮マントを羽織った男。
トヨノクニの天下人、オダ・ノブナガだ。
「まさかノブナガ様までいらっしゃるとは……」
ソレンが呆れたように呟く。
「当たり前よ! わが娘同然のレヴィーネの一大事ぞ? 新しく開通した『超特急』に乗ってくれば、トヨノクニから一日じゃ!」
ノブナガは扇子をパチリと鳴らした。
大陸横断鉄道の開通により、世界の距離は劇的に縮まっていた。
「それにしても……」
ノブナガが懐から硬貨を取り出し、ニヤリと笑った。
「賭けといこうではないか。……生まれてくる赤子が、最初に何を『掴む』か。余は『扇子』に賭けるぞ」
「ガハハ! ワシは『ダンベル』じゃ!」
マラグが即答する。ソレンは少し考えてから、真面目な顔で言った。
「僕は『ツルハシ』だと思います。義兄上との思い出の品ですから」
男たちが馬鹿な賭けに興じる中、中からは、「ひぃぃぃー!」「ふぅぅぅー!」という呼吸音と共に、何かが破壊される音が断続的に響いていた。
◆◆◆
「……っ、ぐうぅッ!!」
わたしは分娩台の上で、襲い来る痛みと戦っていた。
痛い。
骨盤が砕けそうなほど痛い。
数々の魔獣と戦い、神様とプロレスをしてきたわたしだが、この痛みは種類が違う。
「レヴィちゃん! 頑張って! 痛みを和らげる魔法、かける!?」
アリスが涙目で杖を構える。
だが、わたしは脂汗を流しながら首を横に振った。
「い、いらないわ……! この痛みは……この子が生きようとしている証拠……! わたしが、受け止めなくて、どうするのッ!!」
「レヴィちゃん……!」
「それに……こんな痛み、スクワット一万回に比べれば……屁でもありませんわぁぁぁッ!!」
わたしは分娩台の手すり(特注のミスリル合金製)を握りしめた。
メキメキメキッ……!
「ひぃぃッ!? レヴィーネ様、手すりが! 手すりが飴細工みたいに!」
ミリアが悲鳴を上げる。
「吸って! 吐いて! ……いきんで!!」
産婆のエルフの声に合わせて、わたしは全身全霊の力を込める。
腹筋。背筋。そして、括約筋。
鍛え上げた全ての筋肉を総動員し、新しい命を世界へと押し出す。
「ぬおおおおおおおおおッッ!!!」
ドゴォォォォンッ!!
わたしが力を込めた瞬間、衝撃波が走り、分娩室の窓ガラスが全て砕け散った。
「わああああ! 結界! 結界張って!!」
「建物が持たない! ヒデヨシさん、補強を!!」
ミリアがインカムで指示を飛ばし、屋外で待機していた黒鉄組が、建物の壁を支えるために殺到する。
前代未聞の、物理破壊を伴う出産。
そして。
「オギャアアアアアアアアアアアアッッ!!!!!」
世界を震わせるような、力強い産声が響き渡った。
「う、生まれた……!」
「元気な……女の子です!」
産婆が抱き上げた赤ん坊は、血色良く、そしてへその緒がついたまま空中で手足をバタつかせ、まるで「受け身」を取るかのような動きを見せた。
「……はぁ、はぁ……」
わたしは全身の力が抜けるのを感じながら、その小さな塊を見つめた。
わたしの、子供。
わたしとアレクセイの、新しい物語。




