第184話 神様、降臨。美味しい匂いにつられて残業を抜け出してきました。
皇都アクシスを見下ろす、風の吹き抜ける小高い丘。
そこにある四阿の下で、世界を騒がせた「黄金のトライアングル」の三人は、湯気の向こう側にある平和を噛み締めていた。
グツグツと音を立てる土鍋から立ち上るのは、食欲を暴力的に刺激する香り。
けれどそれは、単なる香辛料の刺激ではない。まろやかで、奥深く、そしてどこか懐かしい「大地の香り」だ。
「……ん。絶妙ですわね」
わたしは、熱々のスープをレンゲでひと掬いし、口に運んだ。
舌の上で最初に広がるのは、トヨノクニ特産の「熟成味噌」と、ラノリア名物「ウマ辛味噌」が融合した、濃厚なコクとピリッとした刺激。
直後に、それらを優しく包み込む「豆乳」のまろやかな甘みが追いかけてくる。
あわや「カレー風味」になってしまいそうなほどふんだんに使われた西方連邦のスパイス群を、豆乳と味噌の厚みがしっかりと受け止め、あくまで「鍋料理」としての調和を保っている。
まさに、ギリギリのバランスの上に成り立つ奇跡のスープだ。
「はい、レヴィーネ様。お肉も煮えましたよ」
ミリアが手際よく、わたしの取り皿に具材をよそってくれる。
主役は、薄くスライスされた羊肉だ。
かつては臭みが強いと敬遠されがちだった大陸西部の羊肉だが、これは違う。現地の遊牧民たちが定住を選び、牧畜の規模を拡大する中で品質改良が進んだ上質な肉を、岩塩と特製スパイスで丁寧に揉み込み、下味をつけてあるのだ。
それを、豆乳味噌スープにくぐらせて頬張る。
「……ッ! 素晴らしいですわ」
スパイスの香りを纏った羊肉の野性味が、豆乳の優しさで中和され、噛むほどに赤身の旨味が溢れ出す。
そこへ、大陸中央の開拓地で新しく栽培されるようになった白菜やキャベツの甘み、ネギのシャキシャキとした食感がアクセントを加える。
「ん~っ! この鶏団子もふわふわで最高だよぉ! スープを吸ったお豆腐も熱々でとろけそう!」
隣では、アリスがハフハフと白い息を吐きながら、満面の笑みで鶏団子を頬張っていた。
この豆腐もまた、大陸各地で麦や米の裏作として奨励した「大豆」から作られた、出来たてのものだ。
「物流の勝利ですね」
ミリアが眼鏡を曇らせながら、感慨深げに鍋を覗き込んだ。
「西のスパイス、東の味噌、中央の野菜、そして各地の肉……。鉄道と保冷技術がなければ、これらを一つの鍋で、これほどの鮮度で煮込むことは不可能でした」
そう。この鍋の中には、「世界」が入っている。
わたしたちがレールを敷き、壁を砕き、繋げてきた国々の営みが、この一杯に凝縮されているのだ。
「名付けて、『天下統一・ウマ辛味噌豆乳火鍋風ラム鶏団子ちゃんこ』……といったところかしら」
「長いよレヴィちゃん! でも、味は間違いなく天下統一だね!」
「ええ。……異なる文化、異なる土壌で育った食材たちが、こうして一つのスープの中で喧嘩せずに手を取り合っている。これこそが、わたくしたちが目指した『美味しい世界』の縮図ですわ」
わたしは箸を伸ばし、クミンと唐辛子が効いた羊肉と、出汁の染みたトヨノクニ豆腐を同時に口へ運んだ。
複雑怪奇にして、完全な調和。
これだけの「重み」を持った料理ならば、どんな口うるさい美食家が相手でも――たとえそれが、天上の神様相手であろうとも、唸らせることができるはずだ。
そんなことを考えながら、わたしは空になったお椀を置き、ふと風の吹いてきた方角へ目を向けた。
「……あら?」
美味しい匂いに誘われたのか。
いつの間にか、四阿のすぐそばに、くたびれた鼠色のスーツを着た「誰か」が立っていた。
◆◆◆
風が止まった。
いや、止まったのではない。世界そのものが、一瞬だけ「処理落ち」したような感覚。
「……隣、いいかな?」
声をかけられて初めて、わたしは気づいた。
ベンチの隣に、いつの間にか「男」が座っていることに。
それは、あまりにも風景に溶け込んでいた。
街ですれ違っても絶対に記憶に残らない、サイズが微妙に合っていないヨレヨレの鼠色のスーツ姿。猫背で、酷く顔色が悪く、目の下には何百年も眠っていないかのような濃いクマがある。
どこにでもいる、疲れた中間管理職のおじさん。
――けれど。
(……な、んですの。この感覚は)
わたしの背筋が、警鐘を鳴らしている。
彼は「どこにでもいる」のではない。「どこにでもいられる」のだと。
彼は箸も持たずに、わたしの手元のお椀を覗き込んでいた。その瞳は、濁ったガラス玉のように生気がないのに、わたしがこれまで見てきたどの魔獣よりも、どの王族よりも、圧倒的な「存在の質量」を持っていた。
「……いい匂いだ。昨今の『業務報告』はずっと味がしなかったからね。……一口、もらえるかい?」
彼は力なく笑った。
その笑顔は、残業明けのサラリーマンが、深夜のコンビニ弁当を見た時のそれに酷似していた。
わたしは一瞬、彼が何者かを推し量ろうとしたが、すぐに止めた。
腹を空かせた人間に食事を出す。それは、この国の法以前の、わたしの「流儀」だ。
「……ええ。お口に合うかはわかりませんが」
わたしは新しい器に、たっぷりと具材とスープをよそい、差し出した。
男は震える手でそれを受け取った。
「……いただきます」
彼は、どこかぎこちなく箸を使い、スープを一口、そして具材を口に運んだ。
その瞬間、死んだ魚のようだった目に、生気が宿った。
「……っ」
男は言葉もなく、汁の一滴まで飲み干し、ふう、と深く息を吐いた。
その目には涙が浮かんでいるようにも見える。
「食欲とか空腹感なんて何千年も前に機能を切っているのに、さすがにこれは美味しそう過ぎて、失礼とは思ったけれど、視察名目で来ちゃったよ」
男は空になった器を愛おしそうに撫でた。
「……美味い。ああ、これだよ。私が作りたかったのは、こういう『混ざり合って美味しくなる世界』だったんだ……。どうして私の管理画面からは、この味がしなかったんだろうなぁ」
彼の言葉に、ミリアとアリスが顔を見合わせた。
管理画面。数千年前。視察。
その単語が意味する事実に、二人の表情が凍りつく。
だが、美味しい食事は、神に活力を与えたらしい。
彼は背筋を少し伸ばし(それでも猫背だが)、キラキラとした目でわたしを見つめた。
「レヴィーネさん、きみはやっぱり面白いよ。これまでも私の惑星に刺激をもたらす特異点として他の世界から転生してもらってきたりしたんだけど……」
彼は指折り数えながら、遠い目をした。
「私がこの惑星を管理するようになってからの五万年の間で、君は間違いなく“とびっきり”だよ。……なにせ、紛争解決の手段として東西に割った大陸を、天蓋都市を物理で落として橋にして、道路を作って世界を物理的に繋げちまったんだからね」
「……五万年。それはまた、気の遠くなるような残業時間ですわね」
わたしが皮肉っぽく返すと、彼は身を乗り出し、まるで優秀なエンジニアを引き抜こうとするベンチャー企業の社長のように、熱烈に語りかけてきた。
「ぜひきみをスカウトしたい!」
彼はわたしの手を取った。その手は冷たく、実体がないようにも感じられた。
「君は最高の劇薬だ。この世界に設定されたヒューマンの寿命なんかで使い捨てにするには勿体ない。……どうだい? 私の『副管理者』にならないか?」
「副管理者……?」
「ああ。君なら、モニター越しじゃなく、直接現地で……そうだな、『現場監督』として、君のやりたいように世界をかき回してくれて構わない! 残業代は無限に出すよ?」
現場監督。永遠の命。神の権限。
それは、かつて病室の天井を見上げ、死に怯えていた「鷹乃」であれば、喉から手が出るほど欲しかった条件かもしれない。
だが。
「……好条件ですこと。前の世界の私なら、飛びついていたかもしれませんわ」
わたしはその手をそっと、しかし力強く払い除けた。
そして、空になった鍋を指差した。
「ですが、お断りしますわ。神様」
「……え?」
「ちゃんこが美味しいのは、熱いうちだけ。『いつか冷める』からですわ。……人生も同じ。無限の残業代なんて貰ったら、今日のご飯が不味くなりますもの」
わたしは鉄扇を開き、口元を隠して笑った。
「それに、現場監督ならもうやっていますわ。……この国の『女帝』という名の現場監督をね」
神様は、きょとんとしてわたしを見つめた。
そして、振られたというのに、しょんぼりするどころか、さらに目を輝かせた。
「……ははっ! 言うねえ! やっぱり君は面白い!」
彼はスーツのジャケットを脱ぎ捨て、ワイシャツの袖をまくり始めた。
そのひょろりとした腕に、神々しい闘気が宿り始める。
「でも、私も五万年ぶりの『当たり』を、はいそうですかと見逃すわけにはいかないんだよなぁ……」
彼は首をコキリと鳴らし、わたしを見据えた。
「意見が食い違うなら……どうするんだっけ? 君たちの流儀では」
その言葉に、わたしは全身の血が沸騰するのを感じた。
神様相手に、言葉での説得など無粋。
彼は、わたしの土俵に降りてきてくれたのだ。
わたしはニヤリと笑い、鉄扇を投げ捨てて立ち上がった。
「……ふふ。ええ、リングの上で白黒つけますわ。……それが一番『建設的』ですもの!」
「かまわないとも! 面白くなりそうだ!」




