第172話 誓いのキス? いいえ、それは「世界征服(物理)」の調印式です。
空気が、物理的な質量を伴って爆ぜていた。
大陸の中央、かつて世界を分断していた「大断裂帯」。
今やそこは傷跡ではない。古代技術と東方のからくり、そして「物理」が融合した人類の到達点、皇都アクシスだ。
今日、皇都の象徴である「国立競技場」を埋め尽くした数万の群衆は、理性のタガを完全に粉砕していた。
屋台からは、無料で振る舞われる特製「建国ちゃんこ鍋」の暴力的な香りが立ち込めている。
ヒューマン、獣人、エルフ、ドワーフ。本来交わるはずのなかった種族たちが、巨大な魔導スクリーンを見上げ、歴史が確定する瞬間を今か今かと煽り立てていた。
地鳴りのごとき歓声は、主役の登場を待たずして限界値を振り切っている。
「……素晴らしい轟音ですわね。まるで、これから世界を壊しにいく興行の前のようですわ」
窓ガラスがびりびりと震え続ける控室で、わたしは鏡を見つめた。
最高級の純白ドレス。だが、その布地を内側から押し留めているのは、鋼のごとき「筋肉」だ。
清楚な白が、ドレスの下に秘められた「ドス黒い暴力」を、皮肉にも鮮明に際立たせていた。
「はぁ……レヴィーネ様、最高です。最高に『映えて』います。ああ、やはりこの大胸筋の光沢、広背筋の隆起……私の計算通り、いえ、計算を遥かに超えた神々しさです……!」
背後で、冷徹な宰相面をパージしたミリアが、うっとりとした声を漏らす。プロの手つきで、ドレスの乱れを修正しながら。
「ちょっとミリア、鼻息が荒いわよ。……それに、さっきからドレスの裾を直しすぎじゃない?」
わたしが呆れて振り返ると、ミリアは狂信的な微笑みを浮かべた。
「当然です。今日のレヴィーネ様は、世界という市場における『究極の正解』なのですから。一ミリの乱れも、一ミクロンの損失も許されません。……ああ、アレクセイ様には勿体なすぎます。いっそこのまま、私とアリスさんでレヴィーネ様をどこかへ連れ去ってしまいたいくらいですよ」
「レヴィちゃん! わあ、すごい……本当にお姫様……いや、女帝様だね! レヴィーネ陛下、本日の意気込みを一言!」
いつの間にか隣に来ていたアリスが、聖女の杖をマイク代わりに差し出しながら笑った。彼女も最高礼装だが、中身は相変わらずだ。
「そういえばさ、レヴィちゃん。……アレクセイ殿下……あ、もう殿下じゃないんだっけ? あ、でもレヴィちゃんのお婿さんになるんだから王配殿下? そうなるとやっぱりアレクセイ殿下、でいいのかな……?」
「どちらでもいいんじゃない?……彼自身は『作業員』を自称しているけど。アレクセイ様、と呼べば間違いはないんじゃないかしら」
わたしが苦笑すると、ミリアはスッと眼鏡の位置を直し、本来の顔に戻った。
「アレクセイ殿下といえば……。レヴィーネ様……あの貴族院での、身勝手な追放劇からここまで、本当によく走ってきましたね」
ミリアの声に、戦友への深い情愛が混ざる。アリスもまた、わたしの手をギュッと握りしめた。
「うん。……全部、レヴィちゃんが椅子ひとつでブチ抜いてくれたおかげだね。私、レヴィちゃんに出会えて、本当によかったよ」
わたしは二人の顔を見て、ふっと笑みをこぼした。
この「黄金のトライアングル」の温度だけは、三人で帝国を出てから少しも変わっていない。
「……ええ。だけど、ここからが本番よ。さあ、わたしたちの『国』を、文字通り物理的に盤石なものにするわよ」
わたしは不敵に笑い、重厚な扉を、指先ひとつので押し開いた。
会場は、元天蓋都市の中枢ビル。
本来なら厳粛であるはずの式典会場だが、防音壁をも透過する数万の民衆の「熱」が、室内の空気を振動させている。
そこに座す大陸の支配者たち――「証人」たちもまた、その熱に浮かされ、獰猛な笑みを浮かべていた。
これは「平和条約」の調印式ではない。最強の猛者たちが同盟を結ぶ、血の誓いの儀式だ。
司式を務めるラノリア王ギルベルトが、外の轟音に負けない声を張り上げた。
「これより、婚姻の儀、および大陸共同体条約の調印を執り行う! ……証人たちよ、前へ! 民衆の叫びを聞け! その熱量に応え、其方らの意志を歴史に刻み込むのだッ!」
最初の証人が立ち上がる。ガルディア帝国第一皇女。
彼女が姿を現すと、スクリーン越しの民衆から「帝国万歳!」のコールが巻き起こる。
「おめでとうございます、レヴィーネ陛下。……アレク、皇籍を捨てると言い出した時はどうなるかと思ったけれど、今のあなたは誰よりも強く、雄々しい顔をしているわ」
彼女は万年筆を取り、わたしたちの前へ歩み寄った。
「貴族院のサロンであなたと初めて出会った十年前。あの令嬢が、まさか世界を繋ぐ女帝となられるとは……。父上、兄上からも祝辞を預かっています。……ガルディア帝国は、貴女方二人を祝福いたします」
ペンが紙を走る。書き終わると同時、ドォォォォンッ!! とスタジアムが揺れる。
その余韻を切り裂き、豪快に椅子を鳴らして立ち上がったのは、我が祖父マラグだ。
「ガッハッハ! か細い声援などいらぬ! もっと叫べ、もっと喉を枯らせ! 今日は我が孫娘が、星の頂点に立つ日ぞ!」
マラグはアレクセイの肩を、並の戦士なら即死しかねない力で叩いた。アレクセイが顔色一つ変えずにそれを受け止めると、マラグはさらに破顔した。
「良い体幹だ、アレクセイ! お前が孫娘の『楔』になるというのなら、わしも武人として、一人の男としてお前を認めよう。存分にこの星を耕してこい! ……北のハニマルは、お前ら二人を祝福するぞッ!」
署名がなされるたび、歓声のボルテージは階段を登るように上がっていく。
続いて、ギルベルト自身も教皇としてのペンを執った。
「筋肉がもたらす揺るぎない力と、陛下がこの大陸に示した圧倒的な速度! それこそが、迷える衆生を導く新たな福音となるでしょう!」
彼はアレクセイの瞳を見つめ、力強く頷いた。
「アレクセイ殿、君が彼女を支えるその背に、聖なる加護があらんことを。……聖教国ラノリアは、貴女方二人を祝福いたします!」
四人目。不敵な笑みを隠そうともせずに歩み出たのは、トヨノクニの天下人、ノブナガだ。
彼がスクリーンに映った瞬間、東方の民たちから割れんばかりの歓声が上がる。
「カッカッカ! 良い熱気だ! この狂乱こそが、新しい時代の産声よ! 貴様が敷く鉄の路、余の天下を走らせるのが今から楽しみだ。古い理を轢き殺し、退屈な世界を物理で塗り替えろ!」
ノブナガは、軍記物に判を捺すかのような鋭さで署名を終えた。
「……トヨノクニは、お主ら二人を祝福しよう!」
そして最後の一人。大森林の女王エルウィンが、親友のアリスを伴って優雅にペンを取る。彼女はわたしの隣で、興奮を隠しきれない様子で囁いた。
「……アリスと共に、私も認めよう。おぬしらは、この大陸の緑を、そしてすべての命を繋ぐ『庇護者』じゃ。……それにしても、なんという熱狂じゃ。森では決して味わえぬ、命の奔流を感じるのう」
エルウィンは、署名をしながら、ふと鼻先を動かした。
「……ところでレヴィーネ、この凄まじい熱気の向こうから、あの『ずんだ』の香りがするのじゃが……気のせいか?」
わたしは、噴き出しそうになるのを必死で堪えた。
エルウィンは満足げに居住まいを正し、凛とした声で締めくくった。
「……エルフの里と大森林は、大世界樹とともに、貴女方二人を祝福しようぞ」
すべての署名が終わった。
部屋の温度はサウナのように上がり、外の歓声はもはや音ではなく、肌を叩く衝撃波となって空間を支配していた。
「最後に!! 当事者二名の署名をッ!!」
ギルベルトの叫びが、導火線に火をつけた。
わたしは、隣に立つアレクセイと視線を交わした。かつての帝国第二皇子。「現場監督」としてわたしの前に現れた男。
彼は静かに、わたしの前で片膝を突いた。その瞬間、民衆の叫びが一瞬だけ、さらに一段階跳ね上がる。
その動作は、騎士の礼というよりは、これから始まる果てしない「労働」への覚悟を秘めたものだった。
「……改めて誓おう、レヴィーネ。私は今日、帝国という殻を完全に脱ぎ捨て、君という女帝に仕える最も頑丈な『楔』になる。大陸の果てまで、君の覇道を支え続けるよ、陛下」
わたしは、漆黒の万年筆を手に取った。この一本のペン先が、今、大陸全ての「理不尽」を書き換えようとしている。
「……一生などという、生ぬるい言葉は不採用ですわ。わたくしがこの世界に飽きるまで、永遠に働きなさい。これは雇用契約であり、運命のタッグマッチ。逃げることは許しませんわよ?」
わたしは羊皮紙に、自らの名を力強く刻みつけた。ペン先が紙を削る音が、魔導マイクを通じて民衆の心臓を叩く。
「望むところだ、陛下」
アレクセイが、わたしの署名のすぐ隣に、自らの名を記した。
書き終えた、その刹那。
「「「レヴィーネ陛下万歳!!!! アレクセイ殿下万歳!!!!」」」
理性のタガも、計測器の針も、すべてが吹き飛んだ。
数万の民衆が一斉に拳を突き上げ、歓喜の叫びを上げている。それは祝福の声であると同時に、新しい時代の幕開けを告げる「ゴング」の音色であった。
わたしは、アレクセイの手を強引に引き、彼を立ち上がらせた。そして、カメラの向こう側にいるすべての民に向けて、不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「連邦皇国国民諸君! よくぞ吠えました!! この国に足りなかった『優秀な政治家』は手に入れましたわ! これであなたたちの生活を支えるインフラ整備は、さらに加速しますわよ!!」
わたしは、高らかに鉄扇を開いた。
「腹を空かせて待っていなさい。私がすべての理不尽を轢き殺し、最高のご飯を届けて差し上げますわ! ――わたくしの支配する世界へ、ようこそ!」
熱狂の渦は留まることを知らない。祝福の鐘さえも歓声にかき消されそうだ。
鉄と筋肉、そして飽くなき食欲が支配する、新しい時代の「汽笛」が鳴り響いていた。
「……ふふ、陛下、完璧です。今のスピーチで、支持率がさらに跳ね上がりました。……さあ、レヴィーネ様。お仕事はおしまいです」
ミリアが、いつの間にかわたしの隣で、いたずらっぽく耳打ちしてきた。
「お祝いのちゃんこ、冷めないうちに平らげに行きましょう。ずんだも、これでもかってくらい用意させましたから……ずんだに埋もれたいというエルウィン様の願いも、厨房が叶えてくれるはずです」
「ええ。行きましょう。アレク、遅れないでくださいませ?」
わたしが振り返ると、アレクセイは苦笑しながら、しかし確かな信頼を瞳に宿して頷いた。
「ああ。君の覇道と食欲に追い付くのは大変そうだが、死ぬ気でついていくよ」
わたしたちは、証人たちの拍手と、民衆の絶叫に包まれながら、新時代の扉を物理的に押し開いて進む。
悪役令嬢レヴィーネ・ヴィータヴェンの、本当の意味での「建国」が、今ここに始まった。




