第170話 再会と鉄拳制裁。……そして、泥だらけのプロポーズ。
轟音が止み、舞い上がった土煙が、朝の風に流されていく。
『神代の岩盤』と呼ばれた絶対の壁は、もうそこにはない。
あるのは、東から西へと貫通した、巨大な風穴だけだ。
その穴の向こうから、眩しい朝日と共に、ひとつの集団が歩いてくるのが見えた。
泥にまみれ、髭を伸ばし、服などボロ布同然になった男たち。
『帝国道路公団・第一開拓旅団』。
東の魔境を制覇した、最強の土木戦士たちだ。
「……姉上ぇぇぇッ!!!」
先頭を切って飛び出してきたのは、泥だらけの少年――ソレンだった。
彼はわたしの姿を見つけるなり、地面を蹴って弾丸のように飛んできた。
「ソレン!」
わたしが両手を広げると、ドスゥン! という重い衝撃と共に、彼はわたしの胸に飛び込んできた。
以前なら抱きとめるのも容易だったけれど、今は少しよろめくほどの重さと、硬い筋肉の感触がある。
「会いたかった……! ずっと、ずっと会いたかった……!」
ソレンはわたしの胸に顔を埋め、泥で汚れるのも構わずにしがみついてきた。
その体は小刻みに震えている。
わたしは、土埃と汗の匂いがする弟の背中に腕を回し、ふう、と小さく息を吐いた。
「……まったく」
わたしは、泥だらけになった彼の頭を、優しく撫でた。
「まだ生まれたばかりのあなたに『家と領地を守りなさい』と言ったというのに、こんなところで泥まみれになって……」
かつて揺り籠の中で、何も知らずにあくびをしていた赤ん坊。
その子に一方的な契約を押し付けたのはわたしだ。
それなのに、その契約を放り出してまで、こんな危険な最前線まで来てしまうなんて。
「……仕方のない子」
呆れたような、けれど愛おしさが溢れる言葉が漏れた。
叱る気になど、なれるはずがない。
この無鉄砲さも、行動力も、間違いなくわたしの弟なのだから。
わたしは体を離し、真っ直ぐに彼の目を見つめた。
そこにあるのは、もう守られるだけの弱々しい光ではない。
「でも、強く、大きく育ったのね、ソレン」
わたしの言葉に、ソレンの瞳からボロボロと大粒の涙が溢れた。
「はいっ……! 姉上に、追いつきたくて……!」
「ええ。合格ですわ。……私の自慢の弟」
わたしが微笑むと、ソレンは破顔し、何度も袖で顔を擦った。
そして、ソレンの後ろから、一人の男がゆっくりと歩み出てきた。
かつての、白磁のような肌をした美貌の皇子の面影はない。
肌は日に焼け、無精髭が生え、髪は乱雑に縛られている。
着ているのは作業着。手には使い込まれたツルハシ。
そして腰には、帝国の至宝であり彼の魂の形である二振りの命具『焔創剣』と『氷壊槍』が無造作に提げられている。
けれど、その立ち姿は、どんな煌びやかな正装の時よりも王者の風格を漂わせ、そして何より――野性的で、どうしようもなく魅力的だった。
アレクセイ・ガルディア。
わたしが、3年間待ち続けた男。
「…………」
「…………」
互いに歩み寄り、数メートルの距離で立ち止まる。
アレクセイは、眩しそうにわたしを見つめた。
まるで、世界で一番高価な宝石を見るような、熱っぽい瞳で。
「……待たせたね」
その第一声は、掠れていて、けれど温かかった。
「美しくなった。……3年前の通信越しよりも、ずっと」
「当たり前ですわ。誰の女だと思っているのです?」
わたしが憎まれ口を叩くと、彼は相好を崩した。
そして、わたしの前に膝をつく。
泥だらけの地面など気にせず、彼は懐から小さな革袋を取り出した。
「約束通り、身一つで来たよ。……皇族の地位も、名誉も捨ててきた。今の私にあるのは、この身体と、君の国まで繋げた『道』だけだ」
彼は革袋を開け、中から一つの指輪を取り出した。
東の樹海で見つけたという、珍しい金属を削り出して作った、無骨でシンプルな指輪。
けれど、それはどんな宝石よりも輝いて見えた。
「レヴィーネ・ヴィータヴェン。……私と、結婚してくれ」
世界が静まり返る。
直球のプロポーズ。
わたしは、扇子で口元を隠すのも忘れ、その指輪を見つめた。
嬉しい。
心臓が破裂しそうなくらい、嬉しい。
今すぐ「イエス」と言って、彼に抱きつきたい。
――ですが。
それはそれ。これはこれ、ですわ。
「……アレクセイ」
わたしは静かに、彼の手から指輪を受け取った。
そして、それを自分の左手の薬指に嵌める。
サイズはぴったりだ。
「……受けて、くれるのか?」
アレクセイが、安堵と歓喜の表情で立ち上がろうとした。
その瞬間。
「ええ、謹んでお受けしますわ。……ですがッ!!」
わたしは右手を握りしめ、拳を作った。
魔力充填。身体強化。だめだ、にやけてしまって魔力も力も流れていってしまう。
照れ隠し? いいえ、教育的指導です!
「3年間の音信不通! その分の利息は、高くつきますわよぉぉぉッッ!!!」
ドガッッッ!!!!!
わたしの右ストレートが、アレクセイの頬に綺麗に突き刺さった。
手加減するつもりはなかったのに、これでは竜も殺せない『悪役令嬢パンチ』だ。
「ぶふっ!?」
アレクセイが吹き飛ばされ、数メートル後方へ転がる。
東側の男たちが「ひぇぇっ!?」と悲鳴を上げ、西側のミリアとアリスが「やったー!」と喝采を上げる。
「痛っ……」
アレクセイは頬をさすりながら、起き上がった。
口の端が切れている。
けれど、彼は怒るどころか、今までで一番嬉しそうに笑った。
「……ははっ。効くなぁ。……やっぱり君は、最高だ」
「当たり前ですわ! ……もう二度と、私を待たせないとお誓いなさい!」
「ああ、誓うよ。これからはずっと、君の隣にいる」
彼は立ち上がり、両手を広げた。
わたしは、今度こそ我慢できずに地面を蹴った。
彼の胸に飛び込む。
汗臭い。泥臭い。鉄の匂いがする。
でも、それがたまらなく愛おしい。
「……おかえりなさい、馬鹿な人」
「ただいま。……愛しているよ、レヴィーネ」
彼はわたしを力強く抱きしめ、そして顔を近づけてきた。
わたしは目を閉じる。
泥だらけのキス。
それは、どんな甘いお菓子よりも濃厚で、わたしたちの造った『道』の味がした。
「「「ヒューーーーッッ!!!」」」
「「「おめでとうございまぁぁぁすッッ!!!」」」
わあっと歓声が沸き起こる。
ヒデヨシが号泣し、ソレンが「義兄上、顔がだらしないです!」と野次を飛ばし、アリスが魔法で花吹雪を舞わせる。
誰も彼もが笑っている。
わたしたちは唇を離し、互いの泥だらけの顔を見て吹き出した。
「酷い顔ですわよ、あなた」
「君こそ。……世界一美しい皇帝陛下が台無しだ」
アレクセイはわたしの頬についた泥を親指で拭い、わたしの腰を抱き寄せたまま、集まった数万の民衆に向かって宣言した。
「見よ! 道は繋がった! 今日この瞬間、東と西は一つになったのだ!」
オオオオオオオッッ!!!
地鳴りのような咆哮が、大陸中に響き渡る。
それは、新しい時代の幕開けを告げる産声だった。
わたしは彼に寄り添いながら、東の空を見上げた。
雲一つない青空。
そこにはもう、わたしたちを隔てる壁は何もない。
「さあ、アレクセイ。……お仕事は終わりですわ。次は祝賀会ですわよ!」
「ああ。……腹が減ったな。西の飯は美味いんだろう?」
「ええ、とびきりのをご馳走しますわ。……覚悟なさい!」
こうして。
長く苦しい、けれど最高に楽しかった「大陸横断計画」は、一組のカップルの成立と共に、大団円を迎えたのである。




