第167話 東からの開拓。魔境の森を、執念と物理で切り拓け!
大陸東部。
そこは、かつて誰も踏み入ることのなかった未踏の魔境、『帰らずの樹海』の深部だった。
有史以来、文明を拒絶し続けてきた「緑の壁」。
鬱蒼と茂る巨木が空を完璧に覆い隠し、昼間でも夜のような暗闇が支配するこの場所は、呼吸するだけで肺が腐ると言われるほど高濃度の瘴気が漂っていた。
樹木そのものが意思を持つかのように絡み合い、侵入者の退路を断つ。
だが今、その千年の静寂は、無機質な金属音と男たちの咆哮によって、物理的に引き裂かれていた。
「おおおおおおッ!! 引っこ抜け、野郎どもぉぉッ!!」
「根っこが岩盤に噛んでやがる! 土魔法部隊、地盤を液状化させろ! 一秒でも早く地面を腐らせろッ!」
「右翼から魔獣の群れだ! 聖騎士団、前衛! 斧を捨てて盾を持て! 工事車両を守り抜けッ!」
泥と汗、そして魔獣の返り血にまみれた男たちが、大地にしがみつく巨木と格闘していた。
『帝国道路公団・第一開拓旅団』。
その実態は、かつてのガルディア帝国軍、ラノリア聖騎士団、そして没落した貴族の私兵団や荒くれの冒険者たちで構成された「罪人の掃き溜め」であり、同時に「最強の土木軍団」でもあった。
かつては国境を挟んで殺し合い、身分を競い合っていた彼らが、今はただ一つの目的――「西へ道を通す」ためだけに、互いの背中を預け、泥にまみれて斧やツルハシを振るっていた。
その最前線。
誰よりも泥にまみれ、誰よりも重い斧を振るう一人の男がいた。
「――ふんッ!!」
銀閃。
男が放った一撃が、魔力を帯びて鉄よりも硬いと言われる『鉄魔木』の巨躯を、バターのように両断した。
ズズズズズゥゥゥン……!!
地鳴りとともに、数百年この地を支配してきた王者が倒れ伏す。
男は額の汗を乱暴に拭い、荒い息を吐きながら、折れた斧の柄を捨てた。
アレクセイ・ガルディア。
かつての帝国第二皇子であり、今は一人の「現場監督」として、荒くれ者たちを束ねる男である。
「義兄上! 切り株の除去、終わりましたよ!」
その背後から、不釣り合いなほど元気な声が響いた。
振り返れば、自身の背丈の三倍はある巨大な切り株を、根っこごと引っこ抜いて軽々と担いでいる少年の姿があった。
ソレン・ヴィータヴェン。
レヴィーネ・ヴィータヴェンの実弟にして、この旅団の「マスコット」であり、同時に軍団最強の「重機」代わりでもある特攻隊長だ。
「……相変わらず、出鱈目な馬鹿力だな。……ソレン、それは十人がかりで動かなかった代物だぞ」
アレクセイは苦笑し、手渡された水筒の水を一気に煽った。
七歳の子供が、大人たちが匙を投げた巨大な根を一人で運んでいる。
やはり、あの姉の弟だ。ヴィータヴェン家の血は、遺伝子のレベルで物理法則に喧嘩を売っている。
「姉上に比べたら、これくらい準備運動にもなりません! ……それより義兄上、向こうの測量班が『沼地』を見つけたそうです。底なし沼が数キロに渡って続いてるとか。……迂回しますか?」
「いや。迂回すれば三日のロスになる。……埋め立てるぞ。……切り倒した木を叩き込み、その上から魔力で固めた土を流せ。この道は『直線』であることに意味がある」
アレクセイは即断した。
その瞳には、皇族特有の傲慢さではなく、現場を預かる指揮官としての冷徹な意志が宿っていた。
かつての彼なら、安全策を取ったかもしれない。予算や兵員の疲弊を計算し、リスクを避けていただろう。
だが、今の彼は違う。
西から、大陸そのものを「栓」で塞ぎながら迫ってくる「彼女」の背中を、幻視しているからだ。
「彼女なら、迷わず直進する。……ならば、我々も引くわけにはいかない」
作業の合間、アレクセイは泥だらけの手を拭い、懐から通信機を取り出した。
端末には、西側の中継地点――ミリアからの定期報告が届いている。
『天蓋都市、降下成功』。
その短い一文に込められた異常なまでのスケール感に、アレクセイは眩暈を覚えた。
彼は、通話ボタンに指をかけようとして、止めた。
指先を見れば、爪の間にまで泥が入り込み、皮膚はひび割れ、マメだらけになった「労働者の手」があった。
それは彼がこの数ヶ月、自らの足で大地を踏みしめてきた誇るべき勲章だ。
だが同時に、「まだ何も成し遂げていない男の手」でもあった。
「……義兄上? 姉上に、連絡しないんですか? 毎日着信履歴だけ溜まってますよ」
ソレンが、泥のついた顔を覗き込むようにして聞いた。
アレクセイは、自嘲気味に笑って通信機を懐深くへとしまい込んだ。
「ああ。……しない。……いや、今の私には、できない」
「どうしてですか? 姉上、きっと心配してますよ? ……まあ、『あの腹黒皇子、どこかの溝で野垂れ死にましたの? 掃除の邪魔ですから早く片付けなさいな』とか言いそうですけど」
「はは、まさに言いそうだな。……だがソレン。今の私を見ろ。……皇籍を捨て、きらびやかな法衣も捨て、ただの泥にまみれた作業員だ」
彼は西の空を見上げた。
厚い雲の向こうには、たった一人で国を興し、大陸の裂け目を埋めた、あの傲慢で、美しく、そして誰よりも気高い「女帝」がいるはずだ。
「彼女は、世界の常識を物理でねじ伏せて進んでいる。……そんな彼女の隣に立つ男が、『今、ようやく沼を半分埋めました』なんて情けない報告ができるか。……私は、彼女に対等な男として認められたいんだ。……甘えるのは、仕事を終えてからだ」
それは、男のプライドであり、ある種の歪んだ完璧主義だった。
レヴィーネを高く見積もりすぎているが故の、幸福な呪縛。
アレクセイにとって、この「東方ルート」の開通こそが、人生で唯一、彼女に捧げられる価値のあるものだと信じていた。
「道が繋がり、私が胸を張れる男になったその時……初めて、彼女の名を呼ぶ資格が得られる。……この『東方ルート』こそが、私から彼女への、生涯一度きりの結納品なんだ」
アレクセイの声には、鋼のような意志が宿っていた。
かつての冷笑的な面影は消え、そこには一人の開拓者の魂が燃えていた。
ソレンは、しばらく義兄の顔を見つめ、それから太陽のような笑顔で笑った。
「……やっぱり、義兄上はかっこいいです! めんどくさいし、拗らせてるけど、最高にかっこいいです! ……よーし、姉上に腰を抜かさせるために、僕ももっと頑張りますよ!」
「ああ、頼りにしてるぞ、ソレン! ……総員、休憩は終わりだ! 沼を埋め、森を拓く! 一日でも早く、彼女に会いに行くためにッ!!」
「「「「ウオオオオオッッ!!!」」」」
死に損ないたちの軍団から、地鳴りのような咆哮が上がる。
かつての皇子が、先頭に立って泥の中へ飛び込んでいく姿は、彼らにとっての新たな「王」の姿だった。
◆◆◆
それから数週間後。
樹海を抜け、一行が突き当たったのは、空を突くような巨岩が連なる「死の岩盤地帯」だった。
そこは、通常の重機では刃が立たず、爆薬さえも跳ね返す、古代の魔力を吸って硬質化した岩の城壁だ。
「総員、構えッ! 加熱班、魔力充填! 冷却班、タイミングを外すな! 一秒のズレも許さんぞ!」
アレクセイ・ガルディアの号令が飛ぶ。
彼の背後には、かつて帝都で魔法の研究に明け暮れていた魔導師団が控えていた。
彼らは今、優雅なローブを脱ぎ捨て、作業着姿で杖を構えている。
「放てぇぇぇッ!!」
数百の杖から放たれた極大の炎魔法が、岩盤を太陽のように灼熱に染め上げる。
岩が赤く溶け出す寸前。アレクセイの合図で、逆属性の冷気が一気に叩きつけられた。
ジュワアアアアアアアッ!!
猛烈な膨張と収縮。立ち込める白煙。
だが、岩盤の核心部はまだ砕けない。千年の時を経て練り上げられた魔力の結合は、まだその強固な意志を保っている。
そこへ、アレクセイが躍り出た。
その両手には、皇族のみが継承を許される伝説の「命具」が握られていた。
「――焼き尽くせ、『焔創剣スカーレッド・アーク』!」
紅蓮の長剣が、魔導師たちが温めた岩盤へ、さらに極大の熱量を注ぎ込む。
「――凍てつけ、『氷壊槍グレイシャル・レンド』!」
間髪入れず、蒼氷の槍が絶対零度の冷気を叩き込む。
相反する二属性を同時に、かつ極限の出力で叩き込む。
それができるのは、帝国史上でも希なほどの魔導の才を持ち、さらに現場の「労働」でその才能を実戦形式に鍛え上げたアレクセイだけだった。
パァァァァァンッ!!
乾いた破裂音と共に、ダイヤモンドより硬いと言われた岩盤の表面が、粉々に弾け飛んだ。
衝撃波で作業着がはためく。
「剥離確認! 重機隊、前へ! ……一メートルでも、一センチでも進むんだ! この先に、わたしたちの目的地がある!」
泥と煤にまみれ、顔には火傷の跡さえ作りながら、元皇子は先頭に立ち続ける。
その背中を、ソレンが、そしてかつて彼を「冷徹な皇子」と呼んだ兵士たちが、魂の底からの歓声と共に追いかけていた。
東から西へ。
彼らが拓くその道は、いつか必ず、大陸を貫くあの令嬢の「道」と、運命のように重なり合うはずだ。




