第164話 アリスの決断。私は人間を辞めて、この緑を守る「庭師」になる。
その夜。
執務室で、一本の通信が入った。
相手は、ガルディア帝国第二皇子、アレクセイ・ガルディア。
『やあ。……初代皇帝への即位、おめでとう。レヴィーネ陛下』
通信機から流れる声は、相変わらず人を食ったような、それでいて甘い響きを帯びていた。
「あら、嫌味ですの? ……陛下だなんて、まだ掘っ立て小屋と橋しかない国ですわよ」
『とんでもない。……人材だけ見れば、既に大国に匹敵する盤石さだ』
彼は少し間を置き、言葉を続けた。
『だが、国家を運営し、世界と渡り合うとなれば……「政治のエキスパート」が必要になる。理不尽を直接物理で殴ってきた君たちからすれば、あまり得意な分野ではないだろう?』
「……否定はしませんわ。で、誰か心当たりでもありまして?」
『私さ』
「……は?」
予想外の答えに、思考が一瞬停止する。
『どうだろうか。私を、君の国の「王配」として契約してみないか? ……損はさせないつもりだよ』
ドクン。
唐突な言葉に、心臓が、早鐘を打った。
王配。夫。結婚。
そんな言葉とは無縁の人生だったわたしが、この腹黒皇子に、サラリと言ってのけられたのだ。
前世は病弱な体で、乙女ゲームと小説の中にしか「恋」を知らなかったわたし。今世ではプロレスと筋肉に魂を捧げ、「自分より強い者」以外はオスとして見てこなかったわたし。
そんなこじらせたトータル精神年齢アラフォーの心を揺さぶるこの男は、本当にタチが悪い。
「ま、まあ……。随分と大胆ですのね」
わたしは扇子で顔を仰ぎ、必死に動揺を隠した。
『一顧だにされないという成果だけでも、まずは上々かな。……さて、自分で売り込んでおいて何だが、少しだけ時間が欲しい。実は、兄上の即位のために帝国の地盤を完璧に整えておきたいんだ。……それが済んだら、正式な契約書を持参して、君の元へ面接にうかがうよ』
「……ふん。お手並み拝見ですわね。……私のお婿様になりたいのなら、それなりの『お土産』を用意してきてくださいな」
『ああ、期待していてくれ。……では、また』
通信が切れる。
静寂が戻った部屋で、わたしはベッドに倒れ込んだ。
「……バカみたい。心臓がうるさいですわ」
枕に顔を埋め、足をバタつかせる。
待っていてやる。
どうせ、道を作るのに時間はかかるのだ。
彼が仕事を終えて来る頃には、わたしも大陸の半分を庭にしていることだろう。
――だが。
この時のわたしは知らなかった。
ここから三年間。
彼からの連絡が、プッツリと途絶えることになるなんて。
そして、その沈黙が、乙女心を通り越して、殺意に近い破壊衝動へと変わっていくことを。
一方、テントの外では。
農林水産大臣に就任したばかりのアリスが、エルウィンと二人で星を見上げていた。
「お師匠様……私、決めたよ」
アリスの声は、いつになく真剣だった。
それぞれの道が、ここからまた始まろうとしていた。
◆◆◆
建国宣言から数日が過ぎた夜。
新しい皇都『アクシス』は、宴の残り香と、希望に満ちた静寂に包まれていた。
天蓋都市の縁、星に一番近いその場所で、アリスは一人、眼下に広がる大地を見下ろしていた。
かつて死の砂漠だった場所には、今、若い緑が波打っている。
かつて世界を分断していた大断裂帯は、巨大な橋となって東西を繋いでいる。
それは、レヴィーネが、ミリアが、ヒデヨシたちが、リョウマが、そしてアリス自身が、血と汗と魔力を振り絞って作り上げた奇跡の景色だった。
「……綺麗」
アリスは柵に手をかけた。
月明かりの下、彼女の指先が、蛍火のように淡く、透き通るような翠色に明滅した。
それはもう、人の肌の色ではなかった。
皮膚という境界が曖昧になり、中にある膨大な光が漏れ出しそうになっている。
「……やはり、ここにおったか」
背後から、衣擦れの音と共に、凛とした声が響いた。
振り返れば、エルフの女王エルウィンが、悲しげな瞳で立っていた。
彼女の手には、小さな硝子の小瓶が握られている。中には、星の光を液化させたような、神秘的な雫が揺れていた。
「お師匠様……」
「隠しても無駄じゃよ、アリス。……お主の『器』はもう、限界を迎えておる」
エルウィンはアリスの隣に並び、その明滅する指先をそっと包み込んだ。
師の手は温かい。けれど、アリスの指先には、もう温度が感じられなくなっていた。
まるで、肉体という殻が透けて、光そのものになって消えてしまいそうな儚さだ。
「デメテルと同調し、世界樹の理を操り、荒野を森に変えた代償じゃ。……お主の魂と魔力は、もはや『惑星』規模にまで膨張してしまった。それに引き換え、お主の肉体は脆弱な『人間』のままじゃ」
エルウィンは、諭すように、しかし厳しい現実を告げた。
「巨木を、小さな植木鉢に植えればどうなるか、分かるな? ……根が鉢を割り、土は痩せ、やがて木そのものも枯れてしまう。お主の魂は、お主自身の肉体を燃料にして燃え尽きようとしておる」
アリスは、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。
最近、常に感じていた倦怠感と、身体の奥がチリチリと焼けるような感覚。
それは、自身の莫大な魔力に耐えきれず、肉体が悲鳴を上げている証拠だった。
「……分かって、いました。この3年で、ヒデヨシさんには白髪が増えたし、リョウマさんの目尻には笑いジワができました。……みんな、当たり前に時を重ねて、変わっていく」
アリスは寂しげに笑った。
「でも、私だけは……3年前から何も変わっていない。時が止まったまま、中身だけがどんどん膨れ上がって……このままじゃ、私の体が『燃料』みたいに燃え尽きちゃうってことも」
死よりも恐ろしい、完全な消滅。
肉体も魂も、大気に霧散して跡形もなくなってしまう未来。
「うむ。猶予はないぞ。……お主の指先はもう、物質としての境界を保てておらぬ」
エルウィンは、静かに二つの道を提示した。
「一つは、今すぐ魔法を使うのをやめ、わらわと共に『エルフの里』へ来ること。……世界樹の根本で、溢れる魔力を大地に逃がしながら静養すれば、人間としての寿を全うできるじゃろう。ただし、二度とこの地へは戻れぬ」
それは、魔力を手放し、レヴィーネたちがいるこの場所から去る道。
穏やかな余生と引き換えの、永遠の別れ。
「……もう一つは?」
「……『進化』じゃ」
エルウィンは、手にした小瓶を差し出した。
「わらわの里にある『大世界樹』の雫じゃ。……これを飲めば、お主の肉体は書き換えられる。エルフに生まれ変わるわけではない。精霊でも、ヒューマンでもない……『境界の存在』へと変貌する」
女王の声が、厳かに、しかし震えるように響く。
「エルフとは違う、ヒューマンとエルフの間に生まれるハーフエルフとも違う。……お主は、この世界の理から外れた、独自の『時』の中に身を置くことになる。老いることもなく、死ぬこともなく、ただ膨大な魔力を循環させる『生きた大樹』のような存在にな」
「……」
「そうなれば、お主はこの世にたった一人きりじゃ。……友が老い、子が老い、国が滅び、形あるものが全て砂に還っても、お主だけは変わらずにそこに在り続ける。どの種族にも属さず、理解されることもない」
エルウィンは、アリスの瞳を覗き込んだ。
「永き時は、残酷じゃぞ。……今は『聖女』と崇められても、100年、200年と歳を取らぬお主を、人々はやがて『魔女』と呼び、恐れるようになるかもしれん。……石を投げられ、追われ、孤独の中で森を守り続けるだけの存在になるかもしれんぞ?」
永遠の孤独。迫害への恐怖。
種族としての帰属を失い、ただ観測者として世界に残り続ける呪い。
アリスは、身震いした。
怖い。
大好きな人たちから「化け物」と呼ばれる未来が。
誰とも分かり合えないまま、途方もない時間を一人で過ごすことが。
でも。
アリスは、眼下の景色に視線を戻した。
焚き火を囲んで笑い合う仲間たち。
巫女連の子供たちが、手作りの料理を振る舞っている。
ヒデヨシが肉を頬張り、黒鉄組の男たちが酒を飲み交わしている。
そして、誰よりも強く、誰よりも眩しく笑う、黄金の髪の悪役令嬢。
(レヴィちゃん……)
彼女は人間だ。どれだけ規格外でも、彼女の時間は限られている。
数十年後にはお婆ちゃんになり、やがて土に還る。
その時、この道は? この国は?
もし私が消えたら、この緑は維持できるの?
巫女連の子ども達は、砂漠の厳しさに負けずに生きていけるの?
(ううん、もっと……もっとやりたいことがあるの)
アリスの脳裏に浮かんだのは、ただの現状維持ではなかった。
この黒い道の周りだけじゃない。
もっと遠くの砂漠も、痩せた荒野も、全部緑に変えて。
どんなに貧しい子も、お腹いっぱいご飯が食べられる世界にして。
レヴィーネが作った「面白い世界」を、もっともっと素敵な場所にしたい。
そのためには、今の私のままじゃ、時間が足りない。命が足りない。




